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【人生ノートMagazine】一心が神に通じぬ筈は奈い

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人生ノートの中から信仰とはなんなのか、神さまの世界について触れている部分をまとめてみました。
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【人生ノート299】他人に対しては、おなじ苦しみを与える場合でも、でき得るかぎり、最少限度にとどめるよう努力せねばならぬ。

世の中というもの利己中心に、ひっついたり離れたりしている世の中。 自分にとって、利益にならない人に対して冷やかな世の中。 まして、自己の利益と相反する人に対しては、何かにつえて邪魔あつかいをするのは当然。 世の中はこんなものかと、今日になって知ったのではなけれど、やっぱり、こうしたものか。 ○ でき得るかぎり、自分もなやまず、他人をも苦しめないという方法で、万事を処置してゆきたいものである。 しかいながら、常に、こうはあり得ないものである。 自分の悩むのはいたし

【人生ノート277】なお殺し なお奪わんとするか ああ一尺を譲れよ人のために一椀を減ぜよ人のために

めなしかたまノアの方舟 過ぎされば夢のごとけれど 当時は真剣の悩みなりき 昔のわれのごとくに今ある人々を 顧みぬ心をわれは持たず 願わくはわが泣きしごとく 来ん世の人は泣くなかれ ○ 何千年何万年 おそれあい殺しあい うばいあい恨みあい 血の河はりの山 越え越えて今に悟らず 人のこころ なお殺しなお奪わんとするか ああ一尺を譲れよ人のために 一椀を減ぜよ人のために 行く路にゆとりあらんを 取るパンにあまりあらんを いま見、前に聞くこの苦し

【人生ノート 252ページ】絶大なる意志の所有者を「神」という。

神とは何ぞや 天地万物は関連し統一されている。しかも、絶えず動いている。 いかに動き、いかに変化しても、やはり相関連しており、渾然として統一されている。 複雑微妙なる統一体が、偶然に出来あがるものではない。これ、絶大なる統一意志がはたらきかけているからである。 この絶大なる意志の所有者を「神」という。 『信仰覚書』第七巻 神とは何ぞや 出口日出麿著 【これまでのノート】

【人生ノート 249ページ】みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。

興味もてる仕事を要するに、真実に自己の内心に忠実であったらないのだ。 いかに気ばったところd,英雄ならざる人には英雄のまねはできるはずはないし、哲人ならざる人が、哲人をよそおうことも到底できるものではない。 他人は他人、自分は自分、みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。 無理をすると、どうしても苦悩がともなう。元来、神は人間をその手足として働かせるためには、みなそれぞれに、興味あることをさえして行けば、自然に、その職能が果たしてゆけるよう

【人生ノート 248ページ】とにかく理想に向かって突進すべきである。できる出来ぬは問題ではない、でかすべく努力することがよいのだ。

できる範囲で玉石混交のメチャクチャな世の中がいやになって、こんなことでは、とても一代や二代の間にはどうにもこうにもおさまりはつきそうにもない。自分ひとり、どれほど気張ってみたところで何になる。いっそのこと、どうなりこうなり自分の身だけが無事に食ってだけゆければそれでよい。まア、生まれ変わるまで待たなくては、とても良い目を見ることもできまい。この世の使命はとにかく、こうやって縮こまって、めぐりの借銭なしをしておればよいのだ。と幾度か思うけれども、また一方、 「いや、そうでない

【人生ノート 243ページ】 至公至平に自分というものを見つめることを怠ってはなりませぬ。

信仰は体験で固まる「現界では、その魂の型をくりかえす」ということは、間違いのないことです。たとえば、前生において女で失敗った人は、今世でもまた、ある機械にきっと同様の問題が怒ってくるものです。しかし、ただこの場合、前にしくじったと同じ程度に、今度もまた必ずしくじらねばならぬかというに、決してそうではありません。この場合、その人の信仰と覚悟のいかんによって、前の型はホンの真似だけですんでしまうこともあり、ヘマをやってまごつくと、却って、まえの失敗よりヒドイことをやる場合もありま

【人生ノート 230ページ】 自分が近寄っただけ、神さまは近よられるのである。自分の想念から「神」が去っただけは、神さまから遠ざかってゆくのである。

想念につねに神を因果法則は神律である。努力しただけの効果である。自分が会得したよりほかに、糊でひっつけたりメッキしたりは、決して永久的になし得ることではない。 一日神さまは、祈りに応じて、上へ引きあげては下さるけれども、まだそれは真の会得の結果ではなくして、一時、応急手当として救いあげて下さったまでであるから、そこでその人が、神の慈悲に感泣して、 よく堪えしのび、修業をするならば、はじめてそこにおれる正しい資格を与えられるが、もし慢心が出て、自分はもう完全にここにおるだけ

【人生ノート 221ページ目】 主観はどこからやってくるのか。

主観は霊界に属す 人間心でいろいろと考えずに、万事素直に、周囲より自然に自分にせまって来ることをしていたらよいのだ。ところが、理智が邪魔をして、けしからぬとか、ワシをバカにしとるとか憤慨して、大抵の場合、悪く解釈して反抗的態度に出るからいけない。 なるほど、時には堪えられないとまで考えることもあろう。しかし、それは心の持ち方が間違っているからだ。どんな卑しいことをさせられる場合でも、人を相手とせず、神さまのご命令だと思い、その仕事をできるだけ興味づけ意義づけ、すなわち、霊