4冊目『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』/桜庭一樹
子供が亡くなるニュースを見る度に、海野藻屑を思い出す。特に、虐待の末に命を落とした子供の話題は、彼女を強く思い出させる。
同時に「ああ、生き残れなかったのだなあ」とも思う。そして、如何しようもなく空しくなる。
海野藻屑とは、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に登場する少女だ。
本書は元々、ライトノベルとして刊行され、数年後に一般文芸として刊行し直された珍しい作品である。そして、ライトノベル作家だった桜庭一樹のターニングポイントとなった一冊でもある。この作品がなければ、きっと彼女は直木賞作家になどなれなかったでしょう。嘘、知らないけども。
そんな本書で海野藻屑は『人魚』を自称し、周囲からは『嘘つき』呼ばわりされている。中学生という多感なお年頃に「自分は人魚だ」と言っちゃう辺り、所謂『中二病』の香りがプンプンするのだが、突飛な言動を読者に披露することなく、彼女は冒頭一ページ目にてバラバラ遺体としてA子(一三)に発見される。
一見ミステリー小説かな? と思わされる始まり方だ。けれど、推理篇もなければ解決篇もない。
ただ、”実弾”を持てない少女達が兵士として世界に立ち向かい、生き残ろうとする。
謂わばリアル青春サバイバル小説なのです。
藻屑の戦友となるのが、主人公──山田なぎさだ。藻屑はなぎさに、初対面にも関わらず「死んじゃえ」と暴言を吐く。「死んじゃえ」と言われた当人は当然「おかしな子」だなと思う。そもそも、なぎさは“実弾”にならないものは余計なものと考え、そんなものには関わらずに生きていくと誓っていた。
けれど、おかしな言動を凌駕する美少女っぷりと、放たれ続ける“砂糖菓子の弾丸”に、なぎさは少しずつ惹かれていく。そして二人は友人となり、悲しい結末へと繋がっていくのである。
現代日本に生きる子供兵士達の敵は、実に様々だ。
イジメ、虐待、ネグレクト、貧困、「アクセルとブレーキを踏み間違えた」と宣い「ブレーキが戻らなかったのだ」と車に過失を押しつける無責任運転者による事故、性暴力、エトセトラ。これらの敵に、子供達は抗ったり、回避行動を取ったりする。人によっては受け流したりする。私にも身に覚えがある。
藻屑となぎさも同じだった。彼女達の周りには、彼女達を苦しめる敵がいた。けれど、圧倒的な違いがいくつかあって。片方はバラバラに解体されてしまう。生き残った方は否が応でも気付かされる。
「生き残った子だけが、大人になる。」
大人からしたら、虐待や貧困などを『敵』と称するなんて馬鹿だと思うかもしれない。躾や教育と称した暴力が当たり前の世代だったり、精神的・肉体的な苦痛に耐えきれず自殺という最終手段をとった人に対して「弱いヤツだ」とせせら嗤う人達は、特にそう感じられるかもしれない。
私だって、今が大戦真っ只中だったら「そんなものが敵なんて」と嗤って侮蔑する。けれど現在、愛すべき祖国は、戦争なんてやっていない。それどころか些か不安になる程に平和ボケしている始末。なのに、子供が殺される事案は全く珍しいことではない。今日もまたニュースで繰り返し、子供が殺されている。
誰が子供を殺したか。
山田なぎさが欲した“実弾”を所持している全大人は、目を逸らしたらいけない。
本書が小・中学生向けのライトノベルから一般文芸に格上げ(※決してライトノベルを格下に見ているわけではありません、便宜上の表現として使用しています。悪しからず)した理由は、もしかしたら此処にあるのではという気分になってくる。現代の日本国に生きる子供を見ろ、と。微温湯に浸かり、親を始めとする大人達から無限の愛情を無条件に与えられ、のほほんと生きている子供ばかりではないのだ、と。フィクション小説を通じて訴えてきている気さえしてくる。
勿論、気のせいだろう。ここまでの文章は、大した学もなく、出版のあれやこれやも知らない凡人の妄想である。戯言である。
今日も明日も、生き残りゲームは続いている。
この瞬間も、この世のどこかで砂糖菓子の弾丸を撃ち続けている『海野藻屑』へ。
生き残った過去の『山田なぎさ』より愛を捧げる。
(了)