ニワトリが先か卵が先か【心の病編】
いきなりわけのわからないタイトルで始まりましたがお付き合い頂けたら幸いです。
今回タイトルにした
「ニワトリが先か卵が先か」
意味はだいたいわかりますよね?
要はどちらが先か、わからないよね?ってことです。
今回はこんなポップなタイトルに相反する
「鬱」のお話。
「あっ、そういうの無理!」
って方もいらっしゃると思うのでそういう方は遠慮なさらず違う記事へお進みくださいませ。
またご縁があれば覗いてやってくださいませね笑
遡る事10年以上前の自身の話。
その頃私は飲食店を経営していました。
いわゆる夜職ってやつです。接待を伴う飲食業って最近は呼ぶんですかね?笑
ここ2年近くの”はやり病”でずいぶんとフューチャーされましたよね”接待を伴う飲食業”って、笑。
もう夜職を離れてずいぶんと経ちましたが、この”はやり病”のさなかに自身が経営していたらどうなっていたのかと思います。
経営を続けるため借金をしてでも続けていたでしょうか?
多分、借金して続けていたでしょうね・・・
昔の私ならそうしていたと思います、確実に。
悩みの始まり
前に記事の一部にも触れましたが、私は中学を卒業して就職しましたがほどなくやめてしまい、その後間もなく家を出ました。
当時でも”中卒”は仕事を探すこと自体とても難しく、身元の保証人もいない私は家を出てから、年齢を偽り仕事するしかありませんでした。
そして色々な仕事を経てたどり着いたのが夜職、いわゆるホステスってやつです。
16歳の時にモデルにスカウトされ、レッスンを受けながら細々とモデルの仕事をするものの、一人暮らしをしていた私にはある程度安定した収入が必要でした。
当時、”モデル”いうだけでどのお店も好待遇で働けたので夜職を続けていればモデルの仕事も心置きなく続けることが出来たし、いずれ”モデル業”だけで食べて行けるようになる、それまで・・・なんて超甘い考えで始めた夜職。
幸か不幸か、周りには期待され、さほど努力をしなくてもそこそこの売れっ子になって、働くお店も徐々に高級店(クラブ)に引き抜かれステップアップしていきました。
しかし、高級店ともなると来るお客様の層もそれなりに💦
中卒でろくに勉強などしてこなかった私にとって、決して高級店で働くという事は楽なことではありませんでした。
しかし負けず嫌いの私。
自分で言うのもなんですが頑張りました。爆😎
その努力が実って(?)モデルの仕事はフリーで続けつつ、フリーのコーディネーター、スタイリストなどのお仕事も頂けるようになりました。
この頃は本当に仕事が楽しく他にも副業で色々やっていましたね。
とにかく毎日が充実していました。
そんな感じで数年経過した頃、あることをきっかけに夜職界隈で有名になってしまった私。
(これは言えませんのでご想像にお任せします)
そのせいでどのお店も引っ張りだこに。。。って決してそれは私にとって良い事ではなく、どのお店でも働く気になれなかった私は、自身でお店を持つことに。
そこから若くして使われる側から、使う側になったってわけです。
前置きが超長くてごめんなさい。
でもこれがすでに【鬱】への第一歩だったってわけなんです。
初めて店を持った時
フリーで仕事をしている時は、自分のやるべきことだけに集中できたので気持ちは楽でした。
初めて持ったお店は規模もさほど大きくなく、女の子は3人いれば十分でした。実際みんなお休みして、自分ひとりでお店を回すこともしばしば。
大変だったけど、何とかお店は回せていたことを考えると一人でやっても良かったのかなと思いますが、当時は”女の子を雇っている”という事が
まるで経営者の一つのステータスのように思っていたのかもしれません、私。
ばか者ですね、今思うと 笑笑
紹介で入った子、募集で来た子、それぞれ採用しましたが、いざ使ってみると自分の思っている半分も仕事ができない。
それでも自身のスナックやクラブからのお客様と様々な方々が、来店していただき、お店はおかげさまで大盛況でした。
と言うか、お店が狭かったので実際は入れる人数が限られていたってのもあるんですが、よく満席で帰られるお客様も多かった。
私が思うような接客を女の子が出来るよう、接客マニュアルを作ったり、事細かに教育していました・・・が、全く思うようにいかない。
そんな時、テナントの社長から
「大きい店舗に移ってみない?」
と言われ、好条件で約3倍の大きさの店舗に移転することに。
それに合わせ、店の料金体系も変え、スナックからラウンジに営業形態も変えました。
最初は雑誌等に取り上げてもらった事もありフリーのお客様も増え忙しかったのですがそれも今思うと、当時は足元しか見ていなかったんでしょうね。
客層が変わってしまった事で常連さんの足が遠のき始めたんです。
女の子は在籍は10人、常勤5人~10人。
仕事ができる子もいましたが、ほとんどが一般募集から来たド素人。
初めから仕事を教えなければいけない、当然私自身も接客するので日々の飲酒や寝不足で徐々に身体にガタが来て店に立てなくなり、店を任せて見たもののまるでダメ。
そんな時、プライベートな事情で借金を抱えたまま店を閉店させました。
再び夜職へ
もう夜職はしたくない。
でも借金を抱えたままだった事、当時の夫が安定した職に就かず、収入が不安定だったため、再び夜職へ復帰。
今度はクラブで働いていた時のママが経営しているラウンジに「是非!」と声をかけて頂きそこで2年ほど働きました。
その店のママにはとても可愛がってもらって、後継者にとまで言って頂いていたのですが、仲の良かった”おねぇさん”が独立してお店をやっていて、義理もあってまたまた好条件で移籍。
そして再度後継者にと言うお話を貰ったのですが今度は金銭的に折り合わず、またまた(笑)違うお姉さんが新規開店するお店でお世話になることに。
そしてまたまた(しつこいw)ほどなく経営方針や、仕事への向き合い方が合わずお店をやめ、結局自身で2度目のお店を持つことに。
当時、お客さんは持っていたし、誰より仕事が出来る自負がありました。
頑張った分給料となって結果も出せていたし、引く手あまたでどこだって私を欲しがっていた。
いつの間にかそんな奢りが、自身の判断を狂わせたのかもしれません。
「やっぱり自分でやるしかない」
「出来る気しかしない」
・・・と。
アホですわ、笑えるくらい😂
一度経験してるのに。
使われているからこそ出来ていたことが実はたくさんあったのに、もう奢りの塊がスーツや着物着てドヤ顔で歩いてましたわ、その頃の私。
ストレス
世の中”ストレス”って言葉が氾濫してますよね。
そもそもストレスって何なん?ですよね(笑)
調べてみると
『外部から刺激を受けた時に生じる緊張状態』だそうです。
これは良いことも悪い事も含めてです。
2度目のお店は、相当のこだわりを持ったお店作りをしました。
なので愛着は1度目の居抜きのお店とは違い思い入れもひとしお。
女の子も前よりは年齢も上で、経験者を採用しました。
自身の経験を踏まえ、給料も手当てを付けるなど、頑張った分給料に反映するように。
とにかく働きやすい環境を整えました。
やはり最初の2年は経営も順調でした。
従来のお客様を大切にするべく、フリーのお客さんはお断り、政財界のお客様が来店の時は貸し切りにするなど、接待に使いやすい工夫もしました。
ただひとつだけ、思うようにいかなかったのは”私ありき”のお店だったって事。
そこが一番の悩みでした。
身体はひとつしかない。
女の子がお酒飲めなくても、その分自分が飲んでいました。
積極的にお客様と同伴し、確保しました。
来店なさったお客様へのアフターフォロー、経理等も当然全て自分でこなしました。
気が付くと身体はボロボロ。
思うようにいかないストレスでだんだん気持ちが落ち込み眠れない、食べられないように。
そんな時に診断されたのが”過敏性腸症候群” ”摂食障害”そして心療内科を勧められ、そこで様々なカウンセリングの結果【鬱病】と診断されました。
当時、何もかもうまくいかない、思うようにならなかった私に【鬱病】というワードは ショックどころか安堵さえしたのを覚えています。
だって私は”ストレス”にさらされて来たんだし、頑張ってきたんだしでも思うようにいかなくて、誰もわかってくれなくて・・・。
「よく今まで一人で頑張ってきましたね」
医者の言葉に涙が止まらなかった。
「眠れないのは辛いね」
「食べられないと体辛いよね」
「気持ちが落ち込んだら仕事なんてできないよね」
もうその時の医者は後光がさしてる神様にさえ見えましたよ。
なんでこんなにわかってくれるの?
って。
そして医者に聞いたんです
「どうしたら元の元気な自分に戻れますか?」って
すると医者は言いました。
「今置かれてる環境を変えることです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
いやそれ、一番難しいやつ。
家族や従業員を抱えてる私が、どうやって環境を変えろと?
医者は続けます。
「今すぐはそりゃ無理ですよね」
「だから少しづつ出来ることから変えていきましょう」
「少しでも今辛い症状が軽くなるようにお薬を使ってやっていきましょう」
・・・と。
眠れない、食べられない、少し食べられたとしててもお腹を壊す、吐く、気持ちが落ち込む、身体が動かない、死にたくなる・・・。
これが薬を飲むことで少しでも楽になるのなら。。。
この甘い考えが今後さらに自身を苦しめていくことに・・・。
続く