二月の短歌✧♡
今日は月に一度の短歌の会であった。(2024.2.21)
開始時刻に、珍しく、いつもより、余裕!と到着したらすでに始まっている。何々?渡されていたプリントを確かめる。
きゃー、やらかした!いつもより15分早い開始なのだ・・・。
私と同じ勘違いの人が、私より、遅れて入ってくる。
残念。来月こそ、余裕を持って、時間を間違えず、集合しよう。
今日も、何票か得票したか、ただ私が気に行った歌を紹介する。
新年に一番初めに汲む水を「若水」と言ったなと懐かしく思い出す。小さい頃にお琴を習ったが、その中に「若水」という曲があって好きな曲だった。選者の鑑賞が良かった。家族四人で「若水」を汲む薬缶を持って、雪道を歩いた思い出。あの時、ただ無心で手を合わせていた。可も不可もなきという控えめな祈りが良い。神社には名水がある。三島神社もそうなのだ。
介護と危険水位という言葉のミスマッチと、ただならぬ危機感。
先生の句である。介護の厳しさと、言葉少なき友の様子に現れた元気の無さを心配している作者の姿がある。
この歌の面白いところは、12月に詠んだ歌への返歌なのだという。
「大吟醸升酒でのむとっておきぐびりぐびりと惜しまずに吞む」
というKさんの歌に対しての返歌。そうか、返歌という短歌の作り方もある。短歌上の交流。出席もままならない方が詠んだ歌。
ピアスの軽さと被災地の重さ、ボランティアの若さ、元気さと被災地に待ち構える雪。色々の対比がある。ピアスとかタトゥーとか年配者にとっては眉をひそめる外見の人とボランティアの精神。中身を見ろと若者は言うが、人は見かけが9割( ´艸`)(←おのれの金髪を棚に上げてw)
行くとうのとうは「と言う」の省略形だそうだ。字余りの時に使ってみよう!
一見して、宮沢賢治の風の又三郎と雨ニモマケズが合体していて、どこで覚えたのか、覚えたての言葉を得意気に言うちびっこが見える。孫の歌は、陳腐になりがちと本にあったが、これは宮沢賢治が救った例だと思う。
先生が調べたところ、今、又三郎と雨ニモマケズが合体した本があるそうだ。種明かしされると、なあんだと思うけれど、「にほんごであそぼ」の番組のように、子供らが日本の美しい言葉を知らず知らずに暗誦している光景は好ましい。
ただのハガキでは面白くない、懸賞葉書だからいいのよと先生。当たればいいなあと日が暮れてからポストに向かう作者の姿が見える。
現代だなと思う。発達した文明は目に見えるが、それで失ってきた色々なものは静かに目に見えない暗闇の中にある。怖さを感じる歌。
あくがれとか目交(まなかい)とか、聴きなれない言葉が並ぶ。でも、こういう言葉って、短歌にしっくりくる。ちなみに意味は「眼の前にある、ここにある」という意味。眼裏(まなうら)という言葉もあるそうだ。「鮮烈な印象が焼き付く場所としての目の奥。」聞いたことがあるけれど、はっきり意味を知らなかった言葉。
もっとも得票数の多かった歌だ。「調べのいいお歌ですね」と先生。
それが歌には重要だと痛感する。私もこの歌が好き。ふと散歩に出た作者が、家の中に居る時は日常のことしか考えていないのに、外に出て木々の間の星を見た途端、心が宇宙まで届いてしまう、その開放感が気持ちのいい歌である。
さて、一番いいお歌の後に自分の歌を発表しているのはどうか?という気がしなくもないが( ´艸`)自分が自分の一番のファンである縄文人の生き方として正しいと信じる(⋈◍>◡<◍)。✧♡
八戸市では毎年2月16、17日頃に「えんぶり」という春を起こす祭りがスタートする。国重要無形民俗文化財である。
八戸市に観光にくるなら、この時期がおススメ。とても寒いしばれた大変な季節であるが、この祭りの素敵さ、格好よさは一見の価値がある。
どんなしばれた2月も、なぜかこの祭りの後は春が起こされるのである。
そして、なぜかえんぶりの前後には雪がつきもの。
前々日は春の陽気で、雪一つ無かったのに、眼を覚ましたら、大雪だった。
町に観に行きたい気がしたが、4年ぶりの規制の無い祭りに集まる群衆に恐れを成して家に居た( ´艸`)
しかし、大舞台を観に行かずとも、スーパーや町のあちこちで演ずるえんぶりが見られるのがこの祭りの良さである。お囃子が聴こえてきて、外に出てみると、幸運にも隣の幼稚園にえんぶり組が来て、舞を舞っていた。
男だったら、絶対あの烏帽子の舞い手になってみたかった。
来世は男で八戸に生まれてくる。
しかし、今日の最後の歌は仲良しのK さん。
午前は短歌の会。
午後は歌の修業の会。
2人で楽しくおしゃべりして、歌ってから帰ったのである。
うふふ✧♡