花言葉はソラシド(⒈藤の酔う恋)
『私たち、離婚しました』
友人夫婦が揃ってSNSに〈ご報告〉の投稿をした。紙切れに添えられたマリッジリング、普段ならば、ざっと目を通してスルーするような内容である。
一瞬、『結婚おめでとう!』が頭をよぎった。が、このカップルは別の道を歩むらしい(こんな真似をしなくてもいいものを)。
深夜アニメの放送に併せて、コンビニエンスストアで最も高価なアイスクリームの蓋を開ける。
午前の贅沢、ピンクとブルーの渦巻きを平たいスプーンで掬って、幸せの味とやらに首を傾げた。
チグハグな印象はともかく、いつぞやの仲睦まじいツーショットが舌にゆっくりと、溶けていく。
「私、紫陽花と藤が好きなの。綺麗な苗字だね」
自己紹介が苦手だった。席を立ち、ぼそっと名乗ったところで誰も聞いておらず、無意味だが、彼女の一言で風向きが変わった。
クラスメイトが紫藤 佑(しどう たすく)について話す、その上『シド』というニックネームがつけられる。
生まれて初めて、僕に対して好意的な者が複数現れた、とはいえ、彼らを友人と呼ぶ前に、世界中の言葉を集めて並べてみても言い表せないであろう美貌を持つ、あの子から片時も目が離せなかった。
授業中、昼休み、放課後、じーっと見続けて「ソラは無理だよ。他校に彼氏いるって」「こいつ気色悪い」「恋しちゃったの、分かるけどさ」元通り、教室の隅に追いやられる。
それにしても、わざわざ声を上げて褒めたくせに、こちらをちらりともしない。取り巻きの多いこと、誰もが皆、空沢 絹(そらさわ きぬ)の特別に成りたがった。
僕が抱く感情は、透けたあれらとは違い、ひどく濁っており、身を縮めて教科書の隙間から柔らかな笑みや踊る毛先を覗いては、ノートをシャープペンシルでぐちゃぐちゃに塗り潰してしまうようなものだった。
昨日まで彼女の隣でうっとりと愛用の化粧品を尋ねていたにも拘らず、翌日にはどうも色恋沙汰が原因で捨て台詞を吐き、同性がごっそり離れる。
すると、ここぞとばかりに〈孤立したソラちゃんを守ろうの会〉が出来上がった。
廊下の窓際に佇んで、音楽室の歌声に耳を傾け、うぶなローズの唇をぐっと噛み締め、風に煽られた長髪は潤って、少し憂いを帯びた表情は絵になり、勝手な判断で「可哀想」に付け込まれる。
僕は一連の流れに呆れながらも自然な風を装って横切り(空気のように扱われる? 空気は必要な存在だろう)、再び「紫藤くん」と呼ばれるだけでなく、いずれ人間関係に疲れた空沢が頼ってくる日を待っていた。
泣き喚く女生徒、訳も分からず仲裁に入る教師、隙あらば恋人の座を狙う輩、ひとりがこうも狂わせる。自分はああならないーーなど、時すでに遅し。
季節が巡り、期待が外れてクラスは分かれた。通学用の鞄が好きなキャラクターのイメージカラーで、缶バッチとストラップをどっさりつけた17歳の僕は携帯電話の向こう側に〈カノジョ〉を作り、駅のホームでにやける。
人目を憚ることはなかった。
週末は新しいグッズを買いに行く。趣味ができてから、毎日は線画に次々と色を塗るかの如く楽しくなる。すれ違いざま、故意にぶつかって傷付けられたり、陰口を叩かれても、慣れていたので別に構わない、自分を貫くのみ。
カシャッ。
されど、電車が到着する頃に写真を撮られた。後ろに並んだ制服を着崩し、おまけに髪も明るく染めた、やんちゃな集団の仕業で「やめときなよ」「だって」とかの茶番に
「何のお話?」
と軽やかに割って入ったのが空沢で、たまげる。
思わぬ登場はさながら妖精の道草。勇敢か、はたまた天然か。車内で事情を聞いて、暫し困ったように見つめられたリーダー格が頬を紅潮させ、またも風向きを変えた。
座席にもたれて様子を伺う僕の心にはさざなみが立ち(いっそ、ばっさり斬ってくれ、結局は何事も誰が言ったかによって左右されるみたいだ、こちらに優しくしたつもりで)、
「じゃあ、消してね」
画像の削除を促す彼女と、棒読みの「ごめん」が寄せては返して海岸行きの電車がガタゴト揺れる。
殆どの乗客及び〈あいつら〉が降りた後、僕の斜め前に空沢が座った。俯き加減でスクールバッグを抱え、澄んだ瞳に黒く濃い扇形の睫毛と繊細なアイライン、比較的長い丈のプリーツスカート、続くチャンスに口から飛び出しそうな心臓、会釈しかできない。
仮に恋愛シミュレーションゲームだとすれば、プレイヤーのシドはずっと受け身の姿勢でいつかは報われると信じたまま。根拠なしの攻略は非常に難しく、現実では不可視の好感度が浮かび(マイナスに近い)、ことごとく選択を誤る。
無性に海が見たくなって、終点を目指した。
「ただのひとりごと。紫藤くんの為にやった訳ではなくて。待ち受け画面が隠し撮りの私、露骨に嫌がれば『ノリが悪い』『自意識過剰』で片付けられるでしょう」
(なら、無茶苦茶に利用していいよ)
僕は勘違いしないので。
デートに向かい、改札口にて恋人と落ち合う、あちらの「会いたかった」を絡まったイヤホンで塞ぐ。
夕焼けは紫、砂塗れのローファー、秘めた想いがどっと溢れる(はあ、憎たらしい)。
ご丁寧に釘を刺さずとも分かり切っていた。
文化祭、修学旅行、卒業式、遠巻きに主役のような空沢を眺め、エキストラの自分は地元の専門学校に、彼女は都会の大学に進む。
一方的な思い出に居座り、ありったけの装飾を施して。
5年も経てば流石に光が薄れる。
しかし、祖父母を連れて休日に名所を訪ねると、幸運にも大ぶりの日傘を畳んで藤棚の下で休む、高嶺の花に出逢った。
「そ、空沢さんだよね」
想像を遥かに超える圧倒的な存在感に怯むも、今度こそ逃すまいと触れてはならぬ美術品に近寄る。
「覚えてるかな、高校時代の。こんなとこで会うなんて奇遇。今ひとり?」
当然、忘れ去られても僕は狡い。
両脇に年老いたふたりがいれば「歩き疲れたわ。そろそろ一休みしましょうよ」「せっかくだから、君もどうだい」話はぽんぽん進み、友人に約束を破られたらしい彼女が誘いを「ええ」と受ける筈だと目論んだ。
鮮烈な春、空は晴れて、売り切れた団子の代わりに饅頭を頬張る。
「果物狩りだの歌謡コンサートだの、私らによく付き合ってくれて。ちっとも恥ずかしがったりしないの」
祖母がぺらぺら喋り、手に負えなかった緊張と興奮は塩分多めの後悔へ。
「素敵ですね。そういえば、昔も」
厄介なことに巻き込まれた空沢はのんびり僕に視線を移す。
思い出されて、かあっと顔が火照るのを感じた。
ねずみ色のパーカーに薄汚れたジーンズを、魔法使いがタキシードに変えてくれたりはしない、がしかし、休憩を終えると祖父母が気を利かせて
「先に車の鍵を預っておこうか」
「私らはお手洗いに寄らなきゃだもの」
と、まさに阿吽の呼吸で別行動をとる(わざとらしい、ありがとう)。
「で。SNSやってる?」
身の程を弁えず、せっせとロマンティックの種に水を遣り、
「もう。回りくどくて焦れったい」
そこはお互い様。
所詮「人形みたいで付き合うにはちょっと」「お高くとまってる」とは腹立ち紛れの悪態で、以前より随分と友好的な彼女にスマートフォンの角で肩を突かれた僕は、きっと何回コンティニューしたって、まんまと恋の罠にかかる。
《 続く 》
★久しぶりの連載です。普段より文章が長めで、更新は4日ごとにします(予定)。