そばにいられる時間だけは
大した活躍もしていないのにラストで「一時はどうなることかと思ったけど」などと宣うキャラクターはどこか憎めず、仲間にも好かれている。何なら存在そのものがセロトニンだ。
しかし、このゲームには私と似たような登場人物はおらず、更に港町の娘Aですらなく、細かく作られた背景の一部に近い(出来れば、自分が主役だと胸を張りながらわがまま言っても、何でも許される女の子になってみたかったな)。
それはともかく、またもや課金してしまった。躍起になり、コンティニューを繰り返しラスボスに勝ってエンディングまで辿り着く。
少々の後悔に顔を歪めて気持ちの整理、指を上に滑らせ、画面を閉じる。
敷きっ放しの布団は良くないとか窓を開けるべきとか、頭では分かっている、とはいえ体が動かなかった。
そんな怠け者はスウェットパンツの膝周辺にコップの水を大胆に溢し、仕方なくヒーターの風に当たって乾燥させる。
どうも子供の頃から周囲をびしょ濡れにする才能があった。
胡粉色の壁には時計、針の音、裏に住む幼児がはしゃぎ回る声、午後の柔らかな微睡でうっかり再びコップを倒した途端、ホログラフィックな水に飲み込まれる。
多少は冷たい筈が肌では感じられず、オーロラの輝きに全身覆われ、心地好かった。
さて、私をどんな風に変身させてくれるだろうか。
期待がむくむく膨らみ、ぱちんと弾ける。
そこは海のような、水溜まりのような場所だった。先程のゲームに思考が引っ張られ、通常の世界でいう建物の1階部分はなく、皆が階段上で生活していた。
私はといえば草花があしらわれた、つばの広い麦わら帽子を被り、紺に変わった三つ編みの毛を垂らして、スクエアネックの青を基調としたチロリアンテイスト(?)なワンピースに身を包み、何と裸足である(骨格に合わない服を着せられるなんて、鏡で見たら悲鳴を上げそう)。
似合う者が限られたり、現代では老舗古着屋の掘り出し物として扱われるスタイルに戸惑いを隠せない。
おまけに辛うじて水浸しは避けられたけれども、着地点さえ階段の途中で、渦を巻く悪夢かと思った。
下にいたところ上から大勢の不躾な視線を浴び、
「顔が真っ青だな」
いきなり声が降ってきてビクッとする。
恐る恐る誰か確かめると、斜め前の住宅、屋根にはボタン付近に刺繍が入ったシャツに綿麻らしき素材のボトムスと、潰れかけの靴を履いた若い男が串に刺さった焼き魚を咥えつつ、座っており、こちらにヒラヒラと手を振った。
重ね付けたブレスレットが揺れて音を立てる。
彼は同い年くらいでボサボサの金髪から覗く印象的な黒眉や瞳に、掃除機とゴミの如く吸い込まれそうになった私は、ひたすら脳みそを回転させて相応しい言葉を探す。
だが、ろくに返事をしないまま何かに物凄い力で引き摺られたことによって足を滑らせ、どぼんと落ちーー大掃除後の美しさも3日と保てなかった部屋に戻る。
テーブル、コップの水は乾き切っていた。
しばらく、一目惚れをした時のように水の町と彼の姿が頭から離れず、ココアの溜め息を吐く。
スマートフォンの検索履歴は『不思議体験』『夢と現実の違い』、従っておすすめの広告に怪しいサイトがちらほら現れ始めた頃、機会に恵まれる。
今度は盛大に炭酸飲料の入ったタンブラーをひっくり返した瞬間、あそこに飛び、人々の移動手段と思しきボートに横たわり、あちこち痛む中、むくりと起き上がった。
「また会ったね。神出鬼没ちゃん」
汚れた生成りのつなぎ、振り向きざまに彼が優しく笑うと、薄い唇が捲れ、目の下をなぞるくまが、ただならぬ色気を放つ。
他の住民とは違って、東洋の雰囲気を漂わせ、少年のようにも見える。
「あなた、は、」
早速、船酔いしそうな私に気を遣ってか一旦、ボートを漕ぐのをやめてくれた。
「アーサー。あっちの市場で働いてるよ。家はこないだのとこ」
もうすぐ降りられるから、とアーサーは言い添える(なんで、いつもカッコいい人の前で醜態を晒してしまうの)。
「ノエ、です。名前。ありがとうございます」
言葉が通じ、しかも温かく微笑むのみで私について余計な詮索をしてこなかったので感動を覚えた。
彼に支えられてふらふらとボートを降りる。
初めて背の高い家屋に囲まれた町を歩き、アーサーになら嘘だと笑われたとしても良いと考え、どうやら異世界から来た、行くあてがないといった不安を打ち明けた。
「外見は完全に馴染んでても、ノエは落ち着かない様子だし、うん。信じる」
だけど俺以外には内緒だよ、低音の効いた声で囁かれ、思わず幾度も頷く。
「よし。ふたりだけの約束ができた」
大きなカサついた手でまるで動物かの如く撫でられる。
普段であれば気色悪い、勘違いも大概にしろと心の中で悪態をつくコッテコテな仕草の数々が、ときめきに変わった(異世界フィルター)。
が、夢のような時間は長く続かない。
屋根に並んで腰掛けていると、突如、メタリックな水飛沫を浴びて体が、爪先に始まり、しゅわしゅわと消えていく。
「ノエ?」
異変に気付いた彼が私の抜け殻を捕まえるべく二の腕に触れてくる(さようなら、久しぶりのドキドキ)。
「帰るのか、俺を置いて」
「ア、アーサー。もしも次が……うわあっ」
抱き寄せられて泡と化し、
「必ず会える。思うに、きっかけは水だ!」
煌めく乙女ゲーム並みの別れ、ひったひたに浸るうち、極めて質素な我が家に到着した。
テーブル、タンブラーの炭酸飲料は乾き切っている。
アーサーの言う通りだった。
今後も故意に流せば出会える。
恋人がいる同僚や既婚の友人には「ノエちゃん、彼氏いないの勿体無い」やら、親に「あんた、実家暮らしは良しとして、ちょっとはお金入れなさいよ」やら、せっつかれるも、ついに、目眩く春が来た。
「一時はどうなることかと思ったけど」
口に出してみて、にやにや笑いを噛み殺す。
やたらとMBTIを知りたがる輩も居やしない、あの場所では主役になれるだろう。
そうやって、いつかは現実との差を埋める。