【映画】ルックバック ~クリエイターは人を救っている~
現実世界で何も役に立っていない、人を救えない、無力感に苛まれるクリエイターに届いて欲しい。
あなたは、絶望の中にいる人を救っているし、現実世界で命を救っている。あなたに救われた人が、現実世界でまた他の人を救っている。あなたは救済の連鎖の中にいるから、物語を創ることをやめないで、と。
作品に影響されて進んだ道で死んだとしても、作品に出会わなければよかったとは思わない。
1. 来週の連載を見るために生き延びた幼少期
私は、幼少期に少し危険な環境に身を置いていた。その時の心の支えは、当時『週刊少年マガジン』で連載されていた、CLAMPの『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』だった。
この物語では、目的の違う4人が一緒に色々な異世界を旅する。「世界はここだけじゃないから」という世界観に魅せられ、いつか自分も違う世界に行けるかもしれないと夢見ていた。週間連載の続きが見たいから、来週までは絶対に死なないで生き延びようと思えた。アニメ化が決まった時は、アニメを見るまでは生き延びようと思った。そうやって、私の寿命は伸びていった。
分厚い週刊誌は、物理的にも私の命を守ってくれた。外が戦闘状態になった時、私は最低限の身を守れるものや、時間を潰すための本、週刊誌を持って鍵がかかる場所に篭り、息を潜めて外が落ち着くのを待った。もう大丈夫かな?と思い外に出た瞬間、包丁が正面に飛んできたことがあった。その時、咄嗟に抱えていた週刊少年マガジンでそれを叩き落としたおかげで、大事に至らずに済んだ。
危険な環境を改善するため、当時の持ちうる知識でできる限りのことをした。例えば、こども相談窓口への電話での相談である。電話をかけているのが見つかればさらに状況が悪くなることは明白だったので、これはかなりリスクの高い方法だった。電話をかけると、話を聴いてくれたお姉さんは「どうしてだろう?その人はなぜその行動をしたんだろう?」と所謂「5回はWhyを問う」という方法で状況を確認しようとした。しかし、脅威対象がなぜその行動をするのか、当時の私には本当に全く分からず、1回目のWhyの時点で答えに詰まってしまった。考えながら沈黙しているうち、足音が近づいてきたので電話を切った。
この経験から、人に頼ること、人に相談することはリスクに見合ったベネフィットがない。なぜなら、他の人はこの状況について私以上に知らないから、私に代わって問題を解決することはできない。全ての問題は、自分自身で解決するしかないということが分かった。
『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』の主人公の二人は、少年少女でまだ子供だった。それでも、困難と理不尽の中で気高い生き方をし、自分で問題を解決しながら異世界を旅していた。私にも、できるはずだと思った。とりあえず来週の連載まで生き延びることを短期目標にしながら、長期的な自力での問題解決を目指して、日々を生き抜いた。
2. この傷で人を救おうと決めた進路選択
私は、2018年3月に映画『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』を見たことで、今の職業に就いた。私はこの映画を映画館で泣きながら15回見た。
文豪ストレイドッグスでは、主要キャラクターは異能力を持っている、所謂異能力バトルものだ。この異能力が何なのか、原作や漫画、アニメ本編では定義されてこなかった。ただ、アニメの中で 「異能力者はどこか心が歪だ」ということが何度か登場人物の発言によって示唆されていた。
映画化に際して、「消えない傷 それが異能力」と定義された。これが、私には刺さった。
主人公は、映画の中で、幼少期の経験(=消えない傷=異能力)を「自分が生きようとする意志だ」とあるがままに受け止め、その力を使って街を守り、人を救う。そして言う。
過去を肯定すべしという話ではない。消えない傷を負った過去があるとしてて、「その経験があるから今の自分がいるんだ。あの経験をさせてくれた人に感謝しよう」とかでは決してない。過去を、傷を、肯定したり、好意的に受け止める義務なんて決してない。消えない傷を負い、歪になってしまうことは、肯定されるべきことではない。少なくとも、私はそのように考えている。
けれども、その過去は、消えない傷は、あなたの異能力になりうる。
例えば私は、危険な環境下で大人に相談しても、大人からのWhyに答えられず、自分の問題は自分自身で解決するしかないと知った。その後、Whyを自力で解決すべく、生きるために沢山の本を読んで、何が根本原因で、どうしたら解決できるのかを考えた。生存の確率を上げるため、YouTubeでいくつかの技能を身につけた。脅威の発生・活性化はランダムだったので、数日間まともな睡眠や食事をとらなくても思考力や体力を維持できる体質になった。この知識、技能、体質は、同じ傷を共有しない人は持っていない、私の異能力だと解釈した。
映画の主人公を見て、消えない傷(=異能力)でこの場所を守り、人を救いながら生きていく方が、幾分か素敵だと思った。この傷で、この異能力で、人を救う仕事ができるなら、その方が素敵だ。この感情は、アニメで別のキャラクター(主人公の会社の先輩)が、光の道に進むことを決めたエピソードの最後のセリフと近い。
この映画に多分に影響を受けて、私は職業選択を行い、今の職についた。
3. クリエイターは人を救っている
私は、自分の「異能力」を活用して、悲しい出来事や大きな出来事が起こることを事前に防ぐ仕事をしている。最大の成果は何も起きないことなので、褒められることはないし、殉職・病気休職率も高めだ。それでも、起こる可能性があったことを事前に防ぎ、皆とこの場所を守れたときは、そのことを誇りに思うし、引き続きそうやって生きていきたいと思う。現在は海外留学中だが、学位を取ったら日本の元の職場に戻るつもりでいる。学位の内容も、その職場で活かせるものだ。
この職業に就いて半年でN人、1年で更にN+1人同期がいなくなった頃、「24時間365日ONでいても精神崩壊しない」という自分はどこか心が歪だし、その性質そのものが異能力だと気づいた。自分にとっては消えない傷でも、それで人を救えることを誇らしく思った。
仮にこの職業選択によって殉職することになったとしても、コンテンツが、クリエイターの作品が、私を救ったことに変わりはないし、私の仕事によって救われた人の存在も、無かったことにはならない。今日、殉職することになっても、作品で出会わなければよかった、別の道を選べばよかったとは思わない。
4. 暴力・災害・テロ ~理不尽が尽きないこの世界の光~
悲しいことが起こるのを事前に防ぐ仕事をしていても、全てを防げるわけではない。暴力、自然災害、テロ、どうしようもない理不尽がこの世界には溢れている。取りこぼしてしまうことは、何度もあった。
特にどうしようもない理不尽を感じてしまうのは、子供用の小さな納体袋がずらりと並んだのを見るときだ。大人も子供も、命の重みに違いはないが、この子達は何も悪いことはしていないし、する機会すら与えられなかった、身を守る手段は全く無かったんだと思うと、これを理不尽と言わず、何を理不尽と言うのかと思う。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第5篇中の「叛逆」という章でイワンが提示する問題が、良くわかる。これを理不尽と言わずに何を理不尽と言うのか。
そして大人になった私は、あの日電話の向こうにいたお姉さんと同様に、もし生存者の子供たちに「何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に合わなければならないのか?」と問われても答えられない。本当に、私にもわからないのだ。
しかし、生存者の子供たちは、状況が落ち着くと遊び始める。観察していると、どうやらプリキュア?やレンジャーモノ?(日曜朝にやっているようなの)のごっこ遊びをしているようだった。このような理不尽に晒されながらも、あの子達は物語に希望を見出す。どこかのクリエイターが創作したその物語は、子供たちの心をきっと救っている、理不尽な世界の光だ。
だから、現実世界で何も役に立っていない、人を救えない、無力感に苛まれるクリエイターに届いて欲しい。
あなたは、絶望の中にいる人を救っているし、現実世界で命を救っている。あなたが命を削って創った作品に救われた人が、現実世界でまた他の人を救っている。あなたの作品に出会ったことで選んだ道で死んだとして、出会わなければよかったとは思わない。
あなたは救済の連鎖の中にいるから、物語を創ることやめないで欲しい。
P.S. 神曲 ~救われたいし、救いたい~
ここまで読んでくださった方にぜひ聴いてみていただきたいボカロ曲がある。かなり昔の曲で、流行った訳でもないが、私は今でも良い曲だと思う。