マガジンのカバー画像

極楽試写会

127
新作映画の試写会の案内もオンラインでの試写が増え、 気軽に自分なりに選んだ作品の試写をしております、 極楽気分で。 そんな中、皆さんにも見てほしいなと思った作品を紹介したいなと
運営しているクリエイター

2022年12月の記事一覧

「極楽映画大賞」

極楽試写会も 今年の6月から始めて約半年 その間に招待された試写会はだいたい200本 案内を見て、試写を希望し、実際に極楽試写した作品数は71本 ブログで紹介した作品が25本 この期間は半年ですが その中から まったくもって個人的に本年度の 「極楽映画大賞」を発表します。 ・・・・当初発表は 大賞の1作品と考えていたのですが 予想通り、良作が多くあえてこのような受賞形態とさせていただきました。 「極楽映画大賞」 「海外極楽作品賞」 「国内極楽作品賞」 「音楽極楽部門賞」

再生

「エンドロールのつづき」

https://movies.shochiku.co.jp/endroll/ 極楽試写会、これまでに70作品観ました。 後日今年の総括は書くとして 今回はこれ。 インドの田舎で映画好きの子供、のちに映画監督として活躍する人物の実話。 カーストの身分は高いが落ちぶれてしまい 今は鉄道旅行者向け駅でにチャイを売って生計を立てている家庭に育った。 そうした環境の中で映画を愛した子供のその物語は インド版「ニュー・シネマ・パラダイス」と言ったら端的だろう。 原題は「Last Film Show」 そうなんですよ、このタイトルに大きな意味がある。 僕はこの作品のポイントは2点あると思う。 一つは アナログフィルムからデジタルへの変遷とそれを惜しがる気持ち(Last Film Showなんですよ) もう一つは 再生、希望への道と光の存在の証明(Last Film Showには次があるんでっすよ) このあたりのことを詳しく書いてしまうと物語のキーを明かしてしまうので ここではここまで。 ということで 「エンドロールのつづき」という邦題は どうしてそうなったのか・・・・、まぁ、キャッチコピーでの効果を狙ったということで。 そして この作品の本筋ではないのだが 彼の母が作る料理シーン(もちろんインドの家庭料理)、何度となくその場面があらわされるが 僕はこのシーンに含まれる愛の形を強く感じた。 2023年1月20日 公開

再生

「ヒトラーのための虐殺会議」

https://klockworx-v.com/conference/ 第2次世界大戦時の1942年1月20日 ベルリンのバンゼー湖畔にナチス親衛隊と各事務次官が収集され 「ユダヤ人問題の最終的解決」という名のもと ナチス政権が1100万人のユダヤ人絶滅政策を決定した「バンゼー会議」が開かれた。 その全貌を記したアドルフ・アイヒマンが記録した議事録に基づいての映画化。 世紀の残虐行為がこのたったの90分で決定づけられた。 ヒトラーは参加していないし出てこない。 参加者全ての思考が正解を出すことではなく、総統への忖度で覆われいかにしてこの虐殺を成立させるのかに向かい 「最終的解決」という名のもと・・・その事実をオブラートに包んだ表現・・・決定された事実。 これはある意味、人間の弱さ、恐ろしさを描いた作品といえる。 そして 今のこの日本でも事の大小はあるが、 上への忖度と個々が持ちうる人間の弱さ、恐ろしさを 組織に属するがゆえに歯止めがきかずに暴走してしまうことは無かったのだろうかと 考えさせられる。 ただし、ここでも 「何故、ユダヤ人がここまで嫌われる、差別されるのか」 しかもかつてのドイツだけでなく、現代にいたる世界各地で、 その理由がこの作品でも語られていないし、私には依然謎のままだ。 作品中でナチス親衛隊が「われらが受けた被害の正当防衛」とこの虐殺を位置づけているが それが何なのか、なぜなのかが、いまだにわからない。 場面は15名参加の会議室においてほぼ展開される。 ここで思い出したのが 同様の状況で展開される映画 ヘンリー・フォンダ主演の名作「十二人の怒れる男」。 片やファシストの上への忖度と狂気 片や民主主義と正義 を表現した全く正反対の作品なんだが この作品を思い出させたのは 心の安らぎを取り戻すための本能だったのかもしれない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%80%92%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%94%B7 2023年1月20日 公開

再生

「モリコーネ 映画が恋した音楽家」

https://gaga.ne.jp/ennio/ 試写の案内はもう1か月以上前に届いていた。 が、僕は 後のお楽しみと大切にとっておいて 暦が12月になり「さて!」と昨日、極楽試写した。 多くの映画音楽に名作を送り出した巨匠エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。 ともかく、監督のジュゼッペ・トルナトーレ監督のモリコーネ愛が満載されている作品。 監督自身まだ新人に近い時期にあの「ニュー・シネマ・パラダイス」の制作をするのだが その際に すでに巨匠との名声を得ていたエンニオに音楽を要請した。 若手の監督に対し経歴とか名とかに関係なく、同じ目線で制作に取り組んでいるエンニオの真摯な姿勢に ジュゼッペ・トルナトーレは心打たれ、そしてあの名作が生まれた。 その後も「海の上のピアニスト」等へとつながっていく。 エンニオは若い時期にクラッシックを学び、当初はその厳格な世界での活躍を期待されたが 1960年代、いわゆるイタリアの流行歌の世界に踏み込み そこから映画音楽へと進んでいく。マカロニ・ウェスタンのあの音楽をはじめ。 ここで記しておきたいのが この彼の音楽学のルーツの部分だ。 作品中でも度々本人が語っているが 彼の作品の根底にあるのは、若い時期に学んだクラッシックの作曲法にある。 (当時は)軽く見られていた映画音楽に クラシックの世界からある意味ドロップアウトした彼、 もちろんコンプレックスはあったと思う、 しかし、そのコンプレックスをバネとして かつ、常に、自身が学んだクラシックの作曲法を駆使し というか 作曲の基礎を習得していたからこそエンタテイメントの音楽界であっても その地位を確立できたということだ。 僕は度あるごとに言及することに、ピカソの例がある。 ある意味わけわからんキュビスムの現代アートの巨匠だが 実は彼はデッサンの天才である。 まだ10代そこそこの時に絵画の基礎、デッサンを完璧に習得していた。 その才能を父親が気付き 後の大天才、ピカソが生まれる。 何が言いたいかというと、 基礎、基本ができているか否により その上に(そこから飛び出して)できたものの違いは大きいということ。 その可否により 百戦錬磨の世界でも生き残る、いや!トップに立てるということだ。 エンニオがまさにそれ。 曰く 「もはや音符は重要ではない。重要なのは音符で何をするのか」 彼のこの言葉は、『音符がなんであるかを学び知り尽くした』からこそ出てくる言葉なんだと、僕は理解する。 さて 作品は本人と70人以上の著名人のインタビューと関係する作品映像等で構成される。 タイミングごとに (おおおお、おおおお、そうそう、そうそう) とみるみる前かがみになってしまったことも確か。 ただし、願わくばもう少し短くしてもよかったのではと。 名監督監ジュゼッペに物申すのはなんだが 特に当初の10数分とラスト近くの10数分はもう少し整理できたのでは。 まっ、これもジュゼッペがいかにエンニオを愛し、尊敬していたことの証かな、とも。 残念ながらエンニオは2020年に亡くなっている。 2023年1月13日 公開

再生

「ドリーム・ホース」

https://cinerack.jp/dream/ これぞ「娯楽映画」 スカッ!とした。 特にここ数作、紹介したいなと思える作品に出合わなかったので尚更か!? ストーリーはいたってシンプル。 イギリス・ウェールズの片田舎で起こった、競走馬を育て成功させる事実に基づいた作品。 生きがいというか、モチベーションというか、町全体がそういったことにとはかけ離れた空気に覆われた農園村。 そうした彼らが求めたのは「欲しいのは、胸の高まり」。 で、皆で競走馬を育て目標にまい進する、というサクセスストーリー。 サイド面から少し: イギリスに関することを考えたり、見たり、楽しんだりする場合は そこに存在する階級社会という概念が持つ意味は大きい。 僕たちにはなじみ薄いが。 英国の競走馬の世界は貴族階級の場であり この作品の舞台のウェールズでもそこに属するのであり 物語は「農園で、農園階級の人々が育てた競走馬」が 「貴族階級のもとにある光り輝くライバル」 に打ち勝つところの意味が大きく、見る側もその踏ん張る姿に興奮するんだと。 音楽にも触れておこう: キャサリン・ジェンキンスが本人役でウェールズの国歌を斉唱するシーンは圧巻。 で、で、何よりも 作品半ばで年老いた飲んべのおじいさんが、カラオケで歌うトム・ジョーンズの懐かしい歌「デライラ」。 更にエンディングでは出演者やこの物語の本当の当事者まで加わっての「デライラ」の歌唱大団円。 ・・・・?何で?と思って改めて調べてみるとワカッタ。 トム・ジョーンズは英国のエンターティナーだとは知っていたが、その実、ウェールズの出身だった。 また この曲は、なんと、浮気をした彼女(デライラ)を思い余って殺してしまう、という歌詞だった。 で、なんで?と。 ウェールズのヒーロー、トム・ジョーンズの曲ということは理解できる。 しかし、興奮と熱狂で殺人までしてしまう歌を何故??? で、僕はこう解釈した。 雑学から、 このデライラ(Delilah)は, 聖書の「サムソンとデリラ」に登場するあの悪女デリラと同じスペルだということ。そう、デライラはデリラの事。 古い映画 「サムソンとデリラ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%A9_(1949%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB) デリラに裏切られ怒りに燃えたサムソンが宮殿を破壊してしまうヴィクター・マチュアの姿はいまでも鮮明に記憶に残る、、、、がなんでこんな古い映画を知ってるのかって!?まぁね。 で、彼ら(農園の人たち)はサムソンのそうした姿を知っていて 自分たちの姿をそこに投影して、この歌を叫んでいるのではと。 2023年 1月16日 公開