Nobuyuki Nozaki

還暦 そして 現役アスレティックトレーナー 1993年名古屋グランパスエイト⇒1995年浦和レッドダイヤモンズ⇒2022年FC岐阜 1980年~2022年までの経験を皆さんに共有します!! 皆さんの参考になれば嬉しいです!!

Nobuyuki Nozaki

還暦 そして 現役アスレティックトレーナー 1993年名古屋グランパスエイト⇒1995年浦和レッドダイヤモンズ⇒2022年FC岐阜 1980年~2022年までの経験を皆さんに共有します!! 皆さんの参考になれば嬉しいです!!

最近の記事

第四章 トヨタ自動車サッカー部    コニカカップ優勝

1991年11月3日 トヨタ自動車vs本田技研 国立競技場に当時としては多い観衆25000人を集めて第二回コニカカップ決勝が開催されました コニカカップは、その後のナビスコカップ、ルヴァンカップの全身です 試合は         トヨタ自動車          本田技研                     前半 20分     ゴール 1対0  23分                    1対1 ゴール 32分     ゴール  2対1  36分     ゴール 

    • 第四章 Jリーグ 名古屋グランパスエイト トヨタ自動車サッカー部出向

      1990年イタリアワールドカップを目指し代表チームで活動していた時に何人かのサッカー関係者から 「現状ワールドカップに出るには、予選を通過するより日本で開催する方が早いよ・・・」 「アマチュアリーグの選手達じゃ無理だよ・・・」 といった会話を耳にしながら 「そんなこと言わないでよ・・・」 「こっちは今、必死に闘ってるのに・・・」 とはいえ、実際には日本代表チームの選手を取り巻く環境は、当時のJLS読売クラブなどに比べても残念ながら良いとは言えない状況でした・・・・

      • 第三章1988年後半~1991年 トレーナー活動期第十五回 日本代表チーム帯同 1991年 親善試合 キリンカップ 日韓定期戦

        1988年から始まった代表帯同もラストイヤー 1990年のイタリアワールドカップを目指した代表でしたが・・・ あえなく敗退・・・ その後は強化というより“親善大使”のような活動を交えながら活動 1991年日本代表サッカーチームは親善試合、キリンカップ、日韓定期戦など計7試合 4月4日 対スパルタク・モスクワ 0対0 △ スタメン 松永成立 井原正巳 石川康 阪倉裕二 イエローカード 柱谷哲二 (Cap.) 福田正博 浅野哲也 反町康治 北澤豪 礒貝洋光 森山泰行 ▼3

        • 第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十四回 日本代表チーム帯同 1990年 第11回北京アジア大会

          8月4日に3戦全敗のダイナスティカップを終え8月中は特に代表の帯同はなく治療室でのトリートメントに明け暮れていました 9月22日~10月7日までの期間開催される第11回北京アジア大会に向けた準備のために9月4日から19日まで茨城県で事前合宿をおこないました ここでもダイナスティカップ前の合宿をおこなっていた検見川での“消防車来ちゃった”事件に匹敵する事件がありました 神栖町が用意してくれた天然芝練習ピッチ、が・・・・ 夜な夜な血気盛んな若者たちが乗り入れたと思われる車

        • 第四章 トヨタ自動車サッカー部    コニカカップ優勝

        • 第四章 Jリーグ 名古屋グランパスエイト トヨタ自動車サッカー部出向

        • 第三章1988年後半~1991年 トレーナー活動期第十五回 日本代表チーム帯同 1991年 親善試合 キリンカップ 日韓定期戦

        • 第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十四回 日本代表チーム帯同 1990年 第11回北京アジア大会

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十三回 日本代表チーム帯同 1990年 第一回ダイナスティカップ

          1998年はワールドカップ予選と親善試合28試合を6勝10分け12敗という成績で終了し、さすがに代表卒業かと思っていたところ6月なかばにまたもや日本サッカー協会から 「7月~10月頭まで空けといて!!」 という軽い感じの電話がありました 「まだ代表卒業できないの・・・・」 「今度は何???」 「っていうか、次のワールドカップへの新チーム始動しなくていいの???」 今回の帯同は7月にダイナスティカップと9月後半にアジア大会への帯同です ダイナスティカップは北京で7月2

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十三回 日本代表チーム帯同 1990年 第一回ダイナスティカップ

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十二回 日本代表チーム帯同 1989年 親善試合4試合

          7月30日に帰国したのもつかの間、8月4日、7日、10日、13日に中二日で親善試合が4試合組まれていました 「時差ボケだ・・・」 「強化??」 「何のため??」 当時の日本代表サッカーチームは強化目的だけではなく、“親善大使”のようなミッションも重要な役割だった気がします 例えば 1988年6月から7月のドイツ遠征中にも予定になかったトルコに渡りオリンピックチームと親善試合をしました この時はトルコ、イスタンブールにあるボスポラス海峡に架かる日本のODAによる“第二ボス

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十二回 日本代表チーム帯同 1989年 親善試合4試合

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十一回 日本代表チーム帯同 1989年 南米遠征

          「平壌から6月26日に帰国し、ワールドカップ予選も終わったし代表帯同もこれで終わりか・・・」 「結構ハードだったな・・・」 「でも、大変だったけれど良い経験ができたな」 北朝鮮で敗戦し傷心と共に帰国して、何か心の中にポッカリと空虚感ある日々を過ごしていたら サッカー協会から 「代表が南米遠征に行くから7月6日から30日まであけといて」 と連絡があり 「ワールドカップ予選終わったし、代表って解散じゃないの??」 「南米遠征??」 「何のために??」 確認したところワ

          第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十一回 日本代表チーム帯同 1989年 南米遠征

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第十回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs北朝鮮@平壌

          6月25日ワールドカップ一次予選、最終戦vs北朝鮮を平壌で行うために21日に日本を旅立ちました まず向かった先は平壌ではなく中国の北京です 日本から北朝鮮には直接入国できないので、中国経由になりました 21、22日と北京でトレーニングを行い23日に平壌に入りました 平壌国際飛行場でチームの荷物は順調に手元に届きましたが、同行記者さん達の荷物がなかなか出てくるのにかなりの時間がかかったと後で聞きました 23,24、と平壌でトレーニングでしたが、宿泊地が当初の予定から変

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第十回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs北朝鮮@平壌

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第九回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs香港@神戸ユニバー記念競技場

          ホームで2連勝して意気揚々と神戸に乗り込みました スタメン 松永成立 (Cap.) 堀池巧 信藤克義 井原正巳 梶野智幸 佐々木雅尚 イエローカード 柱谷哲二 ▼80' OUT 長谷川健太 水沼貴史 吉田光範 前田治 ▼62' OUT サブ 名取篤 ▲80' IN 黒崎久志 ▲62' IN 森下申一 森正明 望月聡 5月22日アウエー香港戦では台風、大規模デモなどもあり、0対0の痛い引き分け手終わっています 台風、大規模デモなど平常心で挑めなかったとはいえ 第一戦の雪辱

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第九回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs香港@神戸ユニバー記念競技場

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第八回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vsインドネシア@西が丘

          6月4日、北朝鮮に勝利し勝ち点3を取り一息つけたのもつかの間、アウエーでの一戦目を0対0の引き分けて終わったインドネシアを6月11日に約9000人がつめかけたホーム西が丘で迎え撃ちます スタメン 松永成立 (Cap.) 堀池巧 信藤克義 井原正巳 梶野智幸 佐々木雅尚 柱谷哲二 長谷川健太 水沼貴史 吉田光範 前田治 ▼66' OUT サブ 黒崎久志 ▲66' IN 森下申一 名取篤 望月聡 平川弘 4日は、晴天、最高気温27.6度と少し暑い天気のもとでの試合でしたが、1

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第八回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vsインドネシア@西が丘

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第七回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs北朝鮮@国立

          アウエーとはいえ格下と思われる香港、インドネシアと対戦し二試合終わって勝ち点2 心もとない勝ち点を持って日本に帰ってきました 第三戦は1989年6月4日、約35,000の観客が入った国立競技場にグループ⑥ライバル北朝鮮との第一戦をホームでむかえます しかし、国立競技場のその雰囲気は政治的背景や当時のサッカー人気低迷もあったのか、日本よりも北朝鮮サポーターの一体となった応援にコレオグラフィーなどもあり 「ここはアウエー???」 「そして、ピッチの芝は・・・」 ピッチ

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第七回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vs北朝鮮@国立

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第六回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vsインドネシア@ジャカルタ

          対香港との第一戦を引分けで終わり、結果はムムムな状況でした 日本には帰国せず数日間、香港でトレーニングを行い第二戦vsインドネシアとの試合の為にジャカルタへと移動しました インドネシアでのバス移動は常に白バイとパトカーの先導があり 選手 「VIP待遇じゃん!」 「俺たちスゴクね!」 当時の選手たちは先導が初体験で、ノー天気な声がバスの中から聞こえてきた記憶があります(笑)(笑)(笑) でも、実際はジャカルタ市内の渋滞がものすごく、白バイやパトカーの先導が無ければ予定ど

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第六回 日本代表チーム帯同 1989年 ワールドカップ予選vsインドネシア@ジャカルタ

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第五回 日本代表チーム帯同    1989年 ワールドカップ予選     vs香港@香港       

          1月~2月にかけて約一ヵ月の中東遠征を終え、3月、4月は毎週水曜日に代表チームが集合してトレーニングを行っていました 当時は週末だけ試合があり週中に試合があることは、ほとんどありませんでした 横山ジャパンの目標である90年イタリアワールドカップ予選が5月21日vs香港@香港であるので、5月1日より準備合宿が始まりました 日程は メンバーは 松永成立 (Cap.) 堀池巧 信藤克義 井原正巳 梶野智幸 佐々木雅尚 柱谷哲二 ▼80' OUT 長谷川健太 水沼貴史 吉田

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第五回 日本代表チーム帯同    1989年 ワールドカップ予選     vs香港@香港       

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第四回 日本代表チーム帯同  1989年 中東遠征

          1989年は中東遠征からのスタートでした。 メンバーは スケジュールは またしても豪華、約一ヵ月の中東旅行・・・ 日本に近い環境のヨーロッパでもイロイロと大変だったのに・・・ 未知の中東って・・・ 最初に行ったイランは、昨年までイラクと約8年間の戦争(1980~88年)が終わった直後の状況でした 街の中には私服なのに機関銃を担いだ人たちがウロウロして、街全体が殺気立っている異様な雰囲気に満ちていました イスラム原理主義政権なので、女性はブルカを着用し到着してす

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第四回 日本代表チーム帯同  1989年 中東遠征

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第三回 日本代表チーム帯同 1988年

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期 第三回 日本代表チーム帯同 1988年 治療室での治療、日本リーグチームへの派遣生活を続けている時に医院長から 医院長 「野﨑、代表に行くか?」 私 「代表って何の代表ですか?」 医院長 「サッカー日本代表だよ!!」 「海外旅行にも行けるし、ジャージとかもらい放題だぞ!!」 私 深く考えず、二つ返事で 「はい、行きます!!」 こんな軽い会話から1990年イタリアワールドカップを目指す日本代表チームトレーナーに就任しました

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第三回 日本代表チーム帯同 1988年

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第二回トレーナー活動開始

          代々木治療院は≪日本サッカーリーグ JSL≫のチームにトレーナーを派遣し患者さんは、一般の方3割スポーツ関係7割位の比率でした 治療院での活動が始まり 「やっとトレーナーらしい?活動ができている」 という実感が出てきました ≪日本サッカーリーグ JSL≫は1993年にJリーグがスタートするまでの日本における最高位のサッカーリーグでした ただ、その実情は≪企業の部活≫であり、選手ほぼ全員が所属企業の社員で午前中仕事⇒午後トレーニングを行っていました トレーナーとして

          第二章1985年~現在 トレーナー活動期第二回トレーナー活動開始