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第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十四回 日本代表チーム帯同 1990年 第11回北京アジア大会

8月4日に3戦全敗のダイナスティカップを終え8月中は特に代表の帯同はなく治療室でのトリートメントに明け暮れていました

9月22日~10月7日までの期間開催される第11回北京アジア大会に向けた準備のために9月4日から19日まで茨城県で事前合宿をおこないました

大会前に選手、スタッフに支給されたガイドブックです


北京へ発つ前までの予定表です
大会を含めると結果、約一ヵ月の拘束です


ここでもダイナスティカップ前の合宿をおこなっていた検見川での“消防車来ちゃった”事件に匹敵する事件がありました

神栖町が用意してくれた天然芝練習ピッチ、が・・・・

夜な夜な血気盛んな若者たちが乗り入れたと思われる車やバイクによって綺麗に掘り起こされてしまっていました

“練習ピッチ使用不能”事件発生です

大切な大会を前に不穏な雰囲気が・・・

今回はアジア大会という多くの競技が行われる大会で、私自身初めての経験でもあり少し楽しみなところがあります

実際、なかなか接することのできない他競技の選手、メディカルスタッフと接しられたのはいい経験になりました!!

今回の代表からラモス、カズ両選手が入り、チームの雰囲気が一変しました

両選手がサッカー協会の担当者に

フル代表なのに
「何でマネージャーがいないの?」
「何でホペイロがいないの?」
「何でキーパーコーチがいないの?」
「何で?何で?何で?」

と毎食後、食事会場で言い続けていたことを思い出します

これら選手目線の文句?要望?が、それからのフル代表改革に大きな影響を与えたことは推して知るべしデスネ!

さすが、ラモス、カズ(笑)(笑)(笑)

入場式を前に女子バレー日本代表チームの皆さんと記念撮影

9月22日に開会式を終え26日に初戦vsバングラディシュをむかえ
7分柱谷、28分64分長谷川選手の得点により3対0 

日本代表久しぶりの勝利!!

スタメン
森下申一 (Cap.)
堀池巧
阪倉裕二
井原正巳
佐々木雅尚
福田正博
長谷川健太
ラモス瑠偉
柱谷哲二
黒崎久志 ▼70' OUT
三浦知良
サブ
菊原志郎 ▲70' IN
下川健一
信藤克義
佐野達
反町康治
永島昭浩
田口禎則
松山吉之
武田修宏

しかし、その後は

28日vsサウジアラビア 0対2 ●
スタメン
森下申一
堀池巧
信藤克義 (Cap.)
井原正巳
佐々木雅尚
福田正博 ▼46' OUT
長谷川健太
ラモス瑠偉
柱谷哲二
三浦知良
武田修宏 ▼59' OUT
サブ
佐野達 ▲46' IN
菊原志郎 ▲59' IN
下川健一
反町康治
永島昭浩
田口禎則
松山吉之
阪倉裕二
黒崎久志

10月1日vsイラン 0対1 ●
スタメン
森下申一
堀池巧
信藤克義 (Cap.)
井原正巳
阪倉裕二
佐々木雅尚
菊原志郎 ▼85' OUT
ラモス瑠偉 イエローカード ▼81' OUT
柱谷哲二
長谷川健太
三浦知良
サブ
反町康治 ▲85' IN
黒崎久志 ▲81' IN
下川健一
佐野達
永島昭浩
田口禎則
松山吉之
福田正博
武田修宏

予選リーグを1勝2敗にて敗退・・・

アジア大会はあっけなく10月1日にて終了

「さて、切り替えて帰国しよう!!」

ところが・・・

帰りの飛行機便が取れません

「え、、これから約一週間何するの??」
「北京で??」
「しかも、選手村で??街には出られないし・・・」

結局、最終日までトレーニング・グラウンドもなく他競技の応援に奔走する、まるでファン・サポーターでした(笑)

かたや、女子サッカー代表が銀メダルを取った大会でもあり

男子チームは、シッカリと応援にまわりました(笑)(笑)(笑)

閉会式が終わりやっと帰国の途に

閉会式入場を前に

次回は
代表最終年度1991年です

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