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第二章1985年~現在 トレーナー活動期第三回 日本代表チーム帯同 1988年

第二章1985年~現在 トレーナー活動期
第三回
日本代表チーム帯同 1988年

治療室での治療、日本リーグチームへの派遣生活を続けている時に医院長から

医院長
「野﨑、代表に行くか?」


「代表って何の代表ですか?」

医院長
「サッカー日本代表だよ!!」
「海外旅行にも行けるし、ジャージとかもらい放題だぞ!!」


深く考えず、二つ返事で
「はい、行きます!!」

こんな軽い会話から1990年イタリアワールドカップを目指す日本代表チームトレーナーに就任しました

当時の日本代表サッカーチームは・・・・

Jリーグ開始前のアマチュア日本リーグに所属する選手で構成されているチームでした。
そして何が違うかと言うと・・・

ユニフォームが・・・

日本代表サッカーユニフォームといえば、侍ブルーと言うように“青”がベースのユニフォームが基本でしたが・・・

’90イタリアワールドカップ代表ユニフォーム

今回の代表に限って“赤”です・・・
貴重といえば貴重です(笑)(笑)

そして、遠征帯同スタッフの数の違いです。

当時の代表は
国内遠征
監督1名 コーチ1名 トレーナー(フィジカル)1名 マッサー1名 計4名


当時の国内遠征スタッフ構成

海外遠征
監督1名 コーチ1名 ドクター1名 トレーナー(フィジカル)1名 マッサー1名 渉外1名 計6名

当時の海外遠征スタッフ構成

現在の代表は
海外遠征
団長1名 監督1名 コーチ3名 フィジカルコーチ1名 GKコーチ1名 テクニカルスタッフ4名 ドクター2名 アスレティックトレーナー4名 フィジオセラピスト1名 チーム統括1名 メディア2名 カメラマン1名 キット担当2名 シェフ1名 添乗員1名 計29名

選手より多くねェ(笑)(笑)(笑)

約30年でここまで環境整備ができたあと思います!!
Jリーグ開幕、関係各位の努力の賜物ですね!!

当時、代表チームの集合場所は渋谷道玄坂にあった≪聚楽≫という日本旅館でした。
80年代でもスゴク年季の入った昭和初期からある旅館で、選手たちと“お化け屋敷”と揶揄していました(笑)(笑)(笑)

トレーニングは、千葉県検見川にあった東大の施設を使用していました。
日本代表にとっては、銅メダルを取った1968年メキシコオリンピック前合宿を行った縁起の良い施設だったようです。

がしかし、当時の施設は木造平屋、二段ベッド、昼食は丼ぶり飯、共同トイレ、共同シャワー、などなど現在では思いもよらない状況でした・・・

検見川合宿所の室内 選手も同じ間取りでした

Jリーグ開幕前のアマチュア主体の代表ですからしょうがなかったかもしれませんが・・・

いちようワールドカップを目指す日本代表なんですけど・・・(笑)(涙)

代表での初仕事は
1988年キリンカップ
参加チーム フラメンゴ レバークーゼン 中国代表 日本代表

現在のキリンチャレンジカップです。
今は各国代表との試合ができますが、当時の日本代表のレベルではクラブチームにすら勝つことが難しい時代でした・・・

’88キリンカップ VSフラメンゴ スターティングメンバー                 写真提供/フォート・キシモト
キリンカップ 日程

大会そのものは5月24日~6月7日まででしたが・・・
想定、予想外の拘束期間が・・・

5月8日から事前合宿があり、合わせると約1ヵ月の拘束です(涙)(涙)
そして、意気込んで挑んだ初仕事は全敗で終了(涙)(涙)

当時のフラメンゴには後にアントラーズに加入するジーコ選手が所属していて、ウェルカムパーティーで記念写真を撮らせてもらいました。

’88キリンカップ ウェルカムパーティー
野﨑 信藤選手 ジーコ選手 森下選手

選手共々ただのサッカーファンでしたね(笑)(笑)
今となれば良い思い出です!!

キリンカップが終わり、一息ついたのち

6月19日から7月21日まで、ヨーロッパ選手権観戦付き豪華1ヵ月ヨーロッパ遠征です!!

ヨーロッパ遠征 日程

院長先生の話に踊らされ、ヨーロッパ旅行冊子などを荷物に忍ばせ意気揚々と成田を飛び立ちました!!

6月22日 準決勝 ソ連 vs イタリア
試合前にイタリアサポーターと記念撮影


6月25日 決勝 ソ連 vs オランダ

ミュンヘンで決勝が行われ、オランダがソ連を破り優勝した大会でした決勝のミュンヘン・オリンピアシュタディオンはオレンジ一色で、試合が終わった後ソ連の選手たちがヘリコプターでスタジアム脇から飛び立っていったことを思い出します

オーストリア ザルツブルグ                         真田選手 野﨑 横山監督 梶野選手 原選手 池ノ上選手 井原選手


トルコ イスタンブール                           柱谷選手 佐々木選手 信藤選手 野﨑

これらの写真からすると観光のように見えますが・・・・

選手19人の選手をマッサー一人でコントロールするグループでした

移動⇒試合⇒マッサージ⇒トレーニングの延々ループ、オフ無しの一か月でした(涙)(涙)(涙)

食事・移動・トレーニング・試合・睡眠以外の時間で一日平均13~15人マッサージをしていました・・・手相がすり減って無くなるかと思いました(涙)

マッサージなどの業務に忙殺され、到着して数日後に持参したヨーロッパ旅行冊子をゴミ箱に投げ捨てました・・・(笑)(涙)

帰国した日に時差ぼけ、緊張感からの解放などでスーツのまま倒れこむように寝入ったことを思い出します

こうして日本代表1988年は過ぎてゆきました

次回は1989年の日本代表です


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