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読書と性分

ここ20年近く、仕事で他人様の文章ばかり読んでいる。
しかも書くことが本業でない人の文章だ。
時期によって、正業だったり副業だったりする。
話し言葉を書き言葉にしていくのは、結構ストレスのたまる作業だ。

そのせいかどうかよくわからないが、めっきり読書をしなくなった。
コロナ禍となってからは、本屋さんに行く機会もなくなった。
かといって、ネットで注文ということもない。
それで私は、本を読むこと、買うことよりも、どの本を読もうか迷うことが好きなのだとわかった。

大型書店で膨大な本棚の端から、「今日買う1冊」を選ぶ。
図書館では、この楽しみはない。
お金を払わないからだ。

食べるものにも不自由する貧困の中で幼少期を過ごした。
生きるために必要のないものにお金を出すということは、ある意味、命を保つことと引き換えにする思いがある。
何かを得るために別の何かを犠牲にする。
だから、図書館で本を選ぶのとは本気度が違う。
食べ物と引き換えにしなくてもよくなったいまも、その性分は変わらない。

帯を読み、裏表紙の概要みたいなものを読み、あとがきを読み、冒頭の数ページを読む。
私好みの文章のリズムのようなものがあり、それが肌に合うかどうかを確認する。
むしろ、ストーリーより、こちらのほうを重視することもある。

面白い物語でも、文章が合わないと、読み続けるのにストレスがかかる。
言葉の使い方、句読点の打ちかた、改行のしかた。
ここは漢字かひらがなか、あるいはカタカナか。
それらのひとつひとつに好みがある。
読み進めていて、好きな言い回しが自分と一致すると、暗い内容であってもなんだかすごく気分がいい。
なんといっても「お金を出すんだからね」という貧乏根性が根底にある。

そして、この迷ったり悩んだりしている時間が、私には楽しいのだ。

しかし。
仕事で、他人様の文章をいじっているときにも、この好みは反映されてしまう。
もちろん、原則として正しい使い方を選択するが、明確に基準と照合できないものに関しては、直し方に好みが出てしまう。
私の中に「私だけの辞書」のようにマイルールが存在するようになる。

長い間そういう作業を続けていると、仕事と趣味の境が曖昧になり、楽しいはずだったことがそうでもなくなる。
でも、コロナ前は、大型書店にたびたび出向いた。
何時間も費やしたあげく、何も買わずに帰ることも多い。

そして、気づいたのだ。
読むことよりも、読む本の選択に迷うことが好きだったのだと。
仕事で扱う文章はもちろん選べない。

幸せは何かと問われたら、ひとつの回答として「選択肢があること」を挙げる。
その中から、自分で迷って悩んで決められること。

コロナ禍となり、書店に行く機会がなくなると、私はほとんど本を読まなくなった。
読みたいという気持ち自体があまりない。
長年の仕事で自分の心の淵にこびりついた言葉の垢みたいなものが、感性の通り道に梗塞を起こしているのかもしれない。

ブログを書いていることも大きい。
私の中では「書く時期」は読まず、「読む時期」は書かないみたいなリズムがある。
脳のつくりが、読み書きを同時にできないようになっているのだ。
だから同じ時期に本を読み、書ける人はすごいなぁと思う。

仕事では、情報の正確さを確認し、他人様の文章に「ケチをつける」。
こんなに直して申し訳ない、本人が見たらさぞ不快だろうと思いながら作業する。
だからかもしれない。
私は、自分の文章はほぼ一発決めで校閲しない(^^;
間違っていても、変でも、まあいいやと、開き直っている。
読ませていただく記事も同じだ。

それは、お金のやり取りがないから。
なのに、ときどきとてつもなく好きな文章に出会う。
タダでだ。
ますます、本屋でお金を払う基準が厳しくなる。

根底はカネかよ、と軽蔑したアナタ。
その感覚はたぶん正しい。

「好きなのは ページをめくる君の指 私の髪を撫でる その指」

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風待ち
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