認識と事実
意識という絶対の事物に、認識という相対が伴っている。
顕在意識、潜在意識、個人的無意識、集合的無意識と呼ばれるものは、
認識のグラデーションであり、精神世界は認識の中にしか存在しない。
それは各層の記憶からなる厖大なイマージュでもある。
"認識"を用いる限り、認識を見る。
それを現実として体験する。
土台(意識)の上に投影された"認識"を観測することで、
次々現実を確定しながら体験する際限のない固定観念。
事実の表層で、事実を捏造し続ける。
だから占術は主観の投影が大きいほど、想像火傷と変わらない。
捏造だから、ある時は異様なほど的中し、別の時にはそれが的中しない。
永遠に完成しないから、生涯研究しても足りないテーマという事になる。
だが "認識"を用いず、事物という土台に触れるほど事実に近づく。
物理的には、意識とは事物、環境を伴う肉体の機能という事になる。
先入観や記憶を持ち込まず、今の事実だけにして機能に打ち任せる。
人相などに何かの兆しが顕れるのは、機能という事実と言っていい。
それは、確かでありながら曖昧で、しかし、手掛かりにはなり得る。
同様に顕れる事物の兆しを、何らかの方法で捉えるのが運命学と言える。
だが 生きてる事実に基づくデータというのは、杓子定規にはなり得ない。
誤差ないし幅がある。
しかし、その "範疇" に於いて "完全に外れる" という事は まずあり得ず、
その様相に沿った状況を必ず伴っており、避ける事ができないのが判る。
認識ではなく、如何に事実に触れているか、事実と一つになっているか。
主観を超えて的中する、共時性とも同時並行性とも言える運命に適うか。
認識を置き去りにして事実そのものである時、それを発見するのである。
それは往々にして、一般に認識されているものとは違い、逆でさえある。
歴史と伝統、正統な概念が全く通用せず、それらは迷信と憶測に変わる。
だから大抵の場合、何故そうなのか本人にも判らない。
認識を用いるという事は、浅も深も既知を体験しているだけに過ぎない。
認識とは記憶であり、投影しても永久に生きた事実と一致する事はない。
生きた蝶を、生きたまま標本にはできない。
記憶で記憶を見て、事実にこじつけても必ず矛盾する。
人類の記憶は言われるほど偉大ではない。
生命の事実に抵触するような叡智は少なく、その殆どは主観でしかない。
認識、即ち主観は顕在的であれ潜在的であれ、事実を見ないようにする。