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詩人のモーニングルーティンを紹介

誰にも朝はやってくる。朝の早い郵便配達夫にも、深夜まで残業しているブラック企業の社員にも、あるいはそんなひとたちを送り出す主夫/主婦にも、老後を迎えたひとにも、あるいは限りなく短い余生を病床で過ごすひとにも、総理大臣にも、小学生にも、大嫌いなあいつにも、大好きな恋人にも、りょうすけにも、あるいはさやかにも、人ではない犬にも、猫にも、鶏にも、あるいは動物でもなく、パキラにも、テーブルヤシにも、弱ったモンステラにも、「勝手に映えてくる雑草」にも、そして今の季節なら迎えることを愉しみにしているだろう、数多の蝉たちにも、誰にも朝はやってくる。誰もがそれぞれの迎え方をし、それぞれに送っている朝。そんななかから、ひとつの朝を取り出してさらにそこからいちばんポップな部分を抽出して、ここに披瀝してみようではないか。


導入

友人たちから評判の良かったのがバイク免許合宿の紀行文である(以下マガジン参照のこと)。

これは普通自動二輪の免許を合宿で取りに行った時の出来事を毎日文章にまとめたものである。「もっと紀行文書いてみてよ」と言われるが、なかなか書くことができない。理由は明白だ。紀行文は自分が慣れ親しんだ環境の外に出て書くから可能なのであって、いつもいる「ここ」のことを書こうとしたら、日記的になってしまう。

日記は続かない。わたしだけではないだろう。小学校の宿題なんかで絵日記を書かされた経験のあるひとは少なくないだろうが、夏休みのような非日常ではなく、毎日のことを書こうとしたらどうしても退屈してしまう。わたしには習慣があるからだ。朝起きて、歯を磨いて、顔を洗って、ご飯を食べて……そんなわたしにとってのルーティンを毎回同じように書くのは苦行か何かに思われてくる。だから日記は微視的になっていくものだ。

モーニングルーティン動画が流行った。バナナのスムージーを作ったり、植物に水をやったり、画面の色調はぼんやりとした白でまとめたり、こういうのを見るとわたしは恥ずかしくなってくるのだが、ルーティンや習慣というのは当人にとってだけ意味があるものであって、勝手に恥ずかしくなるわたしはひとの日常を覗き見ているに過ぎない。もっとやってくれ。

わたしだけの退屈な毎日が鮮やかなものであることを思い出すのに、モーニングルーティンを見せびらかすことは効果的だ。誰か他者の視線を意識することで、ハリが出る。自己とは他者の他者なのだから。自律とか自立とか言われるけれども、その言葉が実際に意味しているのは、いかに他者を「自己」に取り込めるかという話であるだろう。

こう書いてきてわたしは自慢できるほどのルーティンを持っていないことを恥ずかしく感じているのかもしれないと思う。ならば、わたしも他者の視線を意識しよう。ここにわたしの朝のルーティンをここに暴いてみようではないか。

わたしのモーニングルーティン

まず、わたしの朝は本から始まる。枕元に置いてある本を寝惚け眼でいくらか読む。だらだらSNSを見て朝を始めるよりずっとよい。何ページか読んで、身体も覚めてきたら尿意に気がつく。

それでトイレだ。靴下を履いて階段を降りるとトイレがある。特に取り柄のない水洗式の洋式トイレである。ここはシェアハウスなので、誰かとバッティングすることがある。そんなときはまず顔を洗う。洗顔料は使わず、どの季節でも水で洗う。さて、ここで、

ポイントその1:  洗顔後はタオルを使わない

ティッシュペーパー

洗った顔は、タオルでは拭かないというのがわたしのこだわりだ。なぜか。タオルには雑菌が繁殖しやすいからである。だから、ティッシュペーパーか厚手のキッチンペーパーで拭くことにしている。朝に限っては化粧水の類も用いない。顔を紙で拭って、ここからわたしの行動が始まる。今度は朝食を準備する。さて、ここで、

ポイントその2:  Huelを飲む

HuelボトルとHuelブラックエディション

朝食にはHuelを飲む。朝は時間があったりなかったりするし、ここはシェアハウスなので家に食材があったりなかったりする。そんなとき、そのような外的要因から朝食が影響を受けないように、だいたいHuelを飲むことにしている。Huelとは何かというと、完全栄養食で、パウダーと水(あるいは植物性ミルク)を専用のボトルで混ぜるだけで作れる優れ物。1食あたり300円未満で、栄養もバッチリ。朝以外でも、小腹が空いた時には飲むようにしている。

ポイントその3:  大量のコーヒーを淹れる

HARIO V60

コーヒーを淹れる。豆に特にこだわりはないけれど、やまやで売られている1kgサイズの豆はコーヒー消費量の多いこのシェアハウスでは重宝している。使うドリッパーは主にHARIOのV60(ASHさん寄贈)で、そのとき起きている人数に関わりなく大量に淹れる。自分が飲まなかった分は後の自分か他の誰かが飲むので。

ポイントその4:  Let's SMOKE!!!

火消し猫
火消し猫

タバコ。外せない。望むべくはゴロワーズで一日を始めたいが、手元になければ他のタバコでもいい。手巻きタバコでも既成の紙巻きタバコでもいいが、わたしたちの朝はコーヒー&シガレッツで始まる。朝の一本が一番おいしいという俗説がある。わたしは同調しない。わたしにとってのタバコはやはり嗜好品で、味をこそ楽しみたいものだけれど、朝のタバコではそうはいかない。まだ覚醒していないのもあるし、朝一の一本はせいぜいNicotineの摂取という側面が大きいのである。

ポイントその5:「      」

シェアハウス前の置物

これが一番大事だ。ルーティンだからといって時間を大事にし過ぎないこと。時間を大事にしなければならない、という内から響いているのか外から響いているのかわからないようなアジテーションに耳を塞ぐこと。

たしかに時間は大事だ。時は金なりと言う。それはその通りだ。だが、何のための時間が大事なのかを忘れてはならない。余暇と労働のサイクルを効率よく回してくれる歯車として期待され、そのとおりに時間を大事にするなんてのはクソ食らえだ。とそう、一抹も思ったことのないひとにはわたしの言っていることは伝わらないかもしれない。

労働者として生産しては、今度は消費者としてそれを買い戻すというサイクル、この終わりのない欲望のサーキット上で「時間を大事に」なんてことをのたまうのは、消費資本主義の求める都合の良い歯車に過ぎない。今度の休暇のために辛い労苦に耐えて、今度は労働時間をリフレッシュした気持ちで迎えられるようにと、休暇はまるで与えられたカタログから選ぶみたいに遊び方を決めて、それを延々と繰り返して、とたまに醒めた目でそれを見返すとき、自分は惨めだと感じる。

ときにはそんな流れに乗っかってみるのも面白い。だが、それをまるで自分の欲望かのように勘違いしてはならない。これは他者の欲望だ。時間を大事に使うとは、時間を贅沢に滔々と流してしまうこと、「浪費」することではなかったか。時間を疎かにすればよいというものではないが、何かに夢中になってしまって、気づけば予定もすっぽかして日が暮れている、というような時間の流れ方を忘れてしまってはならない。

朝には習慣があるが、その習慣も、ときには崩してしまう勇気を持たねばならない。喫茶店のモーニングを食べに行ったり、寝起き早々散歩してみたり、そういったものの準備として、崩すべきものとして習慣を考えてみるのもよい。

まとめ

時間だけは平等に与えられているという言葉にわたしは違和感を抱えていて、そもそも時間というものを客観的に外部を流れているものとして捉えているのが身に合わない。友人と過ごす楽しい時間があっという間に過ぎるという経験や、出口の見えない会議が果てしなく長く感じられるという経験を鑑みたとき、時間とは勝手に流れているものではなくて、自他の間に流れているものだと思ってしまう。

とはいえ、いつも誰かと時間を生成することもできない。わたしたちは結局、ひとりで眠りに落ちねばならないし、ひとりで起きなければならないからだ(添い寝していても、一緒にいられるのは眠る直前までと起きた直後からだ)。自分ひとりの時間を大事にするというとき、客観的な「時間」をうまく制御することは大事なのだろう。

ここには、ひとりの人間の「モーニングルーティン」と呼べる何かを取り出した。参考になる部分もあるかもしれないし、全く参考にはならないかもしれないが、わたしの露出症的な欲望、あるいはあなたたちの盗み見的な欲望以上に、このnoteを読む間に濃密な「時間」が流れていたらうれしいと思う。

読んでくれてありがとう。

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葦田不見
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