【推し本】海をあげる(上間陽子)/聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない
柴崎友香さんが何かの対談の中で、この本をいいと言っていたので、予備知識なく読み始めて、小説かと思っていたらまるで違って、一気に読了しました。
冒頭から、夫に長く恋人がいて、それは近所に住んでる友人だった、という著者自身の経験が書かれていて、いきなりの個人的すぎる事情の暴露に、おお?となります。
ごはんを食べることもできなくなり、それでも「死んだらあかん」と繰り返し念押しした友人や、ごはんを作ってくれた友人に支えられた経験が、その後再婚して授かった娘を育てる中で、まだ小さな娘に伝えたいメッセージにもつながっていきます。
そして、祖父母との思い出や母親とのかかわり、娘の保育園での水遊びの話などふんふんと私小説的なものかと読んでいたら、急に水道水から有害物質検出され、どうやら嘉手納基地や普天間基地の泡消火剤で汚染されていることが語られます。そして上空には爆音の米軍の飛行機。
そう、著者は沖縄の普天間基地のすぐ近くに住んでいるのです。
そして、社会学者として沖縄で著者が聞き取りをしてきた話が語られます。
父親に虐待されて育ち、恋人に風俗をさせて荒稼ぎしてきた男性、
未成年出産者の割合が沖縄では高いこと、
でも出産に至る前に中絶されたことも多かろうこと、
家出を繰り返し若い母親になっても、子供を育てるために風俗で働くしかない女性のPTSD、、、
親子間、パートナー間での加害と被害が縄のように絡み合って、袋小路のようにも思え、読んでいても苦しくなります。
また、当事者が触れられたくないことを聞き取るのは、なんと凄まじいパワーのいることかと思わずにいられません。
それでも、著者自身も生きることが面倒になった経験があればこそ、当事者も聞いてくれると思って話せるのでしょう。
あとがきで、著者は次のように述べていますが、聞く耳を持てる人というのはそう簡単にはいないですね。
社会学者として対象を見るだけでなく、著者自身が、沖縄に生まれ、普天間基地の爆音の下で生活し、水質汚染からも性暴力からも自身も娘も守らねばならない同時代の当事者でもあることが、著者の運命でもあり、強みでもあります。
この本で上間さんがとった戦略は、そこに住むほとんど無力と思える一市民の目で、母親として、そして幼い娘の視点で、
ご飯をもりもり食べる子と爆音戦闘機、
幼子の水遊びと基地による水質汚染、
祖先がいるはずのニライカナイの美しい海と埋め立てで窒息する生物、
これらの、本来併存してはおかしい異質性を際立たせ、深い深い哀しみを読み手に受け渡すことです。
最後はほとんど投げ渡す、と言ってもよいかもしれません。
米兵による強姦致死事件、辺野古の埋め立て問題、沖縄への差別を固定化する政治、弱い経済のしわ寄せの若い母親問題など、
もはやこの一冊では処理しきれない、
もはや沖縄の人だけで対応すべきものではない、
だから広く読者に宿題として放り投げるのです。
タイトルの「海をあげる」の意味が最後に書かれていて、読者も傍観者ではいられなくなります。
声にならない声を聞く聞き手としては、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチが膨大な声をひたすら聞き、「戦争は女の顔をしていない」「ボタン穴から見た戦争」「チェルノブイリの祈り」を著しています。
また、性暴力調査については、カロリン・エムケが「なぜならそれは言葉にできるから」(みすず書房)で著しています。
これについてはまた今後書きます。