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【推し本】オルガ(ベルンハルト・シュリンク)/これからまだどれだけのオルガを生むのか

第一部 三人称で語られるオルガの前半生

本書は三部構成で、第一部は20世期初頭、まだ第一次大戦前のドイツの片田舎で農場主の息子ヘルベルトと貧しい家の娘オルガとの、身分の違うほろ苦くも牧歌的な青春から始まります。
ヘルベルトは、師範学校に入るために勉強しているオルガに「結婚しよう。そして勉強はやめるんだ」と言います。身分違いから結婚など望めないことはオルガは本当はわかっています。

あんたはわたしと結婚しない。今は結婚するには若すぎるし、将来は、あんたの両親がもっといいお相手を見つけるだろうから。(略)だから、ちゃんと決めなくちゃ。いつ見つめあって、いつ勉強するかを。

その後、帝国主義、領土拡張の時代の中で、南西アフリカに行ったり、南米に行ったり、挙句、北極冒険に囚われて遂に帰らなかったヘルベルトと、二度の大戦を経てせっかく得た教職もナチスに追われ、病気で聾になりながらも縫子を続けながらその男を終生思い、届かぬ手紙を書き続けていたオルガ。
大きな物語を追いたい男には常に冒険ロマンや戦争という材料が必要で、そんなことより日々穏やかに愛する人と小さな物語を紡ぎたい女との埋めがたいギャップは、アレクシェーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」にも通じます。

第二部 少年フェルディナンドが語るオルガ

第二部では、第二次世界大戦後に縫子の仕事先で出会った、オルガとは祖母と孫ほどの年齢の違うフェルディナンドの視点でオルガの晩年が語られます。
若いフェルディナンドとの関係は、「朗読者」で描かれたようなロマンチックなことはなく(年が離れすぎている)、しかしフェルディナンドがある女の一生に思いを巡らせるのは「朗読者」を想起させます。
ちなみに、聾になったオルガと、「朗読者」の文盲のハンナどちらにも、外からは分からない不自由さとともに、だからこそのある種の自由をもつ強さのようなものが通底します。

オルガは、フェルディナンドのことは何でも批判せずに聞いてくれるのに(聾になっても読唇術を得ている)、成績が悪くなったことだけは不機嫌になるというのも、「朗読者」のハンナを思い出させます。

女子高等学校に行きたかったのに許してもらえなかった、という話を彼女はぼくに聞かせた。どうやって師範学校に入るための課題を一人でやりぬいたか。学ぶことは特権なのだった。学べるときに学ばないのは愚かで、甘えで、思い上がりなのだった。ぼくの成績が悪くなったことだけは絶対に認めてもらえなかった。

私の祖母のうち、明治生まれの祖母は、おそらく女子ということで高等教育が受けられなかったことを終生無念に思っていました。それでも商店を切り盛りするしっかり者で頭脳明晰で、相当な年まで続けていた習い事の習字やちぎり絵は見事なもので、母は「世が世ならお義母さんは先生になれたわね」とよく言っていました。
もう一人の大正生まれの祖母は女学校まで行けたことを誇りにしていましたし、それは当時誰でもができることでもなかったのでしょう。なので孫たちが大学進学すること、自立できる力を持つことを喜んでくれていたと思いますが、それはまさに、学べることは当たり前ではなく特権だという、オルガの思いと重なります。

第三部 オルガが残した手紙(1913年~1971年)

第三部では、オルガが語らなかったこと、ヘルベルトへの変わらぬ忠実な思い、そして最後の死の謎が、残された手紙で浮き彫りにされます。
その結末は「えっ」という終わり方で、刊行当初の書評でも賛否両論だったのですが、そのざらっとした読後感に、これは何か似た話があったぞと思い出したのは有吉佐和子の「鬼怒川」です。
「鬼怒川」では夫、息子、孫まで黄金埋蔵伝説に取り憑かれ生活力のない男達と機織りで支える女の話。男達の夢想を終わらせる破滅的な最後がオルガに通じるのです。
男ってまったく本当に、というのと、女もじっと耐えているようで黙っているだけでもないのだ、というのは洋の東西を問わないのでしょう。
2022年の今まさに「大きな物語」に取りつかれた者たちが世界を乱す中、あとどれだけのオルガを生んでしまうのでしょうか。


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