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「イメージと文化」を考えるための「シネマ」ジル・ドゥルーズの解釈

「イメージと文化」を考えるための「シネマ」ジル・ドゥルーズの解釈 
イメージと文化(アート全域)の基本的解釈、アンリ・ベルクソン「物質と記憶」とパーツの記号論の周辺を考える時、その理解のためにも、このあたり(シネマ)は不可欠な項目だろう。


序文:シネマ(ジル・ドゥルーズ)その概略と解釈

ジル・ドゥルーズ著(Gilles Deleuze, 1925-1995/仏-哲学者)
(註)これは、イメージと文化を捉える時に、外せないアンリ・ベルクソン著(フランス-哲学者)の「物質と記憶」を理解するには、分かり易い書籍だろう。
ベルクソンは、「哲学の現実逃避」という、その枠組みについて、それを除くことにあった。
①「思考と運動」という概念を取り入れる。
②「持続」:運動の存続ができるか?(推進・軌道修正)
その最中に、映画が登場した。(*リュミエール・ブラザーズ-1895/仏)
(註)*リュミエール・ブラザーズ、1895年-パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(世界初の映画館):そこでは、実写映画「工場の出口」また「ラ・シオタ駅への列車の到着(諸説)」(動く鉄塊である蒸気機関車が、近づいて来る、その時、観客は壮絶となる)          そして、ジル・ドゥルーズは、映画(シネマ)の改新に、ベルクソンの著作「物質と記憶」を連想した。                     ジル・ドゥルーズの「シネマ」は、二部から構成されている。(ただ、どうでも良いことかも知れないが、原書から日本語版は20年以上後に翻訳されている)
1)シネマ1:運動とイメージ 1983年刊
2)シネマ2:時間とイメージ 1985年刊
の構成だ。
・ベルクソンの「物質と記憶」、また、パースの「記号論」から、映画の独自性に基づく、「イメージと記号の分類」を、そこで、試みている。
(註)クリスチャン・メッツ(Christian Metz,1931-1993/仏-映画理論家、映画記号学者)のような映像言語との類比的な映像論からは距離を置く解釈だ。
・そして、シネマ2は、シネマ1の補完物ということになる欠かせない2編だろう。


1)シネマ1:運動とイメージ(1983年刊)を考える。

ベルクソンの「物質と記憶」、そして、パースの「記号論」から、それらを解くように、映画の独自性を「イメージと記号の分類」により解説されている。

*物質と記憶

*パースの「記号論」(概論)

記号論(semiotics/semiology)とは、一般に記号といわれるモノの本質・在り方・機能を探究する学問体系だ。
記号論(記号学)での視覚情報の分析を考えてみると記号論は、視覚情報を分類、分析するうえに位置づけの1つでもある。
「万物はサインから成り立っている」チャールズ・S・パース博士
下記の3点のポイントから、展開されている。
サインの分類
① 図像(図表) ICON:所謂デザイン(自分で決められる)アイコン、非常口、マーク
② 指標 Index:矢印、引き出し線、カーソル、マンガの吹き出し、サウンドデータ
③ 象徴 Symbol:文字、数字、言語、国際的な決まり事
これらは、ハーバード大学において、パース博士が体系化をおこなったが、自身で思考する事が基本だろう。

*映画のイメージを「持続される、動的な切断面」 ≒ 運動イメージとして、捉える。

不動 ≠ 運動
*運動イメージは、中心なき宇宙をなす。いわゆる「不確定の中心」と重なり、
それは、
「知覚イメージ」
「感情イメージ」
「行動イメージ」
の3種類に分類される。
それは、ベルクソンの「物質と記憶」の解釈から、行動と反応からなる、「感覚運動図式」での連鎖だろう。

Fig.1 現在の行動に有効に展開するイマージュと観念
(註)アンリ・ベルクソンの解釈から、
物質と記憶を考えるとき、「身体とは、動いて止まない実存であり不可分だ、時間性と空間性を切り開く平面上(現在のすべてのイマージュ)の点から、自分の記憶の中に蓄積された。想起(思い出し)の全体。」と考えられる。

感覚運動図式


解説:感覚運動図式での連鎖Fig.1-1
・円錐SABによって、自分の記憶の中に蓄積された。想起(思い出す)の全体。
・点S:身体のイマージュの凝縮
・平面P:すべてのイマージュ(宇宙的な)

・この図(ベルクソン- 物質と記憶)は、シネマ2:時間とイメージ における「結晶イメージ」にも言える事だろう。
(註)「シネマ」は「物質と記憶」の解釈への理論構成の書籍なのだ。

「シネマにおけるイメージの分類」それは、かなり一般論から、乖離したところの「イメージ」という言葉が使われている。
そこが、ドゥルーズの哲学の核心なのだ。
(「欲動イメージ」「追憶イメージ」「心的イメージ」をドゥルーズは追加している。)


*哲学とは何か。

「内在平面」とは、思考イメージが、どう生まれるか?
イデー(英語ではアイデア-Idee/ドイツ語では-Idee/理念)を図解すると・・
Fig.2 イデーの解釈:プラトン的図式

欲望とイデーの解釈-プラトン的な図式


Fig.3 フロイトの回路(無意識がある)→これは、プラトンの図式の拡張。

フロイトの回路(身意識がある)-プラトン図式の拡張

(註)このドゥルーズの「シネマ1:運動とイメージ」では、ベルクソンの「物質と記憶」の「シネマ」と言うキーワードから、分かり易く体系化されていると言うことだ。

そのシネマ1での中での萌芽(ほうが-めばえ)は、シネマ2で、展開される。
そして、ドゥルーズは、ベルクソンが軽く触れた映画(シネマ)に、深く入り込んだ、哲学者だ。
映画とは、運動の再現ではなく、「make」(make/faire-作る・行う)であり、物語性とは無関の体験だ。

*「モンタージュ」技法

モンタージュには、物語性はない。映像と映像の組み合わせで「意図、感情」→「思考」へ導く、編集技法である。
カットつなぎの、そこには、物語性の入る余地はない。
(註)モンタージュの創成期の監督
・グリフィス(David Wark Griffith,1875 - 1948/アメリカの映画監督)
・エイゼンシュテイン(Sergei Mikhailovich Eisenstein,1889-1948/ソビエト映画監督)
(私見:国内では、記録としてのニュースでさえも、このモンタージュが使われている、残念だ。ただ、それも人が撮るのだから・・)

第3章においての、モンタージュ技法を突き詰めると、映画には物語性はないとすれば?
「記号」によって、言葉ではなく、意図を伝えることになる。
そして、チャールズ・パース(アメリカ-哲学者)の「記号論」を振り返る。
・記号とは、空気感、音、あるいは、「知覚的」「感情的」「瞑想的」「観念的」と言う性質がある。
・映画は、文学ではなく、文法やレトリック(修辞学:巧みな表現)から、一歩進んでいる。(解釈)
第6章では、感情イメージはクローズアップであり、それは顔だ。シネマにおける文学にはない様々なロジクックに触れる。
そして、
第12章では、ヒッチコックによる「行動イメージ」の限界を述べる。
ヒッチコック監督の映画に、物語性はない。
そして、サスペンスでは、先に進むはずのアクションの連鎖を止め、「運動イメージ」は気がつくとそれを構成する要素で飽和している。
その「運動イメージ」の構成要素での飽和は、それらは、もはや動画の一部ではなく、伸張する時間と思考の最高点に達している。
ここで、偶然に起きるアクションが、ドゥルーズの言う「時間イメージ」へと発展する。

*(追記:解釈の補填)ジル・ドゥルーズの「シネマ1」について、1983-4年当時のインタヴュー(A-B)から、ポイントを抽出する。

この時点では、シネマ2:時間とイメージは、1985年刊なので未完だ。(インタビュー:カルジュ・ダネイ)
*インタヴューA
・映画には、”イデー”が込められている。(イデーとは、思考のきっかけとなるイメージだ)
(註)イデー:英語ではアイデア-Idee/ドイツ語では-Idee/理念

・そのイメージの性質は芸術の分野で異なる。
(1)絵画:色彩と線
(2)音楽:音
(3)小説:言葉の描写
それぞれの分野での「技術的要素」と不可分な状態で結び付けられている。
・思考(イデー)は、イメージと不可分で、イメージに内在化されている。
・映画的な思考を考える

「問題を見出しておらず、何が、問題なのかを考える」それは、埋もれた問題の形式的な遡行(そこう:流れをさかのぼる)。
・映画的イメージ
映画の中に幾つかのイメージを見分けることとして
(1)深み(隠している)イメージ
(2)平坦なイメージ
(3)イメージの上にイメージが重なる → イメージの過去のレイヤー(層)の発見へ
(4)他のイメージの中の入れ籠のイメージ(内包)
(5)俳優の演出は「イメージ-行為」
そして、フラッシュ・バックだけでは、「イメージ-運動」は構成できない。
それは、映画(シネマ)は、偉大な創造物であり、思考の新しい機能を導き出す。それが、「イメージ-時間」(シネマ2)を構成する。
1984年の視点かも知れない。

*インタビューB
・「指物師としての哲学者」
ジル・ドゥルーズは、「私たちを毒しているのは、理論-実践と言う区分」と強調する。
それは、哲学を高次の言説にしようとして、空疎な味のない言説にしてしまった。
哲学は、「他の学問体系の以上でも以下でもない。ひとつの創造的な言説だ」
そして、哲学者は、ひとりの「実践家」であり、「指物師」である。
「概念は、はじめから出来上がっている訳ではない。それは、自分の手で創り出す。」
そして、署名がそれを示す。(例えば、デカルト)
また、「その概念は、常に手を加えなければならない」それが、辻褄の合うものになる。
発案と再考との作業は、二重の線に沿って遂行される。
このシネマ1は、ベルクソン「物質と記憶」において、「空間と時間」に関する諸問題のまわりを廻るようになり、映画(シネマ)の人々(スタッフ)はすでに、この事を理解しているのだ。
・「斬新さの新発見」は、セリーヌの現存性であり、ベルクソンも同様だろう。そこには反-順応主義者の視点だ。(アンチ・コンフォルミスト)
(註)ルイ=フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline , 1894-1961/フランスの作家、医者/「夜の果てへの」他)
そして、その概念の創造者であるベルクソン(ベルクソン ≒ ニーチェ)と考えられる。

そのベルクソンは、哲学者の役割は、
(1)同時代に、芸術や科学が生み出すものとの、呼応(こおう-互いに示し合わせ、相応じる)する諸概念を創り出す「すべ」を知る事。
例えば、アンシュタインの相対性理論の周辺
(2)パース博士「イメージと記号の分類」の明確化を行う。

・最後に、シネマ1≒ 記号に触れる。(≒ 近似値)
それは、記号のステイタス(社会的地位)に触れる事であり、狂気でも、自動筆記でもない。
そして、シネマ2に至る訳だが、それは、シネマ1の補完物ということになる。
1983年時点でのインタヴューB より、抜粋メモ
そして、1985年にシネマ2:時間とイメージが刊行される。


2)シネマ2:時間とイメージ(1985年刊)を考える。

この解釈には、シネマ1:運動とイメージが、必読だ。

*シネマ2では「時間の問題」と「身体の問題」が語られている。

・まず、シネマ2を、かんたんに言うと、「運動は、時間の従属である」
そして、映画の思考から、時間と運動をめぐる哲学の従来型の概念から、新しい概念を創り出していると言える。
この「結晶イメージ」には、ドゥルーズの思想が、多様性を持って、再構成された「結晶体」を示す訳だ。

(註)それは、戦後、欧州の廃墟などの状況が、感覚 - 運動図式を断ち切り、その登場人物は、無力化した。そして、記録として、視覚に委ねられ、行動の中に巻き込むことより、視覚に追いかけられ、また、視覚を追いかける。純粋に光学的な状況(視覚の認知状況)から、直接的時間イメージという位置付けられない関係が発生した。これが「結晶イメージ」だ。
(これは、例えば、「*ヌーヴェル・ヴァーグ」)

*その時間の問題は、ベルクソンの記憶の問題が出てくるが、それはベルクソン的ではない。(時間の問題:出来事であり、覆せない)

・ジル・ドゥルーズのその部分は、「現在という先端」を扱う事になる。
ジル・ドゥルーズは、「身体の映画」「脳の映画」を時間イメージの2つの形態と語る。
そして、それらを「結晶イメージ」に対応して語られている。
・ドゥルーズは、2つに分割されたイメージを「結晶イメージ」と呼んだ。
その分割は、イメージを「レイヤー」として重ねる、また、「並列化」する、その部分だ。
それで、関係性は、もはや、アクション、動詞、また「ing」ではなく、不定詞や多数記号によって成立する!
意味は、習慣していくことで成立し通用する、それは、映画もそうだろう。(ゴダール映画)
(註)このシネマ2は、”脳の映画”についても語っている。→哲学とは何かの終章もカオスから、脳へ、それは、脳における「俯瞰」だろう。
もう少し言えば、脳の生産性・創造性の信頼の表現だろう。

*その運動とイメージは「*ネオレアリズモ」、「*ヌーヴェル・ヴァーグ」(戦後映画)は、「感覚運動図式」(参照-シネマ1/Fig.1-1)では、解釈処理は出来ない。

それは、その事態(異常 or 日常)は、視覚的(光学処理された)・聴覚的な状況が、その人物(映画内の)は、「行動する者」から、「見る者」と変化する。
くり返すが、このシネマ2は、「脳の映画」についても語る。そして、哲学とは何かと言う- 終章もカオスから、脳へ、それは、脳における「俯瞰」だ。
そして、それは、脳の生産性・創造性の信頼の表現だ。
意味のロジックは、習慣していくことで成立し通用する、それは、映画と言う芸術もそうだろう。
「勝手にしやがれ」ゴダールをリアルタイムで見た人は、物語性を理解出来ないだろう。
それは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のつなぎ方で物語になるのだと言う文法だ。(記号をつなぐ)
そこにあるものは、言語学が捉えきれない言語を映画という芸術のなかで見出そうとしているだろう。
だから、イメージなのだ、しかし、音声イメージはどうなるのか?

*ドゥルーズは、議論は、思考・身体・脳・政治へ展開する。

そして、シネマ2では、身体も大きなテーマだ。
ドゥルーズは、身体の身振り、姿勢、態度、いわゆる「その人の重心」を重視しているのだ。
それは、芸術におけるデュシャン以降の極と重なるだろう。
「映画における、身体は現在がない。常に疲労と待機、過去と未来の引き裂かれたような状態で提示されるのだ。」
その身体の問題は、記号より重要かも知れない。
ドゥルーズの身体論は、「器官なき身体」という問題意識で貫かれている。
シネマ1では、さまざまなイメージのバリエーションとして出てくる。そして、シネマ2では、「結晶イメージ」に終息する概念だ。

また、それは、「感覚運動的なイメージ」(参考-シネマ1)の先にあるのではなく、そのイメージは自身の「潜在的なイメージ」と関係性を結ぶ。
その両者(感覚運動的・潜在的イメージ)が、識別不可能となる時点で、「結晶イメージ」を構成する。

*その「結晶イメージ」自体は:

その「結晶イメージ」自体は、時間軸は、もはや、運動を介して、ある意味、間接的に提示されるのではなく、それ自体、直接、掲示に至る。
この時間とイメージは、世界の耐えがたさを前にした思考の不可能性から、この現存する世界の信頼性を取り戻しの試みかも知れない。
いわゆる、生存している事自体の理不尽さ(不条理)の解決に向けているのかも知れないのだ。
(参照)感覚運動図式での連鎖 Fig.1-2 
現在の行動に有効に展開するイマージュと観念
・円錐SABによって、自分の記憶の中に蓄積された。想起(思い出す)の全体。
・点S:身体のイマージュの凝縮
・平面P:すべてのイマージュ(宇宙的な)
・そして、この図には、無数の心的性の反復の余地がある。意識はスパイラル状に反復しながら展開する。
・この図(ベルクソン- 物質と記憶)は、このシネマ2:時間とイメージ における「結晶イメージ」に言える事だろう。

感覚運動図式02

Fig.1-2

これは、ベルクソンの記憶の対応する時間、アイオーン(aeon-時代・人の生涯)、出来事、現在の先端と言う時間概念だ。

*時間イメージ・結晶イメージの問題は、歴史論でたどり着く。

歴史とは?
声=言語、また、大地=新た・物体のアレンジメント
そして、シネマ2の末で、広大な地平に「共存的な時間」
これは、イデア(イデー/アイデア-理念)から脱落した形態の人間の時間なのか?

ベルクソン(哲学者-物質と精神著)の発想を大切にドゥルーズは、時間の問題を扱っている。
運動イメージ(シネマ1)に対立する時間イメージとは独立変数t-(time)でもなく、時系列的な問題でもない。
そこへ、「時間イメージ」「結晶イメージ」が、創るのだ。
これは、ベルクソンの記憶の対応する時間、アイオーン(aeon-時代・人の生涯)、出来事、現在の先端と言う時間概念だ。

*ドゥルーズのシネマ2のポイントである時間論の核!

「差異と反復」の中の反復論、それは、①習慣 ②記憶 ③永劫回帰(えいごうかいき、ドイツ語: Ewig Wiederkehre /永劫的に繰り返す)
(その対応は、①ヒューム ②ベルクソン ③ニーチェ or フロイト)

そして、このシネマ2では、「結晶イメージ」に終息する。
そして、本書(シネマ2)は、映画論にとどまらず、ドゥルーズの後期の哲学的視点の広がりのある主著でもあるのだ。

3)最後に

時間論 ≒ 資本論、となるのかも知れない。
ドゥルーズの概念は、常に特異なもの ≒ 秘密を嗅ぎつける志向(≒ 近似値)
(註)イングマール・ベルイマン(Ernst Ingmar Bergman,1918-2007/スエーデンの映画監督)は、自ら映画を
「魂の内側で、心で、頭で、神経で、性(sex)で、そして、内臓でも作られた。」と述べていた。
この視点は、ドゥルーズと同じかも知れない。

ドゥルーズの哲学は、異様なものかも知れないが、それは、知覚から乖離しているからだろう。
シネマ1:運動イメージで、シネマ2:時間イメージの「結晶イメージ」となるのだ。

(EX)- 理解のための註釈

(註)「シネマにおけるイメージの分類」を再考すると・・・
それは、かなり一般論から、乖離したところの「イメージ」という言葉が使われている。
そこが、ドゥルーズの哲学の核心なのだ。

(註)イデーの解釈(シネマ1の内容を繰り返すが)
・哲学とは何か。「内在平面」とは、思考イメージが、どう生まれるか?
イデー(英語ではアイデア-Idee/ドイツ語では-Idee/理念)のイデー図解の参照

欲望とイデーの解釈-プラトン的な図式

Fig.2 イデーの解釈:プラトン的図式

(註)ネオレアリズモ(Neorealismo):

ネオレアリズモ(Neorealismo)は、戦後のイタリアにおいて、1940年代から1950年代にかけての映画、また、文学の分野での盛んになった潮流。
例えば、著名なものは以下に例を羅列する。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす(Ossessione)」(1942年/ネオレアリズモ運動の先駆的作品):ルキノ・ヴィスコンティ監督
「揺れる大地」(1948年)ルキノ・ヴィスコンティ監督

「無防備都市」ロベルト・ロッセリーニ監督(1945年)


「自転車泥棒」ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)


「8 1/2」フェデリコ・フェリーニ監督(1963年)


(註)ヌーヴェル・ヴァーグ(Nouvelle Vague):

ヌーヴェル・ヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。
ロケ撮影がメインであり、同時録音、即興による演出等だが、そこには、強力な理念が存在する、そして、その手法に共通性を持った一連の作品群だ。
例えば、ジャン=リュック・ゴダールたちの流れだ。その精神的な源には、ロベルト・ロッセリーニ等が存在する。
(例)「勝手にしやがれ」ゴダールをリアルタイムで見た人は、物語性を理解出来ないだろう。
それは、「ヌーベル・ヴァーグ」のつなぎ方で物語になるのだと言う文法だ。
そこにあるものは、言語学が捉えきれない言語を映画という芸術のなかで見出そうとしているのだ。
だから、イメージなのだ。
このシネマ2では、「結晶イメージ」に終息する概念だ。

「勝手にしやがれ」ゴダール-Trailer

(註)理解のための主な関連人物
チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce、1839-1914/US-哲学者、論理学者、数学者、科学者)
アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941/仏-哲学者)
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995/仏-哲学者)
クリスチャン・メッツ(Christian Metz,1931-1993/仏-映画理論・映画記号学)

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