【創作】ダ・ヴィンチの『吸血鬼』第2話
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それは、不思議な絵画でした。
背景は黒く、赤いローブを纏い、聖母のように美しい女性が、黒と白の中世風の衣装を着た男を抱きとめています。
金髪の女性は髪をまとめていて、卵型の美しい肌が輝くようですが、驚くのはその虚ろな表情です。
目線は宙を彷徨って、ここにあらず。口元は半開きで、祈りとも恍惚ともとれる表情になっています。それが、この女性の聖なる部分と俗なる部分を併せて表すかのようです。
『モナ・リザ』のあの微笑が、慈愛と挑発を合わせて調和しているとしたら、こちらは、ダークな闇の『モナ・リザ』とでも呼ぶべきでしょうか。
素晴らしい完成度であり、女性の造形は中性的。男性と女性とで、綺麗なトライアングルの構図が出来ており、確かにダ・ヴィンチの作と思えます。
ファブリツィオ・ヴェッティは、天使のような微笑をその美しい顔に浮かべて、私たちに語り掛けました。
「ダ・ヴィンチの『吸血鬼』とシモーネに伝えたのは、その方がきっと皆さまに注目してもらえると思ったからです。ご存じでしょうが、ダ・ヴィンチの時代に吸血鬼など現れていませんからね。
しかし、この女性の表情。これは、今しがた男の生き血を啜った吸血鬼の表情と言われても、ご納得はいただけるでしょう」
私は思わず頷きました。例えば、エドゥアルド・ムンクの絵画に、『吸血鬼』と呼ばれる作品があります。本当は『愛と痛み』というタイトルです。
男を抱きとめ、彼の首元にそっとかがむ女性の仕草が、血を吸っているよう見えなくもないため『吸血鬼』と呼ばれるようになりました。それと同様になってもおかしくない物語性と完成度を、ヴェッティが持ち込んだ絵は備えています。
「この絵は、どのような意図で描かれたのか、今ひとつ分からないのが魅力です。聖母とキリストと呼ぶには、男の衣装で無理がある。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』と同様、全てが謎めいた作品なのです」
それから、ヴェッティは、とあるコレクターからこの絵を譲り受けた経緯を、立て板に水で語りました。私たちは呆然となりながら、彼の美しい声に魅了されてその場を動かないでいました。
ヴェッティの語りが終わると、部屋はしんとなっていました。ディアモ氏は感嘆するように呟きました。
「美しいな」
私や横にいたシモーネも頷きました。ディアモ氏は、「いかがですかな」と、カストルプ氏に語り掛けます。
私が驚いたことに、カストルプ氏は、厳しい目つきで、冷静な表情を顔に浮かべていました。ディアモ氏の言葉に、ほんの少し笑みを浮かべ、問い返しました。
「あなたは、どうされたいですかな」
「そうですね。ダ・ヴィンチの作かは鑑定が必要ですが、購入したいと思っています。正直、私には絵画が分かりません。でも、この絵には胸を打つ何かがある。私の心を捕らえたんです」
「なるほど。私の意見を言うと、まずはやはり、ちゃんとした美術鑑定に出した方が良いかと思います。そこから購入しても遅くないでしょう」
「今私に払うなら、5億リラでよいです。鑑定で、ダ・ヴィンチと認められたら、これどころでは済みません。大変お得ですよ」
ヴェッティが、優しい声でディアモ氏に語り掛けました。カストルプ氏は、ヴェッティの方を見て、そっけなく言い放ちました。
「そうでしょうな。まあ少なくとも、倍以上には跳ね上がるでしょう。お金を気にされるなら、どうぞ。私は、まずは鑑定を受けてもらい、その結果を見て判断されることをお薦めしますよ」
ディアモ氏は、迷っていたようでしたが、最終的にカストルプ氏に向かって頷きました。
「分かりました。鑑定に出したいと思います。ヴェッティ君、それまで、私にこの絵の購入の先着権を貰えないかね。勿論、その分のお金は支払う」
ヴェッティはその言葉を聞いて、残念そうなそぶりも全く見せず、勿論です、と笑顔で了承しました。
その夜遅く、ディアモ氏の宮殿のような大広間で、こじんまりとした晩餐会が開かれました。ヴェッティや、シモーネだけでなく、妹のニーナ、高校生の弟マルコといった、ディアモ氏の家族も勢揃いしていました。
その場での主役は何と言っても、ヴェッティでした。彼のインドへの楽しい旅の思い出や、モナコのカジノでの失敗談など大変面白く、笑いの絶えない素晴らしい夜会でした。
ニーナは、少し痩せぎすの、長い金髪の美人でした。私の方にも沢山話を振って、私の言葉に眼を輝かせて頷いて聞いてくれる、気遣いの人でした。
マルコは確かに知的そうな眼をしていましたが、少し退屈そうにしていて、ディアモ氏や、ヴェッティを軽蔑の眼で見ているように感じられました。
その日は、ディアモ氏の館に泊まることになっていました。
私たちが部屋に戻ると、ノックの音がして、マルガレーテが入ってきました。彼女はこの旅行に持ってきた紅茶セットで紅茶を淹れます。メイド服を着た彼女は、絵は見ても晩餐会には参加せず、一足先に隣の部屋に戻っていたのでした。
「どのように思われましたか」
私が尋ねると、カストルプ氏は、紅茶を啜りながら、一言呟きました。
「ものすごい美青年だな」
「そこですか。まあ、その通りだと思いますが。それよりも絵ですよ」
「ダ・ヴィンチに見えなくもない。仮にそうでなかったとしたら、相当腕達者な同時代の画家だと思う。
だがまあ、絵よりも、あの美青年の方に心惹かれるね。彼自身が、ダ・ヴィンチの絵から飛び出してきた美青年のようではないか」
「一体どうしたんですか」
カストルプ氏のパジャマを鞄から取り出してベッドに並べていたマルガレーテが、私の言葉に口を開きました。
「私はそんなに心惹かれませんでしたね。確かに整った顔でしたけど、あんな顔を始終見ていたら、落ち着きません。私にとっては、ミチキさんの方がよほど心惹かれる美しい顔です」
「本当ですか?」
「勿論、冗談に決まっています。そんなことも分からないんですか」
マルガレーテは嬉しそうに笑うと、部屋を出て行きました。カストルプ氏は笑って私の肩を叩きました。
「なあに、我々のような者の方が過ごしやすい。美しさには、古来からトラブルがつきものなのだ」
その夜、私はパーティや晩餐会で飲んだワインのお陰で、夜中に起きました。廊下に出てトイレに向かいます。
ふと、長い廊下の奥の方から、白いドレスを着た女性がこちらに向かってくるのに気付きました。幽霊だろうか、と思ってちょっと背筋が寒くなりましたが、それは、ニーナでした。
「あら、こんばんは」
「こんばんは。すみません、お手洗いを探していて」
「ご案内しますよ」
ニーナと廊下を歩く間、私たちの話題は、彼女の家族のことになりました。経営者としては辣腕でも、なかなか家を顧みない人なので、彼がここまで上機嫌だった晩餐会は近年なかったそうです。ニーナは私に向かって、シモーネを擁護しました。
「兄は大変いい人なんですよ。放蕩者と一族からは言われていますが、私にとってはいつも優しい兄です」
シモーネからはどこか生気のない、全てに無関心になっているような雰囲気を感じたのですが、私はその感想を隠して同意しました。
「とてもいい人だというのは、伝わってきます」
「魂が善良なんです。自分の王国を守るために、自分の娘を人質に出す父親とは違って」
その辛辣な言葉に私は少し驚きましたが、ニーナは、何事もなかったように前を向いて歩いています。月光が廊下の窓から差し込んで、彼女の白い肌を輝かせました。
廊下の端に来ると、ニーナはくるっと私の方を向いて、そこにあった大きな絵を指さしました。
「我が家には代々こうした絵が伝わっているのです。この絵、見てください。中世の絵ですけどね。私に似ていると思いませんか」
その絵は、微笑む金髪の女性の肖像画で、確かにニーナに似ていました。
しかし、その瞬間、私が思い出したのは、晩餐会前に観た、ダ・ヴィンチの『吸血鬼』でした。
あの絵に描かれた、恍惚とも祈念ともつかない愁いの表情を浮かべた女性。あの、「闇のモナ・リザ」。
それが、ニーナにそっくりのように思えたのです。ニーナの髪をまとめてたくし上げれば、あの絵の女性になるのではないか。そんな気持ちが湧き起こってきます。
あの絵は、ニーナたちディアモ一族の祖先の誰かを描いたからこそ、ヴェッティは持ち込んだのだろうか。
それとももしかして、実はあれは今作られた贋作で、ニーナを描いたのではないだろうか。そんな思いすら頭をよぎります。
ニーナは、そんな私を見て、微笑みました。
「どうかしましたか」
そして、絵の中の女性と同じように、腕をちょっと広げるポーズをとりました。
月光の中で見るその姿は、寸分違わず絵と同じで、私は、彼女が絵の世界の中から出て、亡霊のようにこの世に彷徨っているような、そんな風に感じたのでした。
次の日の朝、昨日の深夜の出来事をカストルプ氏に話すと、彼は新聞から目を離し、私を見つめました。
「ほう、そんなことがあったのかね。なるほど、その廊下の絵を見たいものだ」
「興味がありますか」
「ああ。ありがとう、君を連れてきてよかった。とても重要に思えるよ。朝食後に行ってみよう」
昨日の晩餐会と同じ広間で、朝食が開かれました。香ばしいクロワッサンに、塩気の効いた生ハムと新鮮なルッコラ、濃厚なカプチーノが、舌を刺激して、しゃっきりと目が覚める気がします。
朝食の面々は昨夜と同じでしたが、ニーナの席だけが空いています。
「ニーナはどうしたね」
「お嬢様は、朝から頭痛がすると仰っております。朝食はお部屋でいただくそうです」
使用人の一人がそう答えた時、急に、昨夜いたSPの一人が広間に駆けて入ってきました。
「大変です。ダ・ヴィンチの絵が見当たりません! 消えました!」
ディアモ氏は、何だと、と叫びました。私たちは騒然となって、立ち上がりました。
そんな中、カストルプ氏だけは、席に着いたまま、悠然と生ハムを口に運んでいました。私が彼の顔を見ると、厳しい表情のまま、目配せをします。
彼が目配せしたその方向には、呆然となったヴェッティが、朝の陽光に照らされて、立っていました。
(続)
※次回
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
※今までの「芸術探偵」シリーズは、こちらから
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
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