【創作】油彩画『カサノヴァの夜』を求めて 第4話
第4話 森の中の少女
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私とカストルプ氏は、顔を見合わせました。カストルプ氏は、落ち着いた声で、彼女に話しかけました。
「我々は、村役場の案内で来たものです。ハンナ=インゼルについて調べています。ヴィルヘルム=インゼルさんはいらっしゃいますか」
少女は最初警戒しているように見えました。しかし、私の方を急に見ると、私を大きな目で瞬きもせずに見つめました。私がどぎまぎしていると、彼女はカストルプ氏に答えました。
「もうすぐ帰ってくると思います。中でお待ちになりますか」
「そうさせていただければ。あなたは?」
「マルガレーテ=インゼルといいます。ヴィルヘルムは父です」
私はしげしげと、その美しい少女を見つめていました。白いワンピースが鈍く光を反射して、曇り空なのに、彼女の周囲だけ輝いているように見えます。少女はさっと手元のバケツを持つと、きびきびした動作で、かやぶきの古ぼけた屋敷に案内してくれました。
私たちをマルガレーテの母親の、ダミアナ=インゼルさんという老婆と、屈強な使用人の男性が迎えてくれました。ダミアナさんは、ドレスデンのお菓子屋さんの店長と同様に、人好きのする人でした。
屋敷の中は、外観ほど廃れているわけでは全くなく、古いアンティークと暖かな木目調の家具が並ぶ、どこか童話の中の部屋のようでした。同時に、あのお菓子屋さんを思わせる内装に、インゼル家の伝統のようなものが継がれているのだなという気がしました。
私たちが、小さな食卓テーブルの、座り心地のいい木の椅子に腰かけると、マルガレーテが、お茶を出してくれました。
少し酸味のあるベリーのジャムが入った紅茶です。その酸味を包むとろとろの甘い感触に少しくらくらしながら、マルガレーテを眼で追っていると、不意に、彼女が何に似ているか分かる気がしました。
おかしなことに、私が思い出したのは、イタリア人画家ティツィアーノが16世紀に描いた肖像画『フローラ』の女性でした。美しい金髪と、凛とした表情はマルガレーテととても良く似ていると、直感しました。
尤も、高級娼婦だと言われ、豊満な胸元をはだけた『フローラ』の女性とは違い、マルガレーテは、肩幅はほっそりとして背が高く、立ち姿は常にピンと背筋が伸びていました。そこが何か奇妙なアンバランスさをもちつつも、より彼女の美しさを引き立てている気がしました。
ヴィルヘルム=インゼル氏が、農作業から戻ってきて、私たちは挨拶しました。インゼル氏は、カイゼルひげを蓄え、良く日焼けした赤ら顔の、寡黙な男性でした。
ハンナ=インゼルと、シュミット=クラウスについて一通り説明して尋ねると、髭をゆっくりと撫でながら、ぽつりぽつりと喋りました。
「兄がそんな画家の話をしていました。なんだか、うちの祖先が、有名な画家の愛人だかなんだかとか。商売の宣伝になると言って。それが、ある時期に、幻の絵画が、どうこうと言いはじめて」
「『カサノヴァの夜』ですか」
「覚えていないな。ただ、すごい価値のあるものだから、見つけたら大金持ちになれるとか言っていましたね。
バカな兄ですよ。もう菓子店の経営も傾いていた。逆転を狙ったのです。昔から、そういうところがあった。親父は商売の才能があるからと、店を継がせましたが」
「お察しします」
「まあ、クルトのいうことも間違っていなかったというのが分かりました。こうやって、わざわざミュンヘンから出向いてくださる方が、いらっしゃったのですからな」
インゼル氏は、私たちに丁寧に答えてくれるのですが、どこか、話の節々に、人を拒絶するような空気があるように思えました。それが、何かこの森深くに取り残されてしまったような人の哀しみのように感じられるのでした。
屋敷から離れたところにある納屋に、クルト=インゼル氏の遺品があるということで、私たちは、マルガレーテの案内で向かいました。
昼なのに恐ろしく暗い、黒い森の中のうねるような小さな小道を、私たちは歩いていきました。辺りに靄も立ちこめています。その中で、マルガレーテの白いワンピースが、ゆらゆら揺れて、まるで、光を発する妖精のように思えました。
マルガレーテは、私の方に、どこから来たのか、なぜカストルプ氏と一緒なのか、秘書なのか、と根掘り葉掘り尋ねました。私が日本人だと知ると、はじけるように笑いました。
「ああ、いいですね。ホクサイの国ですよね。わたし、浮世絵が大好きなんです。クルトおじさんに教えてもらったんです。フジヤマと波の、彼の絵を部屋に飾っています」
「クルトさんは、美術に詳しかったのですね」
「ええ、いつも色々なところを旅して、私にお土産を買ってきてくれて。小さい頃から、遠い中国や日本、アメリカの絵だとか音楽の話をしてくれたんです。私はおじさんの話を聞くのが大好きでした。それが、最近になって、がくっと落ち込んでしまって、急に亡くなってしまったんです」
「落ち込んだ理由はわかりますか」
「さあ、おそらくお店のことだと思うのですが。お店を売ってしまって、ここに籠るようになって、以前と人が変わったように思えました。やっぱりおじさんは、ここを出て、色々な世界を旅するのが性に合っていたように思えます」
そんな会話をカストルプ氏とマルガレーテはしていると、私は言葉を挟みたくなりました。
「あなたは、ここを出て行かないんですか?」
なぜ、私がその質問をしたのかは、よく覚えていません。マルガレーテは、一瞬黙りましたが、歩きながら私の方を振り返って、微笑みました。
「そうね、考えたことはあるけど、両親がいるから、ここを離れられません。決してここも悪い場所じゃないんですよ」
その「納屋」は、ある種のあずまやのような瀟洒な小屋でした。普段は物置として使っているが、クルト氏が休暇でこの村に戻った時に滞在していた建物でした。あの崩れそうな母屋の屋敷より遥かに、モダンで頑健な建物に見えました。
中に入って、クルト=インゼル氏の部屋を調べました。インゼル氏は、クラウスの絵画を2つ持っていました。一つは、ハンナ=インゼルを描いた小さな肖像画。もう一つは、夜のヴェネツィアを描いたらしい、こちらも小さな風景画。
そして、大量のクラウスの書簡がありました。その中で、付箋を貼ってあるのがあります。それは、1763年、「インゼルのメゾン」が開業された年に、ハンナに宛てた手紙でした。
カストルプ氏は、爛々と目を輝かせながら、うなりました。
「ううむ、ここまで直截的な言及があるとはな」
「最終的に、斧になった図案が、あのお店のロゴになったということですね。ハンナ=インゼルとクラウスについての、私たちの仮説があたっています。だいぶインゼル氏も核心に近づいていたようです」
「ああ。他はどうだろう」
次に私たちの目を惹いたのは、長い便箋で、日付は、1789年のフランス革命直後のドレスデンの友人あての手紙です。ドレスデンの宮廷に職を斡旋してもらったことを感謝する後に、こう続いていました。
「これ程の絶望を与えたとは、歴史とは厳しいものですね」
「フランス革命の時、彼は56歳だった。これが彼の偽りない思いだったろうな。優れた芸術家は、時代の空気を敏感に読み取り、察知する。ザクセンが、フランスに対してどのような態度に出るか分からない時、まだダントン、ロベスピエール、ルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンにかかる前に、彼はこれを書いているのだよ」
そして、その下にあった手紙は、遥かに後年、彼が亡くなる一年前の1812年になって書かれたものでした。
この文面を見た時の、私とカストルプ氏の驚愕は、あまりにも大きなものでした。燃えてしまった! この世にはもう存在しない! 私たちは呆然とその場に立ちすくみました。
マルガレーテが、私たちの後ろからのぞき込みます。衝撃で口をきけないカストルプ氏に代わって私が説明すると、マルガレーテはうなだれました。
「それで、ようやく分かりました。おじさんは、頑張って探していた絵がもうないことに落ち込んだのですね」
「ええ。そんなことを仰っていましたか」
「はい。もう自分には希望が無くなった、自分の人生は全て無駄だった、と最期の年はよく言っていました。何の説明もしてくれませんでしたが、今思うと、このことを指していたのですね」
「恐らくそうでしょう。革命下のフランスを脱出する際、『カサノヴァの夜』を置いてきたと、別の手紙にはありました。自身の代表作を持っていくだけの余裕は彼にはありませんでした。巨大な絵でもありましたしね」
私とマルガレーテが会話している間、カストルプ氏は、黙ったまま、他の書簡の束を所在無げに、少し手で搔き分けては、見遣っていました。
すると、彼の手が止まりました。一枚の便箋をじっと見つめています。見つめたまま、彼は声を発しました。
「君は、本当にその絵がなくなってしまったと思うかね」
それは確信に満ちた声でした。私は驚いて、カストルプ氏に尋ねました。
「どういうことですか」
彼は、私とマルガレーテの方を向くと、穏やかに問いかけました。
「もしも、『カサノヴァの夜』が、本当は「2枚」あったとしたら?」
【次回】
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
<過去話の一覧>
【第1話】はじまり
【第2話】おとぎの国の熊
【第3話】しるしは至るところに
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
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