【創作】ダ・ヴィンチの吸血鬼 第3話(終)
※前回はこちら
ダ・ヴィンチの絵が消えた!
静かだった朝食の場は騒然となりました。
ディアモ氏は真っ青になって悪態を呟くと、ヴェッティに平謝りに謝り、カストルプ氏に非礼を詫びて広間を出て行きました。シモーネ、ヴェッティ達も一緒に出て行きます。
しかし、カストルプ氏はというと、立ち上がることもなく、悠然と食事を摂って、口をナプキンで拭きました。
すると、何かに気づいたようにそれをしげしげと見て、執事を呼びました。
「ここに印刷されている文言は、何かわかるかね?」
「それは、14世紀から当家に伝わる、5つの家訓でございます。当時の当主が書いたものです」
「なるほど。ところで君の名前は?」
「グリゴリーと申します」
「グリゴリー、君はここに仕えて長いのかな」
「今年で30年目になります」
「60年代からいるのか。君に頼みたいことがあったら呼んでもいいかね」
「はい、勿論でございます」
カストルプ氏は、満足したように頷き、立ち上がると、朝話した絵を観に行こうと私に促しました。
巨大な館の廊下の端の、女性の絵のところに、私は案内しました。朝の光の下で見ると、昨夜ニーナと一緒に観た時のような魔力は半減しているように思えましたが、それでも魅力的な絵であることに変わりません。
カストルプ氏は、じっと見て、頬髯を撫でています。私は尋ねました。
「ダ・ヴィンチの絵はどうなるのでしょう」
「警察に任せるのがいい。が、非常に興味ぶかいことになったな」
「あてはありますか?」
「勿論。だが、時間が必要だ」
私は驚きました。先程消えたというばかりなのに、もう分かっている?! 私がディアモ氏に話した方がいいのでは、と勧めると、カストルプ氏は、首を横に振って穏やかに微笑みました。
「静観が友人にとって、最も良い薬になる時もある。少なくとも夜まで待ってみよう。多分見つからないと思うが、それからでも悪くあるまい」
カストルプ氏の言う通り、必死の捜索にも拘わらず、夜になっても、ダ・ヴィンチの『吸血鬼』は見つかりませんでした。夜の晩餐会も、パーティも中止になり、館はひっそりと静まり返っています。
私たちが部屋にいると、ノックがして、マルガレーテが封筒を持って入ってきました。
「旦那様、ご要望頂いた例のものをお持ちいたしました」
「よし、それでは、そろそろ動くかね」
カストルプ氏はそう言うと、封筒から何かを出しました。それは、朝食の席にあった白いナプキンでした。
「ディアモ家の家訓。君は読めるかね」
「すみません、分かりません。これはラテン語ですかね。お分かりになるのですか」
「そう。私は若い頃勉強していたから分かるよ。こう書いてある」
「何とも謎めいているが、おそらく昔の当主の書いた詩の一部じゃないかな。この『貞淑は庭園の笑みより来る』というのは、あの、廊下の端の庭園での女性の肖像画を思い出させないかね。
そして『聖霊の力を汝の口に注げ』。あの『吸血鬼』の絵は、血を吸った後ではなく、眼を閉じた男に、何かを口移しした後の、聖母のような女性とも見えなくもなかった」
「ちょっと待ってください。あのダ・ヴィンチの絵は、元々ディアモ家にあったものだと仰るのですか?」
「そうだ。仮説だよ。というわけで、これを見てみよう」
カストルプ氏は、封筒から更に紙片を出して広げました。それは、館の見取り図でした。上から正方形上の館が書かれ、中央には広間や当主たちの部屋が固まっています。
「『庭園の笑み』の絵は、今我々のいる東の館の端にあった。そして、昼間一人で見に行ったのだが、西の館の端には、子供たちと遊ぶ女性、つまり『家庭の幸福』の絵があった。南の館の端には、首飾りを着けた女性の姿の絵。
北の館だけは今は入れない。しかし、そこには『嘘』に関する絵があるように思えるのだ。家訓を表す絵が、4つに散らばって、この館を支えている構造なのではないか」
「では、残りの『聖霊』の絵は?」
「他の4つは人間の知恵。しかし、最後は人間を超えた聖霊の力。ということは、全ての中心にあるように思える。それらを含めてグリゴリーに聞いてみようじゃないか」
グリゴリーを部屋に呼びます。彼は、北の館については、現在警察も調べているし、ディアモ氏の許可を取れば入れると緊張気味に話しました。
「ここら辺で、君が入ったことのない部屋はあるかね」
カストルプ氏が、館の見取り図の真ん中を指さして尋ねました。
「1つございます。旦那様のいらっしゃる中央塔の頂上の3階の部屋でございます。石の扉で閉ざされた場所で、特に何もないと代々伝わっております。今でも入れません」
「それは大変興味深いね。ではまず、北の館に行こうじゃないか」
私たちは、グリゴリーと、昨日いたSPのうち3人と一緒に、北の館の端に向かいました。
そこに絵は確かにありました。それは、女性が夫に隠れて何かの手紙を隠す姿の絵でした。カストルプ氏の仮説は間違いないようです。「美徳の嘘を創れ」という教訓が、何か皮肉に思えます。
カストルプ氏は、壁に添って、目線を変えて、額縁の周りをしげしげと何度も探していましたが、何かに気づくと、SPたちに、絵を下ろすように言いました。
絵を下ろすと、剥き出しの壁が見えます。その中央には、手の平くらいの大きさの、出っ張った木の板が張り付けてありました。
「ミチキ君、みたまえ、この木の周りの埃が乱れている。つい最近誰かが触ったのだ」
「これは、何かのボタンにも思えます」
「押してみるかね」
私が尻込みすると、カストルプ氏は、にやりと笑って、木の板を押しました。すると、板はゆっくりと壁に吸い込まれていって、凸凹のなくなる位置で止まりました。
「大した力もなく誰でも押せる。あとの3つの絵の背後も調べてみようか。その後、中央の塔の部屋に行ってみると、面白いものが見られるかもしれないね」
私たちは、駆け足で残りの3つの絵のところを巡り、絵を外しました。どの壁にも、全く同じ木のボタンがあります。全てを押して、中央塔に向かう時には、カストルプ氏を除く私たち全員が、興奮に包まれていました。
狭く暗い階段を、足元に気を付けながら上っていくと、そこに小さな部屋がありました。グリゴリーが叫び声をあげます。
「何ということだ! 扉がありません! 普段は確かにここに石の扉があるのです!」
「全てのボタンを押すと、外れる扉だったようだな。なかなか大掛かりな仕掛けの館だ」
私たちが中に入って、懐中電灯を向けると、壁に、昨日見たダ・ヴィンチの『吸血鬼』の絵がかかっていました。
私たちは皆、歓喜の叫びをあげ、口々にカストルプ氏を称賛しました。しかし、カストルプ氏は、少し悲しげな顔をして呟きました。
「律儀にも返してくれた。いや違う、ここしかなかったということか。グリゴリー、この館の清掃は誰の指揮で行っているのかね」
「館の維持や清掃は、全てニーナ様の管理で毎回行っております」
「そうだろうな。では、この絵を持って、ディアモ氏のところに行こうか」
ディアモ氏は、食事用の大広間のところで、憔悴しきった表情で、部下たちに指示を出している最中でした。絵を持ったSPたちと一緒の私たちを見ると、喜びを爆発させました。
「なんと! ダ・ヴィンチだ! 私は救われた! あなたが見つけてくださったのですか!」
「はい、旦那様、カストルプ様のお手柄にございます!」
グリゴリーが堪えきれずに嬉しそうに叫ぶと、ディアモ氏は、素晴らしい、素晴らしいと叫び、何度もカストルプ氏に抱き着いて、何度もキスをしては、情熱的に感謝を述べました。
カストルプ氏は、その嵐が止むのを待って、ディアモ氏に尋ねました。
「ところで、ヴェッティ氏はここにいないのですか」
「彼にも知らせましょう。昼に会ったきりなんです。彼も必死に探しているでしょう」
「彼に何か金銭はお渡ししましたか」
「こんな騒動になったお詫びに、少額ですが、小切手を切りました。勿論、こうやって出てきたのですから、彼から購入しますよ! 今度はためらいません!」
「なるほど。ところで、ニーナさんとお話ししたいのですが」
「娘は、体調を崩したままで、朝から部屋にずっとこもっています」
カストルプ氏はため息をつくと、優しくディアモ氏の肩を叩き、静かに告げました。
「それでは、私にできることはもう無さそうです。あとは是非、ご家庭内で話し合ってください」
イタリアの社交界を揺るがした、ファブリツィオ・ヴェッティと、ニーナ・ディアモの駆け落ち騒動は、その日から一か月にわたって人々の話題を独占しました。
ニーナとヴェッティは前年にカンヌで知り合い、恋に落ちたとのことでした。そして、夫の束縛が厳しく、連絡を取ることも困難なため、一計を案じます。
絵を売りつける目的でヴェッティは屋敷に入り込み、絵を隠します。そして、屋敷の警備が混乱しているうちに、2人は落ち合って、逃げたとのことでした。兄のシモーネは、2人が恋人同士だったとは知らなかったと話しました。
最終的に、ディアモ氏は、ニーナを勘当したものの、二人の結婚は認めました。ニーナが離婚したロスチャイルド家とは、何とか繋がりを持ち、ビジネス上の大きな影響はありませんでした。
元からディアモ家にあった、『吸血鬼』の絵画については、研究の結果、ダ・ヴィンチの真作とは特定できず、おそらく、彼の師のヴェロッキオ工房の誰かの作品の可能性が高いとのこと。
そして、あの絵はあの塔に飾られたままだと、カストルプ氏はその後、ディアモ氏から聞いたとのことです。
ことの真相については、大騒動になった次の日、ようやくミュンヘンに帰る列車の中で、カストルプ氏が説明してくれました。
「ダ・ヴィンチの未発表絵画かもしれない巨額の代物を、美術館ではなく、絵画には疎い実業家に売りつけようとするのは何故か。おそらく、金銭以上に、あの家に入り込む必要があったのではないか。最初からそれは考えていた。
そして、絵の中身以上に、あのヴェッティに興味を持ったね。このような美青年が、あの屋敷に来なければいけない理由は何だろう。
披露後の晩餐会で、彼や、彼と話す人間の様子を観察していた。すると、ヴェッティは、ニーナだけには、殆ど話しかけようとせず、ニーナもまた、彼と話そうとしない。
会話どころか、目線が合うのを、完全に避けている。それで、ヴェッティの反対側にいる君の話ばかり聞いて、会話しているのだよ。これは、二人の間に何かがあると感じた」
「私は、彼女が優しいから私に話しかけてくれると思っていました」
私の言葉に、マルガレーテが笑います。
「今回の旅は大変良かったですね。私はドレスを沢山間近で確かめられて、ミチキさんには、人を見る目を養うよい社会勉強になったのですから」
「まあ、ミチキ君、落ち込む必要はないさ。人が何かを隠す時には、隠そうとしていること自体を隠すものだ。それゆえに、見る人が見れば明白だ。
それで、二人はこの館で会って何かを起こすに違いない、と思っていたら、次の日、絵画が無くなったという騒動を起こす。ニーナは姿を現さない。
絵に注意を向けさせて、恐らくはこの館から脱出するだろう、ヴェッティと駆け落ちだろうと直感した。
君もあの時のヴェッティの顔を見ただろう。彼は驚いたふりをしていたが、演技は上手くなかったようだね」
「すみません、それも私は、彼が呆然として衝撃を受けていると思っていました」
「まあ、それについては、人によって物の見方が変わる良い例かな。その人物をどのように捉えているかで、人物の表情を受け取る意味が変わる。
絵がなくなったことに関しては、君の話を聞いていたから、あの『吸血鬼』の絵は元から館にあり、あの一族の女性を描いたものなのではという推測はあった。
それが繋がれば、あとは分かりやすい。ニーナは、館を管理して掃除しているうちに、あの仕掛けに気づき、塔の上の絵に辿り着いた。そして、絵を持ち出して、ヴェッティに送る。
彼が絵を売りつけることで、館に来させることに成功する。ついでに、絵を購入させることで、父親から多少なりとも逃亡資金を引き出そうと考えたかもしれない。
後は絵を元の塔に戻しておけばいい。あの場所は知られていないのだから、時間を稼いで混乱を助長できて、その隙に逃げる。こんなところかな」
「シモーネは関わっていると思いますか」
「おそらくは、それ程関わってはいないのではないか。ただ、2人の仲に気づいて、見て見ぬふりをしていたことは考えられる。彼がヴェッティを招いているのだからね。
とはいえ、そのことで彼が口を割ることはないだろうな」
「どうして、そこまで気づいていながら、2人が駆け落ちするまで、ディアモ氏に黙っていたのですか」
「彼の様子を見ただろう。あのヴェッティ青年への信頼から、そんなことを喋っても、とても信じそうになかった。
そして理由はもう一つ。結局のところ、この問題を解決しなければいけないのは、ディアモ氏自身だからだ。
彼が最初、この絵を買った方がいいと直感したと言っていただろう。その直感は結果的に正しかった。
あの絵に惹かれたことで、娘を一生閉じ込めずに済み、人の心というものを学んだのだから。自身の家庭や、子供たちの気持ちを分からずに過ごしていれば、いつの日か、自分そのものを失くしてしまう。
彼もまた、今回のことで人間を学ぶだろう。それは、事業の成功にもつながると確信しているよ。
そのきっかけが、彼自身の祖先を描いた絵だったというのは、大変暗示的だね。
自身が何者かを見失い、家族の感情が危機に瀕している時、過去が助けに来てくれたようだ。あの家の家訓にもあったではないか。『家庭の幸福は財よりも汝の力となる』
そうそう、こうもあったね。『美徳の嘘を創れ』。私もそれに従ったのだ」
(終)
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
(※)全シリーズリンク集
(※第1話)
(※第2話)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。