心の中を辿る旅 -小説『失われた足跡』の魅力
【水曜日は文学の日】
旅をすることは、自分の内面を探検すること。それは、ロードムービーや、旅を巡る小説における魅力でしょう。
私が好きな「旅をする小説」の一つに、キューバの小説家カルペンティエルの『失われた足跡』があります。探究としての旅が個人の内面にダイナミックに結びついた名作です。
アレホ・カルペンティエルは、1904年、スイスのローザンヌ生まれ。国籍はキューバでありながら、父親はキューバで有名な建築家のフランス人です。異国の地で生まれたことは、彼の作品に大きな影響を与えます。
18歳の時にキューバに移住するも、ジャーナリストとして独裁政権を批判したりして、22歳の時にパリに亡命。
その後もベネズエラやキューバ等に移り住みつつ、多くの長編小説を書いて、名声を博します。最終的にはキューバの文化官僚としてパリに住み、1980年に死去しています。
『失われた足跡』は、1953年の作品。語り手の「私」は作曲家で、大都会での生活や、妻との喧嘩、作曲活動に倦んでいます。
そんなある日、偶然出会った昔の恩師から、とあるジャングルの未開部族の楽器を探索するよう、依頼されます。
そして、ラテンアメリカの都市を経由して、ジャングルの中の河を遡行していく旅に出るのです。
この作品は、「私」の日記形式で語られていきます。
この男は、イギリスの詩人シェリーの『縛られたプロメテウス』にカンタータを付けようと腐心したり、旅のおともに、ホメロスの『オデュッセイア』というベタなチョイスの本を持っていったりする男です。
つまり、ヨーロッパ的な教養を持ち、ちょっとペダンティックなところもある気難しい男。そんな男が、ジャングルを船で上り、その驚異的な場所を眼にしていきます。
それは、「創世記の世界、創造の第四日」と感嘆するほどの、太古の岩や植物におおわれた自然です。
そうした「新世界」はまた、案内人の一人である、ロサリオという魅力的な女性としても象徴されています。
「私」は、自然の状態そのもののようなロサリオに恋し、案内人たちと共に、ジャングルの奥地の部族の村へと向かっていきます。
そして、そこで都会の生活の衰弱から解放されるように、「私」は生命力を回復していきます。しかし、とある事件によって、そこにはいられなくなって・・と主人公は、一つの場所にとどまることなく進んでいくのです。
旅と言っても、この作品には、飛行機も出てきますし、かなりの部分が、架空のラテンアメリカの都市や、ニューヨークと思しき都会での描写にあてられています。
つまりここでは、船によってジャングルを遡って、非日常を体験して原始に戻っていく時間と、自分の良く知った日常を過ごす時間とが対比されています。
この旅との比較対象になる、似て非なる小説が、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』でしょう。コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作でもある作品です。
商船会社の男が、クルツというジャングルの奥の男を探しに、やはり川を遡行していくこの作品では、川を上るごとに原始の自然や部族が、語り手たちに襲い掛かります。
そして、その密林の奥で、クルツが原住民たちを従えて、まさに地獄の底のような原初の王国を築いている様を目撃します。
『闇の奥』では、川を上ることは、もう後戻りのできない地獄への下降であり、文明との決別です。
しかし、『失われた足跡』の方は、ロサリオに象徴されるように、川上りはあくまで生命の恢復です。主人公は文明と切り離されることへの恐怖はなく、その驚くべき自然に感嘆するのみです。
この二作品には勿論、時代的な違いもあります(『闇の奥』は50年ほど前の1902年の作品)。
しかし、決定的な違いは『失われた足跡』の主人公が、芸術家であることだと思います。
「私」はジャングルの奥で心身が恢復するにつれ、自分を悩ませていた作品がある種の形になってきて、「書きたい」という欲求が強くなるのを感じます。何とか紙を手に入れて夢中で書きます。
まさに、彼が何かを自分の手で創造する人間だからこそ、彼は旅から力を得たことが分かります。
彼が感嘆していた驚異的な現実は、彼が新しい作品を創るための土壌であり、逆に言えば、彼は自分の中にある音楽によって、守られていたとも言えます。自分で芸術を創ることのない『闇の奥』の主人公との違いです。
勿論、そこには批判的にみられるべき点もあるでしょう。
『失われた足跡』の主人公はどこまでいっても西洋的な人間です。「未開の女性」ロサリオに象徴されるように、文明と未開、退廃と生命力の対比は、やや図式的とも言えます。
『闇の奥』には、そうした図式を超えて、この世の箍が外れて、異界に踏み込んでしまったという「やばさ」があります。それゆえ、時代を超えて、神話の域に達した力強さを持つ名作となっています。
しかし、私は『失われた足跡』の、音楽家の旅もまた、大変魅力的に感じます。彼が発見する自然の驚異とはまた、元から彼自身の内面にあったもののようにも思えてきます。
音楽家として自身の内面を引き出そうと苦心しているからこそ、旅する光景がまた美しく見えてくるのです。
そして、その苦心する姿は、作者のカルペンティエル自身の姿でもあります。フランス人の家庭に生まれ、ヨーロッパの教養を身に付けたため、キューバで長いこと過ごしても、その中に決して入り込めない男。
しかし、自分自身のヴィジョンを広げ、その驚異の場所を描くことで、独自の作品を築き上げ、読者に旅を体験させる。彼の心の中を辿ることで、読者も自分の心の中を巡る旅をします。
後戻りのできない壮大な冒険や、一人旅だけが、旅ではない。やがて戻る観光旅行であっても、自分の内面に何かを見つけることが出来れば、それは立派な旅となる。そんなことも考えさせてくれる小説なのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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