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時を止めて幻を掴む -立原道造の詩の美しさ


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
 
美というものは、現実からかけ離れているからといって、決して程度が低いものではありません。
 
夭逝した詩人、立原道造は、現実離れした作風で、どこか夢想的な詩人と言われがちですが、読んでいると、意外な強さやしなやかさも感じる、私の好きな詩人の一人です。

 



 
立原道造は、1914年日本橋生まれ。早くから詩作を始めつつ、第一高等学校(一高)から、東京帝国大学工学部建築学科に入学、とエリートコースを歩みます。


立原道造


帝大では、都庁や代々木第一体育館を創った名建築家、丹下健三が一学年下でした。在学中に辰野賞という建築の賞を三度受賞。卒業後は建築事務所に就職し、設計の仕事を始めています。
 
 
同時に、詩集も次々に発表しましたが、結核に罹患し、1939年、24歳の若さで夭逝しています。





立原の詩の特徴は、一言で言うと、牧歌的な田園風景と、そこでの夢想ではあります。
 

さうして小川のえせらぎは 風がゐるから
あんなにたのしく さざめいてゐる
あの水面のちひさいかげのきらめきは
みんな 風のそよぎばかり
 

風に寄せて


そして、その草木のかげには愛らしい娘らがいて、微睡むようにして、一人物思いに佇む「僕」がいます。

 

おやすみ やさしい顔をした娘たち
おやすみ やはらかな黒い髪を編んで

(略)

私はいつまでもうたつてゐてあげよう
私はくらい窓の外に さうして窓のうちに
それから眠りのうちに 
おまへらの夢のおくに
それから くりかへしくりかへして 
うたつてゐてあげやう

眠りの誘い


そんな彼の特徴が良く表れた私の好きな詩が『夢見たものは・・・』です。
 

夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
 
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊をおどつてゐる
 
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる
 
夢みたものはひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

夢見たものは・・・


シンプルに削ぎ落され、牧歌的な光景と夢と愛が結びつく。まさに「すべてここにある」と思わせる、澄みきった詩です。
 
と同時に、こうしたある種、メルヘンチックな部分に引いてしまって、立原の詩を遠ざけてしまう人が、一定数いるのは確かです。

生活の苦労や現実の醜さを知らず、内に閉じこもった感傷しかない。立原自身の詩のタイトルにあるように「甘ったるく感傷的な歌」ではないか、ということです。そして、それは決して間違ってはいません。




しかしこの詩は改めて見ると、分かりやすいようで、不思議にぼやけた感触があります。
 
「日傘をさした田舎の娘ら」というのが、東洋なのか西洋なのか、どんな服装を着ているのか判然としません。情景を描いているはずなのに、徹底して「具体性」からかけ離れています。




詩人・小説家の松浦寿輝は、立原の散文物語集『鮎の歌』の解説で、彼の作品の特異さに言及しています。




今手元にはないので、うろ覚えではありますが、確かその中で、立原の詩が何一つ現実に基づかない、ある意味過激な作品であること、そして、彼が全存在をかけて、そのある種の「詩の奇術」を生涯貫き通したことを指摘していたように記憶しています。




そう言われてみると、立原の詩は、場所どころか、いつの時代か分からない作品が、殆どです。

木、道、草原。時代の刻印も消えて、ただの自然と少年、時折通り過ぎる少女たちとその夢想だけが浮かんでは消えていく。
 
「感傷的」と言われていますが、その多くは、一人取り残された男の子、そして、失われた愛についての歌です。
 
同時代で同じく夭逝した中原中也と比べると、その異様さが分かります。

中原のようにくだをまいたり、虚勢を張ったり、自己憐憫したりしない。立原は悲哀という言葉を使っても、自己消滅していき、夢のあわいしか残らないような感触があります。


こよひ湧くこの悲哀に灯を入れて
うちしほれた乏しい薔薇をささげ 
あなたのために
傷ついた月の光といつしょに 
これは僕の通夜だ

みまかれる美しきひとに



そこに私は、松浦寿輝の言う通り、絶対に現実のものを入れない、ある種壮絶な決意のようなものを感じます。




詩は普通に書こうとすると、自分の想いや身の回りの現実が良くも悪くも入ってきます。

ですが、それをどんどん濾過していって、自分すら消滅させていくと、あとには夢の光景しか残らなくなる。幻想を自分の強固な意志で、構築する。

同時代も、自分のちっぽけな思いも全て消していく、そんな凄みのある艶を帯びた幻想になるのです。




そして、そうした幻想を構築する手つきに、ある意味、建築学科出身の彼の出自のようなものをうかがえるのが興味深いです。
 
建築を学んだ詩人というのは、かなり少ないのではないでしょうか。しかも経歴の通り、立原の場合趣味のレベルではなく、同時代でもトップクラスの能力を備えていました。
 
それが彼の詩作にも影響を与えているように思えるのです。言葉を柱や窓を組み上げるような手つきで重ねていき、自然の中に一つの家を建てるように、現実の暑さや寒さを遮断する幻想を構築するのです。




そうした意味で、感傷的ではあっても、決して子供じみたわけではない。年を取ることを拒否していても、愚かさはなく、ただ、時を止めて、その美しい蜃気楼をとどめようとするような詩のように感じます。
 
そんな彼の幻想が最も濃く表れた絶唱が、『のちのおもひに』でしょう。
 

夢はいつもかへつて行つた 
山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち 
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
 
うららかに青い空には陽がてり 
火山は眠つてゐた
ーそして私は
見てきたものを 島々を 波を 岬を 
日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 
語りつづけた・・・
 
夢は そのさきには もうゆかない
何もかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 
忘れてしまつたときには

夢は 真冬の記憶のうちに凍るであらう
そしてそれは戸をあけて 寂参のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

のちのおもひに


夢というものが、自分の「今」も「永遠」も手に入れるなく、過ぎ去っていき、自分もまた忘却の中に消えていく。その過ぎ去る前の、流星の美しさというものが、立原の詩の、他にはない美しさと言えるのかもしれません。




年をとること、年月を過ごすということは、時を止めることを諦め、時を受け入れることでもあります。それは勿論、悪いことではありません。
 
しかし、この世界にはまた、時を止めたからこそ分かる、美しい幻のような風景は確かにあって、私たちの生のどこかに繋がって、静かに光り輝いている。

それが自分にとって必要なものなのか、そうでないのかは人によって異なり、一概には言えません。
 
ただ、そんな自分が手にすることはなかった、ほんの一瞬とどまっては消えていく世界の美しさを見直すことには、何か意味があるように思えます。

だから、立原道造の詩は、若い頃だけでなく、年をとった後でも、一度、感傷的という先入観を置いて、読んでみる価値のある作品のように思えるのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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