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「未来人」が遺した油彩の曼陀羅 -ボスの絵画『快楽の園』を巡る随想

なぜこのような絵が現れてしまったのか、さっぱり分からないという絵が、絵画史の中にはいくつか存在します。

ヒエロニムス=ボスの『快楽の園』は、そうした絵の中でも、不可解さと驚異において、最高レベルの作品でしょう。あまりにもよく分からない絵なので、500年以上経った今でも、異彩を放ち続けています。


 
ヒエロニムス=ボスは、1450年頃生まれの、15世紀の画家。一応フランドル派と言われる、写実的な画派の一人であり、ファン・エイク兄弟と同時代人ではあります。

ボスの肖像画


しかし、『快楽の園』を見た人間の頭からは、そんな事実は吹っ飛んでしまいます。この強烈且つ異様な作品は、油彩技法や遠近法の発達といった15世紀の絵画要素ではとても説明ができないものだからです。



『快楽の園』は、いわゆる祭壇画です。3連のパネルでできており、左パネルは、神がアダムとイブを創る場面。

中央パネルは、大量の裸体の男女による乱痴気騒ぎや空想の動物が乱れ飛ぶ「快楽の園」の場面。
 
そして、右パネルは、恐らくはその結果としての地獄堕ちなのでしょう、やはり、空想上の動物や魔物が人間を痛めつける、阿鼻叫喚の地獄絵図。ちなみに、これらのパネルを閉じると、裏側に、天地創造した時の地球が描かれています。

ボス『快楽の園』全体図
プラド美術館蔵


とりあえず、聖書に沿っているとは言えなくもないですが、具体的なエピソードには基づいていませんし、繋がりも緩い。

ボスは、他のフランドル派と同様、教会への奉納用として、祭壇画を多く描いていますが、こんなものを飾ってくれる教会は、当然どこにもないでしょう。どういう依頼であれ、ボスが自分の奇想を赴くままに、自由にぶちまけられる環境で制作された作品なのは、間違いありません。

パネルを閉じた時の
天地創造図


中央の「快楽の園」場面の異様さ。これは、裸の男女(個人的には黒人の男女が描かれていることに興味を惹かれます)のバリエーションの多さだけではありません。

人間以上に大きな梟やシジュウカラっぽい鳥たち。そして、青やどきついピンクのドーム型の建物。特に後者は、殆どSF漫画に出てくる建物のようです。何かが狂っている「楽園」の図です。

中央パネルの一部


 
そして、右側の地獄絵図にも、奇妙な動物?は出てきます。一際目につくのが、中央で、人間を丸呑みしている、鳥頭の怪物です。頭はリアリスティックな鳥なのですが、来ている青い服が、殆ど宇宙服のような、SFチックないでたちです。それが排泄する箇所にある透明ドームも、宇宙服のヘルメットのよう。

右側パネルの一部


こんなものが、15世紀にあったはずがありません。何というか、未来人が突如として15世紀に現れて残していった絵のような、異様な感触なのです。



なぜボスは、このような絵を描けたのか。この場で答えるのは、至難の業です。500年以上、多くの人が、その難問に挑んでいます(この絵自体は、呪われた傑作などでなく、描かれた当時から結構評価されており、スペインの宮廷に買い取られたり、贋作も出回ったりしています)。ボスの人生はあまり資料がなく、おそらく、その謎が全て解ける日は来ないでしょう。
 
私が今、最低限言えるとすれば、一見無秩序に見えて、この「奇想」には、ある種のパターンがあるように思えるということです。それは事物のサイズを歪めて組み合わせているということです。



彼の描く「怪物」で印象深いものは、リアルな鳥を人間と同じサイズに描いたものでしょう。更に、人間がすっぽり入る貝や、人間をはりつけて拷問にかける巨大なリュート。更に、明らかに人間の耳や三半規管を模した巨大なドームも、地獄図にあります。
 
現実には小さなものを巨大に描き、人間と同居させることで、観ている人の意識を揺さぶる。この「巨大化」以外は、ユニコーンや悪魔っぽいキャラ等、割と中世の絵にもありそうなキャラなので、余計、ボスの「巨大化」が奇想として映えて見えます。
 
では、SFチックな建物は?というと、ある種の特殊な植物を拡大したようなものとは言えないでしょうか。
 

中央パネルの背景一部


この中には、イチゴが沢山出てきますが、イチゴの果実を眼を近づけて眺めると、案外グロテスクな見た目をしています。動物と全く違う秩序によってフォルム化された植物を拡大してみれば、おどろおどろしい、近未来的な建物にも見えてくる。
 
例えば、中央のパネルにある、青い棘を生やしたドームや、花のめしべのようなピンクの塔は、植物が拡大されてしまったことによって、不気味さが出てきてしまったのではないでしょうか。そう考えると、宇宙服のヘルメットも、水の雫のフォルムを模したものと言えなくもない(苦しいですが)。
 
つまり、私たちが不気味に思えるこのボスの奇想は、ものの大小の認識の擾乱と喪失から来ているように思えるのです。


ボス『放浪者』
ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館蔵


 
美学者のエルヴィン=パノフスキーは著書『象徴形式としての遠近法』において、絵画において遠近法は、知覚の問題でなく、その時代の世界観や精神に沿って出来上がったものであると書きました。

この15世紀のボスの絵は、中世のデフォルメされた幻想の絵画が、人間中心的なルネサンス絵画(ダヴィンチの『最後の晩餐』等)に変わる端境期の作品です。
 
遠近法が整理されて近代絵画ができる直前、まるでそのレンズを直そうとする最中に、思いきり歪んでモノの大小が滅茶苦茶になった像が、偶然映ってしまった。ボスの絵画にはそんな印象を受けます。
 
それは、ボスが、現実に囚われずに、自分の中の感覚に忠実に作品を創ることを心掛けていたからでもあるのでしょう。価値観が大きく変わる際に、そうした態度は、決して多くの芸術家ができるものではありません。

この作品が、何百年経っても、未来の作品のような新鮮さを保ち続けているのは、そうしたところにもあるのかもしれません。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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