全人類が国語の力を鍛えるべき理由について 〜note感想文〜
皆さんの投稿を見ていた中で、気になった記事を取り上げる。不定期更新のnote感想文。
今日はこちらの記事を紹介する。
国語に関してはあまり意識したことがない。私は国語に比べて英語の出来が悪かったからか、英語の方を意識することが多かった。
noteという環境においても、英語に関する記事は多く見受けられる。
だが、その前に国語(母国語)の力もだいじである。当たり前でよく言われることでもあるが、その意味を改めて考えさせられた。そんな記事である。
国語は己の全てを支える基礎である
国語という力。それは母国語を正しく理解して、正しく利用する力を意味していると思う。
日本人として学生時代(中学校)に例えるなら、主要な5教科の全てに一定の影響を及ぼす。まさに土台に相当する教科だと言える。
母国語を正しく理解できないと、他の教科(内容)を理解するときに障害が出てくる。学習した内容を自身の母国語(言葉)として残すことができない。残せないのだから、それを自分の力として新たに使うこともできないだろう。
例えば、入試などテストにおいては「難解な問題文を理解して、求められている答えを示す」ことにも繋がるだろう。他の教科ができるということは、総じて国語の力もあるということだ。
国語(母国語)の力。鍛えるために必要なことが、紹介した記事には書かれていた。
普段読まないような「説明文」や「論説文」を勉強すると、「読解力→解読力」を身につけることができますので、意識的に勉強する必要があります。
当たり前ながらだいじなことである。私も改めて意識したいことである。
国語の勉強法は「読書」ではない
紹介した記事の章タイトルを引用した。この考え方に多少なりとも驚いたからだ。
大抵の人は、読書の習慣がある人は国語の力があると思いがちだ。でもこの記事ではそれを部分的に否定している。それは、国語の力はインプットとアウトプットの量とバランスで構築されるからである。
読書が好きな人が国語の力が強いというのは、いわゆる後天的な話である。そのため、国語の力を鍛えるために読書に勤しむのは、本末転倒と言うか、本来の目的からずれた行為だということ。
紹介した記事ではこのような答えを示している。
国語力をつけるには、説明文や文法、漢字、古文・漢文などが入っている国語の問題集を解く方が近道です。
確かに、シンプルだが確実な方法であろう。学生時代においては、最も有効な手段でもある。
私の国語の力はどれほどなのか
私の現在と過去の回想話だ。正直なところ、私は本を読む習慣が皆無だった。中学時代は国語の成績は良い方ではあったものの、高いという自覚は無かった。
ただ、ひとつ思うこととして、私は昔から「説明文」の類には強かった。本を読まないので「物語文」には弱いところがあった気がするが、説明から論理立てて理解することが得意だった気がしている。
また、高専や大学院でレポートを書く習慣が身に付いていたからか、そういう仕事に対してあまり苦を感じなかったように思う。
今は仕事において、高い質とスピードの両面が求められていて、かなり苦戦を強いられてはいる。時間を他の人よりつぎ込んでこなすタイプなので、この求められ方は相当にキツい。
ただ、元来はこういう仕事は向いていることが、書いていて気づくことができた。多少なりとも、今に対して救いになっているかもしれない。
おわりに
今回はnote感想文として、国語(母国語)の力について考えてみた。
国語の力とは、母国語を正しく使う力なので、この世に生を受けた誰もが必要となる力と言えるだろう。
国語の力を鍛えるには、様々な文章を読むこと。そしてアウトプットすること。いつしかの記事でも書いたことかもしれないが、なぜ必要なのかの部分を深掘りすることができたと思う。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。実際は非定期ですが、毎日更新する気持ちで取り組んでいます。あなたの人生の新たな1ページに添えるように頑張ります。何卒よろしくお願いいたします。
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