(5-5)佐藤さんの宿題【 45歳の自叙伝 2016 】
心が救われるために
ヒーリングに対して、揺らいだ気持ちを抱きながらでも、声を掛けてもらえる会場や個人の方がいると、やはり通すことを止めることは出来なかった。そうしなければ自分たちが干上がってしまうからだった。東北へ行くときは低価格の高速バスを利用したが、その道中は有意義な勉強時間となっていた。佐藤さんが亡くなってからと言うもの、その「心」が救われるために必要なものを求める思索のなかで、あらためて、仏教の唯識思想関連の書物を読み返していった。理由は「心」を紐解くことだった。そして、その先に「死」を超越した、精神の永遠性が示されてやしないか…という期待があった。
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大乗起信論
唯識は大乗仏教にあって、華厳経などの如来蔵思想という形に昇華していくと知ったのだが、特にその論書の中で「大乗起信論」が仏教の要諦をうまく示しているように感じた。この「大乗起信論」は仏教学者にとどまらず、知の巨匠であるイスラーム研究の第一人者と言われた井筒俊彦先生はじめ、瞑想の観点からも有意義なテキストとして多くの学者に取り上げられていて、私もその影響を大きく受けていった。中でも井筒俊彦「意識の形而上学・大乗起信論の哲学」と可藤豊文「大乗起信論の理論と実践」は腑に落ちることが多く、影響は大きかった。お陰で瞑想や禅への新たな入り口を見つけられたようだった。
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禅と唯識
その後、関心は禅へと進み、道元禅師関連の書物を読むようになっていった。そして何冊か読み進めていくうちに、竹村牧男先生の「禅と唯識」という本に出会った。この本は一見相反するかのような禅(只管打坐・ただ坐れ)と唯識(具舎を土台にした分析と超越)が、実は双方が補い合うことで、仏教が目指すものをしっかり提示していると記述されており、納得がいくことが数多くあった。こうして、以前に密教から知り得た仏教の全体像と、その禅定を目指す思索は、唯識を新たな土台として、如来蔵、華厳、そして禅へと私の中で再構築されていくように思えた。
様々な問題が次々と起こる現象世界の現実にあって、「心」や「死」への理解を深めようとする手探りの勉強と思索も、これに集中している間は、どこかヒーリングにも似たある種の癒しの時間であった。そして同時にそれは、新たな信念の醸成に繋がるようだった。数千年の長きに渡って、時に先人たちが命がけで紡ぎ、代々受け継ぎ洗練させてきた教えには、不思議な安心感と充足感があった。
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エリザベス・キューブラロス
佐藤さんが亡くなったことをきっかけに、「死」ついて考えることが多くなるなかで、多くの仏教書などと同時に目に留まったのはエリザベス・キューブラロスの本だった。エリザベス・キューブラロスの本は端的に言うと、人が死にゆく姿とその過程をドキュメントする中で、肉体の死を超えた精神の永遠性を認めざるを得なくなったアメリカの精神科医の話であった。今まで行ってきたヒーリングでは死を避けることはどうあっても不可能なのであって、闇雲に避けようと孤軍奮闘したところで、それは医者と同じことをしようとしているに過ぎなかった。
私は佐藤さんの死が突きつける大きな宿題に答えを出すべく、肉体の生死を超える何者か…この依然として曖昧で観念的なものに対して、何と言うか実在的根拠のようなものを求めていた。その中にあって、エリザベス・キューブラロスの本は仏教とは違う視点で独特の説得力をもっていた。
このエリザベス・キューブラロスの本は肉体の生死を超えて存在する何者か…それを否定できない数多くの事例がドキュメントされていた。読み進めていくと、肉体的苦痛は別として、私自身も死に対する恐れが薄らいでいくのを感じていった。聞くと、エリザベス・キューブラロスの本は看取りをする看護師の方々も読むものらしかった。
次にこのような理解は、実際に今この瞬間に死に逝く人に対して、どれほど活かされているものなのか気になった。もしかしたら、死の直前や間際に知らされたところで間に合わないのではないだろうか。であれば、我々はもっと元気なうちにこのことを知る必要があるに違いない…との思いが強くなっていった。
エリザベス・キューブラロスの研究は、その積み上げによって「人は死んだらそれで終わり」という考え方を否定し、読む者へ「死」に対するある程度の受容感を持たせることが出来るようには思えた。
しかし、さらに進めてみると、(私にとって)以前からの密教や唯識、禅などに関する理解を踏まえて俯瞰したとき、エリザベス・キューブラロスの研究もまだ補完的要素であるように思え、さらにその実態、存在の不思議について納得のいく答えを私は求めていった。
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ラマナ・マハリシの教え
その後に読んだのは「ラマナ・マハリシの教え」と言う、不二一元を説いた南インドの聖者ラマナ・マハリシの瞑想の本だった。この本はもともと母が持っていたもので、初版は古く、既にだいぶ黄ばんでおり、埋もれるようにして事務所の本棚にあった。当時、仏教用語にある「空(くう)」や「真如(しんにょ)」、「円成実性(えんじょうじっしょう)」などに想起されるものを調べる中で、母の瞑想の話によく出る「ラマナ・マハリシ」にも自然に目が留まった。
マハリシの言葉は非常にシンプルかつ圧倒的で、本質そのものを端的に突いていた。東北を往復する高速バスの中で、このマハリシの言葉に触れたとき、電気ショックのようなものが流れるのを私は感じた。
そして、仏教的解釈と一見無関係に思えたその内容も、角度を変えて(むしろマハリシの方があまりに直球だが)本質を捕らえており、それまでの様々な理解とも結びつき、俗っぽい「魂」と言う解釈を超え、私の中で「存在」というか「命」についてのグランドイメージが出来上がっていくようだった。それは肉体の生死を超える何者か…に対する直感的な答え、存在としての究極「真我」を知った瞬間だった。
とは言え、これは頭による理解が大半であったが、あらためて、瞑想や禅を積むことの重要性に気づかされ、生涯をかけて取り組むもの…と言う再認識となったとき、それは大きな喜びとなった。そして、佐藤さんを思うとき、もっと早くこのことを知っていたら…と思えてならなかった。
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(5-6)参考資料~真の解放のために①~ に
「ラマナ・マハリシの教え」の文章を載せました。
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これらの思索は、密教から唯識、如来蔵、禅、エリザベス・キューブラロスの研究、ラマナ・マハリシへと展開し、それぞれが縦となり、また横となり繋がっていった。そこに次第に醸成されるものは、どこか存在の不思議について、ある程度厚みをもった答えを示そうとしていた。
しかしここへ来て、あの「生死を超える何者か…」に対する、さらなる具体的示唆となる「チベット死者の書」に関心は向けられた。
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枕経「チベット死者の書」
「チベット死者の書」は生と死を繰り返す我々凡夫に、その死に際し、尽きることのない慈しみでもって、その「命」を導く教えであり、光明である。ここにおいて、マハリシが説く「真我」を求める思いとその実践があれば、「チベット死者の書」にあるクリヤーライトと「真我(根源的な光)」の相似性を直感するのは、当然の帰結だろう…と私には思えた。
執着が作り出す、ひとりひとりの現象世界。そのことは、ありふれた日常にあってはもちろん、むしろ死に際して、尚のこと理解しておくべきものだと思えた。そして、その理解が深まれば自ずと執着を手放すことの重要性に気づくはずであった。唯識ではひとりひとりの現象世界を「一人一宇宙」と説く。真我はその宇宙の中心であり、総てでもあり、かつそれらでもないと言う。要するに、真我はその本性である「見る主体」として意識の投影を行い、それぞれの現象世界を生み出しているに過ぎないのだ。
「チベット死者の書」の解釈に拠るとき、死後にも立ち現れると言う、意識の投影を前に、我々はその投影(執着)を手放さないといけなくなる。このために「無執着」であろうとするわけで、その意識的訓練が「瞑想と思索」であり「真我の探求」なのである。面白いことに、こういった認識とその納得が深いほど、我々の心は救われていくらしい。そして自らの死に際し、このような真に支えとなるもの持つとき、実際には当人のみならず、周囲の縁者まで、その「心」を救っていくように思える私がいた。
どこか 佐藤さんに
中間報告をしたような気持ちになれた…
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Amazon に投稿したレビュー『 心の成熟 』
バルドトゥドゥル(死者の書)は死者に輪廻からの解脱を説く、慈悲に溢れた経典です。
人の本当の幸せは何処にあるのか。人は一人で生まれ、一人で死んでいく。確か本編にも「誕生のときお前は泣き、全世界は喜びに湧く。死にゆくとき全世界は泣き、お前は喜びに包まれる。」…と言ったシーンがあったと記憶しますが、この意味するところが本当に深いと思います。
バルドトゥドゥル(死者の書)にあるように、執着が引き起こす様々な死後の顛末を見せつけられるとき、結局 私たちはそれぞれの『 心の成熟 』を目指すこと、ただただ今生を全うすることの重要性を感じずにはいられないのではないでしょうか。
このDVDは死を扱った番組であるにも関わらず、実際は私たちひとりひとりの命への讃歌とも受け取れるような、何かそんな清々しささえ覚える素晴らしい作品だと私は思いました。
平成三十年一月四日 投稿
平成二十八年十月以降の文章ですが、
追記載しています。
続きは以下の記事です。
ひとつ前の記事は…
この自叙伝、最初の記事は…
この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。