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私に溺れて
哲学とは
現実の全体あるいはそれの特殊な諸領域または側面に関する系統的認識。哲学ないし専門諸科学を含む。
— 『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年、「哲学」より
だそうです。まあそんなことを言われても、正直文字を読めるくらいでこの文章がどんな意味なのかわかりません。
19歳から見る哲学
そもそも私が哲学に興味を少しだけ持ったのは、大学2年生の時に受けた「哲学概論」という授業がきっかけです。
ぼけーっと授業を受けながら、生きることとは何か。何のために生きているのか。私は一体何がしたいのか。
私達はこの世に生まれた瞬間から唐突に「生きる」という試練が当たり前のように課せられ、それはあまりにも壮大かつ常識的であるが故にその行為について深く日常的に考えることはありません。
だからこそ「生きる」ということについての様々な知識や主張に触れ、自分自身の「生きる」とは何かを改めて考えることが哲学であり、生命と感情を持って生まれた人間にとってとても重要な学問なのではないかと私は思います。
以下の文章は私が19歳の時哲学概論の授業で提出したレポートの内容になるのですが、この大学4年間の中で最も印象に残っているものになります。
哲学に触れたとこが無い人、「生きること」について考えたことが無い人。
ただの19歳の頭の悪い大学生が書いた文章ですが、何かあなたの新たな”スキ”の発見に繋がれば私はとても幸せです。
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学説
私が興味を持った学説はソクラテスとヘーゲルが述べていたものである。ソクラテスはギリシア哲学、ヘーゼルは中世哲学の中でそれぞれ自分が考える学説にいきつき、「本当の自分」について解釈している。
ソクラテス
(1)学ぶべきは絶対的心理
・「魂」は絶対的心理を求めている
・無知の知
・魂の世話
⇒「本当の自分」…絶対的真理を知ること
ヘーゼル
(1)正しい考え
(2)精神による考えの法則
・精神
・弁証法
⇒「本当の自分」…他者との違いを乗り越えて考える精神に基づく私
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私にとっての「本当の自分」
私が注目した学説のなかでキーワードとなるのが、「真理」という言葉である。相対的真理とはある時代のある場所で、あてはまる真理。絶対的真理とは時代や場所を超えて誰にでもあてはまる真理のことを指す。私はソクラテスと同様に絶対的心理を否定するのではなく、絶対的真理が本当の自分になるために重要なことであると私は考える。
人間は本当の自分が真なること、正しいこと、美しいことつまりは真理を知っていたとしても何かに理由をつけ真理から目を背けてしまう。
例えばごみはゴミ箱の中に捨てなければならないのに近くにはないからポイ捨てをしてしまう。テスト勉強をしなければならないのに面倒くさいから今はやりたくない。
このような事例や感情が重なり、真理には気づかない振りをして最悪の場合犯罪につながることもある。おそらくやって良いことと悪いことの境界線は昔と比べてもさほど変化はないだろうし、真理のとらえ方も変わらない。
特にこの絶対的真理は変わらないからこそ意味があり、絶対的真理を知りそれを実現させることが本当の自分になる鍵となるだろう。
私はふと「私」について考えることがある。それは私を考えるのと同時に他者と比較し、他者を考える時間にもなる。
私はあの子に比べて可愛くない。私はあの子に比べて頭が悪い。お金を持っていない。誕生日のお祝いをされていない。
私は、私は。
他者と比べるからこそ自分を客観的に見ていると思い、特に自分が悪いと思う点は過剰に自分による自分の評価に共感してしまうのである。
しかし、本当にそうだろうか。他者と比べて自分が劣ることに良いも悪いもあるだろうか。自分とは、変わることが無い。例え名前が変わろうとも、見た目が変わろうとも、おそらくこの世界に命がなくなっても自分が他人になることはない。
「自分を貫くこと」とよく言うが、自分がときめく人やモノ、自分自身は揺らぐ必要など無いし、もし他人が影響して自分の好みが変わったとしてもそれは自分が選んだものなのだからそれが悪いことなど一つもないのである。
ヘーゼルが唱える「他者との違いを乗り越えて考える精神に基づく私」とは、他人からの評価や他人と比較したときに感じる優劣によって自分を決めるのではないということに気が付いた上で気が付く自分という意味を成しているのではないかと私は解釈した。
人間はおそらく、私が思っているより残酷なのかもしれない。
ひたすらに見返りを求め、それがなければ関係など一瞬にして消すことができる。そもそも相手からの行動がない限り、相手に対して敬意を持って接することさえ困難だと感じる人も少なくはないだろう。
だとするのならば他人から愛されることを強く待つよりも自分が誰よりも自分を愛してあげることが一番重要ではないかと考える。
おそらく最近の人々はこれができていない。自分を過剰なまでに酷評し、逆に本当の自分が知っている絶対的真理からは目を背け、自分を過大評価し誰かを酷評することで快感を得て、自分が優れていると考える。
他人と比べることは果たしてそんなに重要なことなのだろうか。
私は私に溺れてみたい
私にとっての「本当の自分」とは「絶対的真理を知った、愛する自分」である。
絶対的真理を知り、絶対的真理から目を背けない。少しずつで良いから絶対的心理が基準となる理想を実現する、例えば花を見て美しいと思ったり、本を読んだり、勉強したり。そうすることで必然的に自分を愛することができるだろう。
私は本当の自分を実現して、自分に溺れてみたいのだ。