茨木のり子の詩と日々の暮らしのこと
茨木のり子の詩集を持っています。十代のころ、高校の教科書で出会った茨木のり子の「ばかものよ」で終わる詩が載っている詩集が欲しくて、都内の大きな本屋に行きました。
ケースからの出し入れも、ページをめくるにしても、このトレーシングペーパーのようなカバーがパリパリと鳴ります。
これをよく読んでいたのは十代の頃。高校を卒業してからは、ほとんど開いていません。いい機会なので、読んでみました。
自分の感受性は自分で守ることを、今も意識しています。こうして字を書いたり楽器を続けたりしているのは、そのためです。
『青年』という詩で、鬱々とした若者が書かれます。駅でこの若者を見かけた作者は、黙って隣に座ります。彼のことを、まるで二昔まえの自分のように感じています。この詩を私はずっと覚えていて、いつもの駅で私が感じていることを最近noteにしました。
この詩集を買って四半世紀、今の私に新しく刻まれるものがありました。
『知命』より、なにごとも一人で処理してきたわけではないということ。
『夏の声』より
『青梅街道』では、作者の目に入った看板に記された企業名が、箇条書きにされています。
今ならどんな名称になるでしょう。今日は電車に乗りましたが、駅から読めた看板で覚えているのは大学の案内、クリニックのものなどです。それより真っ白のまま空いているところがいくつもあって薄ら寒く感じました。茨木のり子の日常にあった企業名の羅列には、時代が保管されています。今のことを書き留めていきたいとおもいました。
詩と暮らすと言ってしまうと大げさですが、茨木のり子の詩は、自分が若い頃から心のどこかになんとなくあります。
また、私がnoteに書き留めているのは日々の暮らしです。面白いとおもった出来事、家族の言動などは、書いておかないとやがて忘れてしまうから。そんな感じを短歌にしました。