哲学を否定しながら哲学するって?
『日本語は哲学する言語である』小浜逸郎
西欧哲学の二元論はユダヤ・キリスト教が思考がその奥底にあり、日本人らがもっている自然と心という概念とは違っているというのを言語(言葉)の世界から明らかにしようとする哲学。すごいややこしいのは哲学(論理学)なんだけど、それを西欧の哲学(論理)以外から論じているので、そこが非常にわかりにくく、情(こころ)というのは何を言っているのか?はっきりしなかった。それは神に頼ることない人との関係性だというのだった。
ここからは卵が先か鶏が先かみたいな話になってしまうのだと思う。つまり最初に卵(言葉)を置いたほうがいいのか、鶏との関係(交合)をもってくるべきなのかということなのかな。西欧論理学が二元論なのに外部(他者)を必要としないというのはそこに神がいるということなのか。そこに自然=心を持ってきた一元論の思考なのか?
わかったような、わからないような。
西欧哲学(論理学)批判であるのだが、ユダヤ・キリスト教が哲学の元にあり一神教的問いかけが自己と神になるので堂々巡りしていく。日本語は他者との関係性で成り立っているから哲学的には適した言語だと哲学(論理)しているのは膠着矛盾しているようであまり良く分からなかった。論理だけでなく感情(こころ)も大切だと構造主義的なことなんだと思うがあまり日本語ばかり褒めてもなとも思うのだった。外部の影響があって発展してきたのだから。哲学ならなおさら。論理が複雑に錯綜しているような感じを受けた。ベルグソンとか褒めているのだし。
日本語については哲学ではなく文芸批評とかの方がいいのかもしれない。哲学的に論理でやろうとするとさっぱり何が言いたいのかわからない。まあ日本の伝統云々なんだろうけど。