『失われた時を求めて』を読む。
『失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 』高遠弘美 訳 (光文社古典新訳文庫)
語り手の問題。最初の「わたし」睡眠障害で眠れない作家、多分老人だろうか?若い時ほど眠れないので、その「わたし」が失われた世界(コンブレー)に思いをはせる。そこに登場する案内役としての幼い「わたし」の秘密。男の子を女の子として育てる風習の巻毛時代の「わたし」はトランスジェンダーというかジェンダーフリーとしての媒体(妖精)として「失われた時」に放たれた「わたし」だ。この小説も「意識の流れ」の手法だとするのも「わたし」の意識が媒体の「わたし」を通じて小説(深層)世界に出入り自由だった。
幼い「わたし」は母親を待っている眠れない夜。母親は子守唄代わりに本を読んでくれる。当時の流行作家ジョルジュ・サンドの長編小説、でも恋愛の場面は子供には早すぎると考え飛ばすとか、そこは想像力で補ったのだろう。その記憶から作家への憧れ。
部屋の外から聴こえてくる大人たちの会話階下からはおばばたち(祖母や大叔母様や祖父たちの近所の人の噂話)。スワンおじさん(密かに興味の主体となっていく)への噂。コンブレーのレオニ叔母の家を中心(最強の料理人フランソワーズが雇われた家だった。フランソワーズは語り手と母の仲介役)にスワン家(芸術家)とゲルマント家(貴族)の二つの道を辿っていく「わたし」の成長物語となる。
「わたし」の深層にあるもう一つの世界を探っていくロールプレイングゲームのような小説の始まり。細部に宿る事物(自然)の精霊(ゴースト)たち。両性具有の媒体(語り手)。(2018/08/18)
『失われた時を求めて〈2〉第1篇・スワン家のほうへ〈2〉』高遠弘美 訳 (光文社古典新訳文庫)
「スワンの恋」は映画にもなっていて入りやすい。物語は高級娼婦オデットに一目惚れして嫉妬しながらも別れることが出来ない男(スワン)の顛末。サロンは(銀座の)クラブみたいなものか?そこのNo.1ホステスの術中に嵌まったようなところがありオデットの仕草を絵画になぞらえたり、音楽が二人の時を結びつけたり、花の比喩「カトレアする」が秘密の合い言葉になったり、スワンの想像力のオデットが現実のオデットを越えてしまう。それを恋と言うのだろうけど。
オデットを追いかけて時刻表までを文学で語ってしまう病はスワンというより隠れている語り手の性癖だろう。続く「土地の名」で明らかにしている時刻表好きや自身をお針子に喩えているのはプロットを設計していく建築家タイプの作家ではなくおもいついたままに衣装縫っていく作家なのだろうと思った。日本では金井美恵子や大江健三郎のようなところがあり、リゾームの作家なのだろう。
参考図書
『失われた時を求めて〈3〉第二篇・花咲く乙女たちのかげにⅠ』
ラ・ベルマ(モデルはサラ・ベルナールらしい)という大女優の作家ベルゴットの称賛記事を読んで語り手はイメージを膨らませて恋してしまうのだが実際に劇場(初体験)では観客の称賛に圧倒されたスター女優を感じたのだが、それはベルゴットの描くラ・ベルマでの最高の演技ではなく、イメージを凌駕するものではなかた。現実よりもイメージの方が勝ってしまうその在り方の小説かと思う。過去回想は現実よりどんどん膨らんでいく。イメージの勝利は現実の貧しさを補う。
ジルベルトとの別れの場面。ツンデレを期待していたがツンツンなジルベルトは女友達とのダンスの方が楽しいのか?語り手は天気の話とか時間の話しかしないんだもの。それでもスワン家に入り浸る主人公はまあスワン夫人がいれば無理もないのか。ジルベルトに別れの手紙を書くがその返信を勝手に妄想する主人公(まだ愛は消えたわけではないとか)。決定的なのはジルベルトが男といるところを目撃してしまったから今まで以上に落ち込む。でも恋人となるアルベルチーヌの話が出てきた。ボンタン夫人の姪っ子。ボンタン夫人はアルベルチーヌの露払い。(2019/10/10)
『失われた時を求めて 4 第二篇「花咲く乙女たちのかげにII」』
祖母との想い出の避暑地バルベックでの出来事。祖母の知人のヴィルパリジ夫人はゲルマント一族の貴族の出自というその優雅な世界。だが語り手の尊敬するユゴーやバルザックを軽蔑している。貴族社会との壁がありながらもその両方に関わっていく語り手がいる。フランソワーズはその間に奇妙に自分自身を出せる人物であるが語り手はどっちつかずで2つの世界の間で揺れていく。ヴィルパリジ夫人の甥が名うてのプレーボーイであり重要人物であるシャルリュス男爵はゲイでもある。反ユダヤ主義者。
ブルジョワジーを代表するのがユダヤ人家系のブロックで、語り手と貴族階級のサン・ルーを含めて3人の微妙な関係性。ブロックは頭もいいが、けっこういけ好かない奴に描かれているけど。逆にサン・ルーは貴族なのに共和党主義者。婚約者がありながら女優に恋をして適当にあしらわれる。それでも追いかけていく、そういうタイプの男がこの小説では多い。サン・ルーは共感持てるかな。軍人でもありアルベルチーヌの女友達にもモテるのだが軍務があるから避暑地を離れていく。ブロックも付いていくので一人残された語り手。
一人残された語り手がヴィルパリジ夫人の馬車で海岸を通り過ぎるときに一瞬出会うのがアルベルチーヌコギャル?グループ。通り過ぎる馬車と一瞬の情景。木を墓標のように語るのは暗示的である。その一瞬の夏がアルベルチーヌたちとの「花咲く乙女たちのかげに」というタイトルに示されている。サン・ルーがいなくなると語り手がモテ期。アルベルチーヌとのその女友達との駆け引き的な遊戯の中で享楽の日々という感じ。画家のエルスチールの見識が見事。教会を聖書の世界で読むのはユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』にもあった。
そんな中で語り手はエルスチールの芸術論より目の前の乙女たちに目を奪われている。恋のゲームの駆け引きは語り手よりもアルベルチーヌの方が長けていた。せっかくベッドで横たわるアルベルチーヌにキスをしようと(彼女の提案だったのに)するが拒否される。そういう童貞っぽいところがかえって語り手の魅力なのかもしれない。そこで思い通りに事が進んでいたら文学は誕生しない。未練たらたらと創造力で膨らませた青春時代の避暑地の想い出。いつしかホテルも閑散期になって取り残される語り手御一行様。それでも生き生き働くフランソワーズ。(2019/11/04)
『失われた時を求めて 5 第三篇「ゲルマントのほうI」』
太宰治の女性語りの短編を読んでいると年齢が細かく出てくるが『失われた時~』になると年齢がさっぱりわからない。まあ、語り手の回想だからある時期の年齢よりも総体としての人物像を描いているからだろうか。年齢よりも、そのときの印象的な仕草であったりファッションであったり。語り手がゲルマント公爵夫人に思いを寄せるのは熟女好きもいいところだ(当時語りては思春期の青年)。読書ガイドにゲルマント公爵夫人の年齢について書いてあった。55歳だ。それも17歳で恋する。38歳違いの恋は恋と言えるんだろうか?ちょっと違うんじゃないのかな?
ゲルマント公爵夫人を見かけたのがオペラ座という特異の場であり、オペラの演目の時空間も関係するのだろう。それが芸術性を帯びていれば現実以上の女神的存在になり、例えばラ・パルマという当代人気絶頂の女優の演じる姿よりも超えて(ラ・ベルマのモデルは今も伝説の女優として語られるサラ・ベルナール)、それも貴賓席みたいなところに座る高貴な方に好意を持たれたように会釈される。例えば歌舞伎座で花魁姿の女性に十代の男の子が会釈されたらちょっとクラっときてしまうかもしれない。花魁と貴族は違うが時代を超越した姿。語り手はお祖母ちゃんっ子。
そのゲルマンと公爵夫人と知り合うために甥っ子(近い親類かな?)のサン・ルーと友人になり近づく。彼は貴族の大佐として軍隊生活の中でも特異な優越した位置にいるのだが、それを利用して部屋に泊まり込んでしまう語り手との関係はちょっと同性愛を感じさせる。
「花咲く乙女たち」で乙女たちと仲良くなれたのは語り手の心の中にいる乙女心が芽生えたのではないか?乙女の視線(語り手の両性具有なメタモルフォーゼ)で貴族であるゲルマント公爵夫人に憧れる心が真相のように思える。それとサン・ルーがゲイっぽいのではなく、サン・ルーを見つめる語り手がゲイっぽい。
同性愛というよりやはりプラトニック・ラブの根源性みたいなものがあるのかも。もともとプラトンのギリシア哲学がそういうものだった。
語り手の好きになる志向は普通とは違う。サン・ルーの愛人である女優にはちっともときめかない(サン・ルーがそう仕向けても)。むしろダンサーの男のうっとりしてしまう。ラシェル(女優)がサン・ルーと喧嘩してダンサーに気があるような語りは語り手と同調しているように思える。
それと祖母との電話のシーン。最初に電話が登場した頃の話でなんとなくわかるのは、公衆電話で遠距離に電話したときの十円玉が落ちる速さと話す時間が反比例して短いこと。電話が遠いとか。実際には遠距離も近距離も電話の声は変わらないと思うのだが声が遠く聞こえたのだった。ネット(スマホ)世代にはわからないだろうな。(2020/01/26)
『失われた時を求めて6』
初ヴィルパリジ夫人のサロンはなかなかページが進まなかったが、お馴染みのブロックとサン・ルーが出てきて面白く読めた。
ブロックはユダヤ人の新進気鋭の若者だと思っていたのにドレフュス事件では反ドレフュスの元外交官ノルポワ侯爵におべっかを使う権力におもねる今どきの青年という感じ。
ヴィルパリジ夫人のサロンが反ドレフィスの巣窟みたいな場所でその中でシャルリュス男爵が主人公に言い寄るシーン。サロンも魑魅魍魎の亡霊たちの巣窟のよう、最初に出てきたヴェルデュラン夫人のサロンを懐かしく想い出す。過去のサロンはこんなんじゃなかったと。ヴィルパリジ夫人とヴェルデュラン夫人とどっちがどっちだか間際らしい名前だ。
2つのサロンの違い。スノッブな場所にしても芸術的な恋の駆け引きと政治的な駆け引きと。ただゲルマント夫人とヴィルパリジ夫人のペアが阿佐ヶ谷姉妹じゃなく金井美恵子の目白姉妹を連想させた。金井美恵子のプルーストの影響が見て取れるような章だった。サン・ルーと母親の親子のすれ違いみたいなシーンもあって主人公のへんな気の使い方とか、その後に主人公の大切な存在である祖母の死が描写される。かつて尊敬していた老いた大作家ベルゴットも登場し、喧騒のサロンと尊厳を保ちながら苦しみ去っていく祖母の孤独な死のベッドとの対比の章。(2020/06/30)
光文社古典文庫はここまでだった。続きは他で。
『消え去ったアルベルチーヌ 』
『失われた時を求めて1 〈第1篇〉スワン家のほうへ』マルセル プルースト 井上 究一郎 (翻訳) (ちくま文庫)
『失われた時を求めて2 <第2篇>花咲く乙女たちのかげに 1』
『失われた時を求めて3 〈第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 2 』
『失われた時を求めて4〈 第3篇〉ゲルマントのほう 1』
『失われた時を求めて 5 〈 第3篇〉ゲルマントのほう 2 』
『失われた時を求めて6 〈第4篇〉ソドムとゴモラ 1 』
『失われた時を求めて7〈第四篇〉 ソドムとゴモラ2』
『失われた時を求めて8 〈 第5篇〉囚われの女』
『失われた時を求めて9 〈第6篇〉逃げさる女』
『失われた時を求めて〈10 第7篇〉見出された時 』
参考書籍
鈴木道彦『プルースト『失われた時を求めて』を読む』
NHKシリーズ 「NHKカルチャーラジオ・文学の世界」のテキスト。ラジオ講座ならではのわかりやすさ。一番の入門書ではないだろうか。ダイジェスト版のようにも読めるしブックガイド的に復習するにも予習するにも便利。出来ればラジオ放送で聞いてみたかった。『失われた時を求めて』の「るるぶ」ですね。
鈴木道彦『プルーストを読む ―『失われた時を求めて』の世界』(集英社新書)
ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』
復習