否定性から生まれる詩は、神への捧げもの
『中原中也 』大岡昇平(講談社文芸文庫)
富永太郎
中也の最初の影響は富永太郎にあったとする大岡昇平。早逝の秀才詩人は、フランス象徴派のヴェルレーヌやボードレールを訳して、それを自身の詩の手法とした。中也の才能を最初に見いだし、彼のフランス読書趣味は、中也に影響を与えた。
ただ中也が富永から渾名されたのは「ダダ君」。中原中也が現代詩の最初の目覚めが高橋新吉のダダイズム。例えば、こんな詩。皿洗いの気持ちを表した表現主義的な詩
中也は母親の影響で短歌を創作していた。小学生で短歌雑誌に載るほど短歌を作っていた。すでに母を超えてしまった。中也の孤独性は、代々医者である権威的な父と短歌を嗜む母から逃れることだった。
そんな中也が中学を卒業して東京の大学を受験するのだが失敗、京都での中也の生活はダダに染まっていく。中也のダダは、否定性から始まるのだが最初に否定したのは母親じゃないかな。母親から短歌の手ほどきを受けて、母を超えてしまった。七五調にある日本の母性的なものからの脱却がダダとしての詩なのだ。
富永太郎に話を戻すと、その否定性の中也にたいして、兄のように手を差し伸べたのが富永太郎だった。中也が富永を、「教養ある姉さん」と書いて追悼したのは、ある面で母親の面影を引きずっていたのかもしれない。大岡昇平が書いている富永太郎の中也に対する影響を書いている。
中也に取って否定性を持って吸収することが富永との関係であり、フランス象徴詩の関係である。それは最初に短歌の手ほどきを受けた母の影響から逃れようとしながら、日本の叙情詩の真っ只中へ進んでいく中也であったのだ。富永太郎のフランス象徴派の難解な詩と対峙しながら中也は自らの詩の足場を築いていく。
富永太郎はフランス象徴詩というものを中也の目の前に提示した。それは中也に取って新しい世界の目覚めになったのだが、駄々っ子としてのダダが否定する。象徴主義の意味論的なものを。富永太郎はそういう中也を兄のように可愛がり中也は兄のよう(姉のように)に慕ったのか?
象徴主義的な詩は中也に母性(日本の叙情詩)の否定を付きつける。ただ中也は意味論的よりもそのスタイル。つまり詩人としての生き方としてダダイズムを吸収したのだ。そして、そんな兄的な存在の富永太郎が早逝する。その時に現れたのが小林秀雄だった。彼は論理の人だから叙情性を嫌っていた。
小林秀雄
そして小林秀雄は中也の叙情性も見抜いていたのだろう。小林秀雄の否定性は近代的な合理主義にある。しかし、中也と長谷川泰子の間での情事は、小林秀雄の否定する叙情的な恋愛だ。頭では西欧の合理主義の論理性を受け入れながら身体は恋愛に引っ張られるのだ。
富永太郎が亡くなって、中也の論争相手が小林秀雄になるのだが、小林の言語的論理は中也のダダイズムとは受け入れない。しかし長谷川泰子を通じて中也と対峙するようになる。恋愛は論理じゃないから、小林秀雄に負い目はある。中也の否定性の相手をする者が、富永太郎から小林秀雄に移った。
中也が自身の詩の立脚点を見出したのが富永太郎なら、小林秀雄から詩論を固めていく。当代きっての批評家と目されていた小林秀雄が相手なのだから、中也もそれ相応の勉強をしたのだろうと思う。ほとんど教科書というより、実践的なものだったと思うのだが。大岡昇平は中也の詩に論理的な成果を見出す。
例えば、長谷川泰子を小林秀雄に奪われ書いたとする「朝の歌」は、中也の叙情性を付きつけるのだが、感情に任せて綴ったものでもなく、音便的なリズムと整合性によって、名作と評されるのだ。さらに、それを小林秀雄に中也が最初の現代詩を送った物語まで付けて。実際にはそれ以前に詩を送っていた友人はいたのである。中也の策士ぶりが伺える。
混乱するのは小林秀雄だ。彼は中也にランボーを見て、そこからのランボー論。中也が仮想敵だったのだ。中也はダダイズムからのランボー。二人が見出したのが乱暴(ランボー)もの。
長谷川泰子
長谷川泰子との小林秀雄との三角関係は、中也が大部屋女優から求めたものは詩人としての箔であり、長谷川泰子も女優としての箔である。そういう意味で二人の関係は共犯者的だ。苦難を引き受けさせられたのが小林秀雄だった。中也と泰子は姉弟的な「恐るべき子供たち」なのである。
その中で常識人である小林秀雄が巻き込まれたのだ。小林秀雄はこの三角関係について
と書いている。ただ中也と泰子はそれを楽しんでいたこともあるようだ。別れた後も小林秀雄の元で三人は語り合うのである。
三角関係というより三人関係だ。ドリカム関係?例えば、映画で言えばジャヌ・モローの悪女ぶりで有名な『突然炎のごとく』や先に上げた常軌を外した姉弟に巻き込まれる常識人との関係を描いた『恐るべき子供たち』。「恐るべき子供たち」に巻き込まれた小林秀雄は大人の態度で接していたのかもしれない。混乱する常識人として、長谷川泰子の中にファム・ファタールを見出してしまった。
もう一つ大岡昇平の描く長谷川泰子は、幼い頃中也と幼馴染として出会っていたという事実である。彼らの恋愛関係が実際的なものというより姉弟的な関係だったのだ。長谷川泰子も「親戚の叔父さんのような」と中也を評している。中也の方が年下で大人びて見せたかった、特に恋愛を詩に持ち込もうとする者は偉ぶってみせていたのかもしれない。
「在りし日の歌」
「恐るべき子供たち」のように振る舞っていた中也にも泰子にも子供が出来る。中也は自分の子供以上に泰子の子供を可愛がって、気にしてたようだ。それは中也が実の父というのではなく「親戚の叔父さんのように」だろう。
そして中也にも子供が生まれて人並みに生活していくようになる。詩は芸術から労働になる。しかし、中也はそれを嘆くことはなかった。むしろ子供との時間を束の間平和な時間と見たのだろう。そんな中也に罰が待ち受けていた。子供の喪失である。それは中也にとって生きられた時間の喪失。奪われた罰なのである。大岡昇平はキリスト者としての中也をこの頃の詩に見出していく。
「在りし日」とは過去に生きられた時間である。幸福時代は中也の死んだ子供との時間もあるが、幼い頃の記憶もあるのだ。それは、もう「在りし日」とされる。喪失の時間と場所による詩による再現は、中也にキリスト的な反省を促すのだ。かつて悪魔的だった生活。
中也は素行不良で寺に預けられ親鸞的な悪人正機説を見出す。それが最初の宗教的目覚めだった。中也の否定性はダダイズムより先に宗教的な逆説があるのだ。逆説を選びうる者から信仰を見出していく。親鸞からキリスト教へ。子供の死がその契機になったことは間違いないのだが。
「在りし日の歌」はキリスト教的な懺悔の詩だと大岡昇平は見出していくのは、彼が戦争体験によって、キリスト者として目覚めたあの『野火』での体験でそれまで中也の反抗者だった大岡昇平が中也の詩を諳んじたのだった。
中也のキリスト者は規制の寺院や教会に祀られるものではなく、精神としてのその詩的精神としての、キリスト者の神への捧げものだったという見立てなのだ。否定性から辿り着く中也の詩論としては読み応えのある伝記だった。
参考書籍:大岡昇平を読む
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