「空」の哲学は、大乗仏教の中でも特に深遠で難解なテーマである。
この哲学は言葉で説明するのが難しい。言葉自体が「実体」として捉えられることが多く、その意味を固定化しがちだからだ。大乗仏教では、言葉はあくまで指標であり、真実を直接表現するものではないとされる。言葉の背後にある真理を理解することが重要。
「空」の哲学を理解するには、理論的な学習だけでなく、瞑想や実践を通じて体験的に理解することが求められる。言葉の限界を超えたところに、本当の理解がある。
「空」とは、「無」でも「有」でもない。
一切⇒五蘊⇒空
論理の世界は「有る」か「無いか」の二択に限られるが、言語の世界はそれにとどまらず、多様なニュアンスに満ちている。
無:存在の絶無
ない!
ないといえる
ないとはいえない
あるといえない
あるといえなくもない
あるといえる
ある!
有:絶対存在
「有」と「無」というのは仏教的な世界観における形而上学的な概念だ。この言葉は、現象世界とは異なる次元を示している。現象世界、つまり五蘊と呼ばれるこの世の事柄に関して言えば、「有」でも「無」でもない。「有」や「無」といった言葉を使うと、それは形而上学的な領域の話になるからだ。
仏教における言葉と沈黙
私たちが歳を取ったり死んだりしても、その本質的な存在は変わらない。水が水蒸気に変わるように、形態が変わるだけで本質は同じだ。水は触れたり飲んだりできるが、水蒸気になると見えなくなり、触れられなくなる。それでも、水としての本質は変わらない。
「空」を悟った人にとって、死とは存在の形態が変わるだけで、「私」という本質は変わらない。水が水蒸気になったのを見て「なくなった」と思うのは誤解で、実際には形を変えただけだ。ケーキが胃袋に入るのと同じく、存在は別の形で続いている。
悟りを得た人にとって、すべてのものは常に存在している。目の前から見えなくなるだけで、存在自体は消えない。存在するものは一時的に現れ、消えていき、また現れる。この論理を理解している人は、死を恐れない。生じたものは滅し、滅したものはまた生じるという理を理解しているからだ。
金剛般若経
鈴木大拙「即非の論理」:AはAでない、ゆえにAと名づく
「即非の論理」は、大乗仏教の核心を理解する鍵である。この概念を理解するためには、通常の言葉や論理の枠組みを超えて、仏教独自の論理を受け入れる必要がある。仏教の論理は、西洋の論理とは全く異なり、日常の言葉の使い方とも大きく異なる。仏教では、常識に反した独特な言葉の使い方をすることが多く、常識の範囲を超えた非常識な表現を用いる。この独特な言葉の使い方が、仏教の本質を理解するための重要な要素である。
例1:
「山は山でない、故に山と名付ける」
⇒「この山は真の山でない、故に仮に山と名付ける」
「谷間は谷間でない、故に谷間と名付ける」
⇒「この谷間は真の谷間でない、故に仮に谷間と名付ける」
解説:
山も谷間も、因縁によって一時的に形成されているものに過ぎない。したがって、この因縁が消えると山も谷間も消えてしまう仮の実体だからである。山は大地が隆起して造成されるものであり、山があればすなわち谷間も同時に造られる。
例2:
「夫婦は夫婦でない、故に夫婦と名付ける」
⇒「この夫婦は真の夫婦でない、故に仮に夫婦と名付ける」
解説:
一見夫婦に見えるが、籍を入れていない場合もあるだろうし、法律上認識された夫婦だとしても夫婦としての営みがなかったり、あるいは夫婦の営みはあるが心が離れていたり、心身ともに夫婦の営みがない家庭内別居状態であれば同じ屋根の下に暮らす男女に過ぎない。
しかし、二人の間に愛があって仲睦まじいから真の夫婦かといえば、仏教ではそもそも「愛」を認めていないのだから。むしろ愛と愛着は滅ぼさなければならないものなのだから、いずれにせよ真の夫婦など存在しないことになる。
そもそも、夫婦という関係は、ある因縁によってたまたま夫婦になったのだから、因縁がなくなれば二人は別れてしまう。つまり夫婦でなくなるのだから。
以上の例のように、もともと実体はないのである。
金剛般若経で語られる「師」はブッダではない
悩みのない永遠の平安
言葉(思い)を超えた境地⇒「空」を悟ること
※金剛般若経成立の頃は未だ「空」という言葉がない。
仏教には言葉に対する不信感がある。特に大乗仏教では言葉を信用せず、名前を与えると実体があると錯覚することを警戒している。
一方、説一切有部の思想では言葉は非常に重要であり、聖なるものとして実体視されていた。仏教では現象界を幻とみなす。これに対し、名前をつけることで、そのものが永遠に存在するかのように錯覚する。「山は山ではないゆえに山である」、「川は川でないゆえに川である」といった表現がそれを示している。要するに、大乗仏教では言葉に実体がないと考え、それが現実を誤解させる原因になると警戒している。
仏教の論理では、「もの」という思いも「ものではない」という思いも、どちらも執着を生む。これは西洋の論理とは異なる。西洋の論理では、「もの」という思いがあれば執着があり、「ものではない」という思いがあれば執着がないと考えがちだが、仏教ではどちらの思いも執着を生むと考える。
「もの」とは何かを理解するためには、「ものではない」ものを理解していることが前提となる。例えば、「猫」を理解するためには、「猫ではない」ものも理解していなければならない。このように、Aというものを考えるときには、その反対のAでないものも同時に想定されているのだ。
説一切有部などの仏教派では、「もの」を実体として見ており、その実体に対する執着が生じる。これと同じように、「ものではない」という思いも、対極にある思いを含んでおり、そこに執着が生じる。
従って、執着をなくすためには、「もの」という思いも「ものではない」という思いも超越する必要がある。これは難しいが、思いを超越することで初めて執着から解放され、永遠の平安に至るというのが仏教の教えである。
大乗仏教は、「私がやっている」という自我の思いなしに徳を積むことを目指しているが、ここには大きなジレンマがある。自我を持たずに善行を行うことは理想だが、実際には自我を完全に排除することは困難だ。このジレンマが、善・悪・カルマについての誤った思想を生む可能性がある。
大乗仏教の最大の論理的矛盾点は、自我を排除しつつ徳を積むことにある。善行を行う主体が存在しない場合、その善行の意味や価値が曖昧になるからだ。また、自我を完全に排除した状態での行動は、意図や動機が問われなくなるため、善悪の区別が曖昧になり、カルマの概念も不明確になる。
さらに、カルマの視点から見ても、自我がない行為がどのようにカルマを形成するのかが問題となる。行為者が存在しないならば、その行為の結果が誰に帰属するのかが不明確になるため、カルマの因果関係が崩れる可能性がある。
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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