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如来蔵思想/大乗仏教【仏教の基礎知識19】

法華経

仏教における三乗の教説は、伝統的に異なる救済の道として理解されてきた。すなわち、菩薩乗(大乗)は仏を目指し、声聞乗と独覚乗はそれぞれ阿羅漢と独覚を目指すとされる。しかし、『法華経』はこれらの三乗を方便とし、究極的な真理として一乗を説く。この転換は、仏教の解釈における重要なパラダイムシフトであり、すべての修行者は最終的に仏に至るという普遍的な救済観を提示する。
まず、三乗の伝統的な役割を再検討する。声聞乗と独覚乗は、自利的な悟りを目指す道と見なされ、そのために各々が仏陀の教えに従い、自己の解脱を図る。一方、菩薩乗は他者の救済をも含めた利他行に基づくものであり、仏教の理想形として強調される。これらの道は、それぞれが異なる悟りの段階を示唆するものと解釈されるが、『法華経』はこの分断を再構成し、統一的な救済の枠組みを提唱する。
『法華経』において、「三乗を方便とし、一乗を真実と見る」との主張は、仏教における究極の目標がすべての乗に共通するものであることを明示する。この観点は、仏教の修行者がどの道を選ぼうとも、その終着点が同じく仏であることを強調し、これにより、従来の道を超越した普遍的な救済の道としての一乗が提示される。
このように、『法華経』は仏教の教義における全体的な一元性を強調し、仏教徒が選ぶいかなる道も最終的には同一の真理に至ることを示す。その結果、三乗は相対的な真理として、仮の手段とされ、究極的には一乗という絶対的な真理に統合される。この統合的な視点は、仏教の多様な修行法を包括的に理解するための枠組みを提供する。

般若経はんにゃぎょう』などの教えでは、菩薩・声聞・独覚はそれぞれ別の道を歩むものとして三乗が説かれ、そのうちの菩薩乗が大乗で、それだけが仏と同じさとりを目標とすると説かれている。そして、このような考え方が、インド仏教としては伝統的に主流であったらしい。
しかしながら、大乗仏教は出発点において仏の慈悲のはたらきの礼讃、その力の無限性に対する信仰からはじまった宗教である。その点を徹底していけば、衆生のすべてが救済されなければならないし、されるはずである。この主張は、一方では阿弥陀如来の尊称となってあらわれ、仏のはたらきの空間的・時間的無限性(無量光、無量寿)として示されたが、別の形では、三乗を方便とし、一乗を真実と見る『法華経』の主張ともなった。すなわち、声聞乗や独覚乗に属するものたちでも、究極的には菩薩と同じく無上菩提を志向し、仏を目標とするはずで、道は一つ、すなわち一仏乗であって、つまり仏になる道しかない。(p434-436)

「大乗仏典〈12〉如来蔵系経典」高崎直道/中公文庫

如来蔵思想

如来蔵=仏性=法身

如来蔵思想とは、すべての生きとし生けるものが内に仏としての本質、すなわち「如来蔵にょらいぞう」を持っているという仏教の思想である。「如来蔵」は文字通り「如来の蔵」つまり仏性の源泉として、すべての存在の中に潜んでいるものを意味する。この思想によれば、どんなに迷いや煩悩にとらわれた存在であっても、その本質には清浄で完全な仏性が宿っているとされる。
インドの大乗仏教に由来し、中国や日本にも伝えられた。この思想は、特に天台宗や華厳宗などの教義において重要な位置を占めている。すべての存在が如来蔵を持つという考え方は、全ての人が潜在的に仏となりうる可能性を持つことを示しており、それゆえ修行や信仰を通じて自身の仏性を顕在化させることが求められる。
すべての存在が仏になる可能性を持っているとする点で救済の普遍性を強調し、また、すべてのものが本質的に善であるとする積極的な見方を提供している。一方で、この思想は一部の仏教流派からは、あまりにも楽観的であるとして批判されることもあった。

このような考え方、すなわち三界にあるすべての衆生は、みな仏となる可能性をもっているという主張が、本巻の主題とも言うべき「如来蔵」の思想なのである。「如来蔵」とは、文字どおりには「如来の胎」で、衆生が仏となる可能性をもっている点をさして「如来を胎に宿しているもの」と表現したものである。
はじめは仏となる可能性の所有者としての衆生をさしたのが、のちには将来仏となるもの自体、すなわち衆生のもっている成仏の可能性そのものを「如来蔵」と呼ぶようになる。この可能性をまた別に、「仏性」とも呼ぶのである。「如来蔵系経典」とは、この「如来蔵」「仏性」の語をもって、すべての衆生に存する成仏の可能性をあらわし、またそのように説く一群の経典をさして言う名称である。
この経典群の筆頭にくるのが『如来蔵経』で、同経は、すべての衆生が如来蔵である、すなわち、如来をその内部に宿している、ということをはじめて宣言した経典として知られている。
『如来蔵経』の直系、したがって如来蔵思想の正系と考えられるのが『不増不減経』と『勝鬘経』である。この二経は、衆生が如来蔵といわれる所以を正面切って問題とし、その理論的解明につとめた経典として、「如来蔵系経典」のうち最も重要な位置を占める。そこで本訳者は、『如来蔵経』とこの二経とを合わせて、「如来蔵系経典の三部経」と呼ぶことにしている。(p438)
如来蔵思想を表明する経典としては、ここに収めた三経のほか、「一切衆生悉有仏性」を説く『涅槃経』だとか、『勝鬘経』をうけつぎつつ、アーラヤ識と如来蔵の同一を説く『楞伽経』などがある。(p442)
法界は別に、如来によって見られた、ものの正しい姿という意味で、「真如」(真実ありのままなること)とも呼ばれ、ものの本性という意味で「法性」とも呼ばれる。衆生の内にある如来と共通の法性・真如こそが、さとりの可能性であるということで、如来蔵は「衆生の内なる如来と同じ本質(界)」と定義されることになる。
衆生はこのように仏と本質を同じくするのであるが、同時に仏と決定的にちがうのは、無量の煩悩に蔽われ、纏いつかれていることである。ただし、それらの煩悩は一時的な付着物(客塵煩悩)で、本質とは関わりないと見るのが如来蔵説の特色である。
では、具体的に何が衆生の内なる仏と同じ本質かといえば、それは自性清浄心である。(p438-439)
心は清浄だが客塵によって汚されているとは、原始仏教でも説かれていることであるが、その清浄な心こそが仏となる原動力だというわけである。
如来蔵思想は、このように如来の慈悲にもとづく衆生の尊貴性と、その仏との同質性を高らかに説いたのであるが、一方で、衆生がいくら努力しても煩悩を除去しきれないという現実、それが何に由来し、どうしたら除去できるか、という点については十分な説明を与えてくれない。そうした点が、唯識説において、アーラヤ識の主張を引き出すことになったものと思われる。アーラヤ識とは、衆生のもつ根元的潜在意識のことで、それによって衆生は輪廻の生存をつづけている。衆生が仏となるには、そのようなアーラヤ識を換質し、知恵を獲得しなければならず、それには無限の努力がいるとされる。(p440-441)

心は本来清らかなものであり、汚れは偶然的に心に付着しただけであるという思想が、原始仏典の中に見られ、大乗諸の学説となり、大乗仏典において強調されるようになる。『増支部経典』に次のような仏説がある。
「比丘よ、この心は光り輝くものである。しかしそれは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それゆえに教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘よ、この心は光り輝くものである。そしてそれは偶然的な煩悩から離脱している。賢い仏弟子はこの心のことを教えとして聞き、真実に理解する。それゆえに教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである」(p52)
光り輝く心を「心の本性」として特に強調し、それを最高実在とみなしたのは如来蔵思想の系譜に属する『究竟一乗宝性論』である。
衆生の本質は「汚れを伴った真如」であり、如来の本質は「汚れのない真如」であるが、真如そのものは汚れているときも汚れを離れたときも全く同一であり、不変異の実在である。『宝性論』はこの不変異の実在である真如を、「心の本性」として理解するのである。
菩薩においても心の本性は汚れを完全には離脱していない。それは仏において本来の清らかさをもって光り輝く。しかし、衆生・菩薩・仏のどの階位においても、心の本性そのものは全く同一である。それは衆生に内在する仏性、すなわち如来蔵であり、また、仏の法身である。(p53-55)
「心の本性」には、アートマンを叙述するウパニシャッドの語句がそのまま適用される。
「それは生まれもせず死にもしない。それは毀損されず、老いることもない。なぜならば、それは恒常堅固であり、寂静であり永遠であるから」(1・79)
人間存在を構成している一切を、不浄・苦・無我・無常であると観ずる原始仏教の立場からは、浄・楽・我・常の観念は四種の顛見とされた。しかし、表面に付着した煩悩の塵が完全に払拭された「光り輝く心」そのもの、すなわち如来の法身に関しては、浄・楽・我・常の観念も顛見とはならない。法身は清浄であり、歓喜であり、不変の本質をもち、永遠である。

「大乗仏典〈12〉如来蔵系経典」高崎直道/中公文庫

涅槃経

如来蔵思想は仏教に非ず

如来蔵思想は仏教にあらず(松本史朗)
如来蔵思想とは、一般の読者には余り耳慣れない言葉かもしれないが、かつてはむしろ仏性思想と呼ばれていたものである。この如来蔵思想とは、大乗経典の一つ『如来蔵経』の「一切衆生は、如来蔵(如来の容れもの)である」という説と、同じく『涅槃経』の「一切衆生は、仏性をもつ」という説にもとづく思想と言うことができる。
仏教の開祖である釈尊は「縁起」を説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である、というのが筆者の理解であるが、この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(我)「霊魂」の思想を根底から否定したものなのである。従って、“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる。しかるに、これに対して、「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。従って、如来蔵思想の「我の思想」「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であることは明らかであり、この意味で筆者は、“如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない”と論じるのである。

[松本史朗]

『涅槃経』について『涅槃経』は詳しくは『大般涅槃経』と表示されるが、実は『涅槃経』と言っても大別して二種類の『涅槃経』がある。紀元前に編集された『涅槃経』と紀元後に創作された『涅槃経』があり、両書はまったく内容を異にしている。そしていずれも『大般涅槃経』と漢訳されている。(p67)編集された『涅槃経』はパーリ語で書かれているので『マハーパリニッパーナ・スッタンタ』と言い、創作された『涅槃経』はサンスクリット語で書かれているので『マハーパリニルヴァーナ・スートラ』と言う。(p70)
『涅槃経』はこのように成立の経緯から二種類あり、その内容も異なるために同じ呼び名では混乱を招くことから、通常は、編集された『涅槃経』を「原始涅槃経」、創作された『涅槃経』を「大乗涅槃経」と呼んでいる。
一切衆生のみなに仏性がある。この仏性があるので、数えきれない種々の煩悩の塊を断ち切れば、即座に最高の覚りを成就できる。(如来性品第4の4〈大正蔵経12巻404頁下〉)
一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。もともと生類はいつも数えきれない煩悩に覆われているために、この我の真の意味を生類は理解できない。(如来性品第4の4〈大正蔵経12巻407頁中〉)(p117)

『「涅槃経」を読む ブッダ臨終の説法』田上太秀/講談社学術文庫

仏教のヒンドゥー教化

インドにおける仏教思想の歴史的発展とは、極論すれば、仏教がヒンドゥー教に吸収される過程、あるいは、仏教がヒンドゥー教化する過程に他ならない。原始仏教・部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教・密教という変遷をたどってみると、ここに基本的には、“仏教からヒンドゥー教へ”という変化、すなわち、ヒンドゥー教の「有」と「我」の思想の否定として成立した仏教が、次第にその「有」と「我」の思想に接近し、同化され、ついには吸収されてしまう過程が認められる。
『般若経』が「空の思想」を説き、それが大乗仏教の思想的基盤となったといわれるが、しかし『般若経』の空が純粋に否定的なものでありえたのは、ほんの一瞬のようなわずかな期間にすぎない。すぐに『般若経』自身が「真如」とか「法性」とか「無分別」という肯定的なものを説きだすのである。

[松本史朗]

如来蔵・仏性思想の問題点
衆生のうちには、仏・如来、あるいは仏と違わない本来清らかな心(自性清浄心)が宿っており、客塵煩悩によって覆われているが、その覆いを取り去ることによって成仏が可能となる、という思想。
tathāgata-garbha(如来の子宮・母胎)。
buddha-dhātu(仏の基体・界・根源的存在)。
buddha-gotra(仏の種・姓)
如来蔵・仏性思想は異端か
仏教は無我説、すなわち、唯一の根源的実在を認めない。しかるに、“dhātu”なる語は、根源的実在・諸法の発生根拠という意味をもち、そのようなものを認めることは無我説に反する。また、如来蔵思想とウパニシャッド哲学との類似性が指摘されている。ウパニシャッド(ベーダーンタ)とは、釈尊が批判した対象に他ならないから、これが反仏教思想であることが結論される。如来蔵・仏性思想は中期大乗経典に表れ、初期大乗経典(般若経、法華経、阿弥陀経、宝積経など)には見られないことは注意されねばならない。このことの意味は、やはり初期大乗から中期大乗に思想的変化があったということであり、縁起・無我と如来蔵・仏性思想との間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。すなわち、空から有へと軸足をずらしたのである。そしてこれは中観派と唯識派との差異でもある。
「無常、苦、無我、不浄」か「常、楽、我、浄」か
小乗仏教では前者を、大乗仏教では後者を覚りの内容とする、というのはまったくのでたらめである。こういうことを主張する仏教者は、前者は現象世界の真理であるが、それを超えた真実在の世界があって、そこでは後者が真理である、という。これは仏教にとっての危険思想・異端思想である。現象の背後に真実在を想定するのは、仏教以外の諸々の宗教である。インドにおけるそれらの宗教(外道)を根本否定して仏教は成立したのだから、真実在を認めたら仏教の根底が崩れる(その極致が密教)。そもそも、釈尊が問題にしたのは「現象世界のみ」であって、それを超えた世界については全く判断停止(無記)したのである。仏教が反形而上学といわれる所以である。

松本史郎氏の如来蔵思想批判について
「仏教とは何か」、何をもって仏教の基本的な思想とするか、についてのかれの見解に関して言えば、その大筋にはほぼ全面的に同意します。すなわち、仏教のもっとも本質的な思想は縁起の思想であるということ、また、他の宗教や思想と比べて、仏教を最も特徴づけている思想は、その縁起の思想と深く関わっている無我の思想である、という点です。
つぎに、如来蔵思想についてですが、もし、かれのいうように、如来蔵思想とは、「心臓(蔵)に住する如来(アートマン)」を信じる思想ということであるなら、当然、非仏教として批判されねばならないでしょう。しかし、如来蔵は、かれの言うように、ほんとうに一義的にそのような意味に決定できるのかでしょうか。その点に疑問が残ります。
しかし、このような欠点にもかかわらず、松本氏の指摘はあまりにも重要であるとわたしは考えています。なぜなら、たとえ、「如来蔵思想はアートマン説である」という主張が決定的に論証されなくても、容易にアートマン説と解釈できる如来蔵思想(あるいは日本仏教そのもの)の危うさを、これほど明瞭に示されたことはいままでなかったと思われるからです。

[佐倉哲]

本覚思想

本覚思想は、日本の仏教、特に天台宗や真言宗で発展した思想で、すべての人が本来仏としての性質(本覚)を持っているという考えを示している。つまり、悟りや仏の境地は特別に獲得するものではなく、誰もがもともと備えているものだと強調する思想。
この思想は、鎌倉時代に特に盛んに説かれ、天台宗の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)の教えに大きな影響を受けている。本覚思想は、人々が自身の内にある仏性を認識し、それを覚醒させることこそが悟りへの道だと考える。そして、その仏性を顕在化させるために修行や信仰が重要視される。
しかし、この思想は後に禅宗や浄土宗など他の仏教の流派から批判されることもあった。本覚思想に対して、「仏性を持っているだけでは不十分であり、実際に修行や信仰を通じて悟りに至る必要がある」という反論がなされている。

草木でも成仏できる
金春禅竹の作といわれる謡曲の『芭蕉』を取り上げてみよう。ところは山中の荒れた庵、ひとり住む僧の読経に応じて、夜な夜な女性が姿を現し、聴聞する。不審に思った僧との問答から、彼女は庭の芭蕉の精であると知られる。草木でも成仏できるという仏の教えを讃えて舞った後、女性は姿を消し、後には荒れた秋の情景のなかに葉の破れた芭蕉だけが残った……、という話である。筋というほどのものもないが、冷えさびた秋の情趣が一本の芭蕉に凝縮され、それが「序の舞」を舞う盛りをすぎた女性の姿によって象徴されるところに尽きない感興がある。そして、それを支えるのが草木成仏の思想である。(p166-168)
(ワキ)「げによく御聴聞候ふものかな。ただ一念随喜の信心なれば、一切非情草木の類までも、何の疑ひの候うべき」
(シテ)「さてはことさらありがたや、さてさて草木成仏の、調れをなほも示し給へ」
(地謡)「……されば柳は緑、花は紅と知る事も、ただそのままの色香の、草木も成仏の国土ぞ、成仏の国土なるべし」
「ただそのままの色香の草木」がそのまま成仏の世界だというのである。晩秋の枯れ果てた山中に芭蕉の破れ葉がはためくのも光り輝く仏の浄土と何の変わりもない。
中国の草木成仏論と日本での発展
そもそもインドでは、同じ生命体でも六道に輪廻する衆生と植物とは截然と区別され、悟りを開く可能性は前者にのみ認められるものであったから、草木成仏はほとんど問題にもならなかった。それが問題になるのは仏教が中国にはいってからである。その後、華厳・天台・禅などでひろく草木成仏が説かれるようになり、唐代の仏教ではおなじみのテーマとなった。そのなかで日本に最も大きな影響をおよぼしたのは天台の六祖湛然(711-782)の『金錍論』である。
*『金錍論』一巻。野客やかくの問に答える形で、非情(心なきもの)にも仏性があることを説く。(p169-170)

中国における草木成仏の論拠は、衆生と草木の相互関連性、あるいは「空」の絶対の立場からみた両者の同質性に求められている。たとえば、衆生は世界における主体的な存在(正報)であり、これに対して草木などは衆生の活動する環境世界(依報)を形づくっており、両者は不二一体のものとされる(依正不二)から、衆生が成仏するならば草木も成仏するという議論や、三界唯心の立場から、外界は衆生の心によって形成されたものだから、衆生が成仏するならばその心の対象となる草木も成仏するという議論がなされている。あるいは、仏の絶対の立場からみると、全世界が平等に真理そのものであって、そこで衆生と草木との区別もなくなるという観点から草木成仏がいわれる。
このような中国の議論に対して、日本でもそのまま受け入れている面があると同時に、さらにそれをもう一歩発展させている。それが「草木発心修行成仏記」などにみられる説で、衆生との関係や空の絶対の立場を離れて、一本一本の草や木がそれぞれそれぞれ自体で完結し成仏しているというものである。ここでは仏の絶対の立場からみるという前提がきわめて弱くなり、平等の真理性といういわば抽象的な次元でなく、個別的具体的なこの現象世界のいちいちの事物のあり方がそのまま悟りを実現しているという面が強くなる。
あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想は、じつは草木成仏というだけにかぎらず、よりひろいすそ野をもち、古代末期から中世へかけての日本の天台宗でおおいに発展し、天台宗のみにかぎらず仏教界全体、さらにには文学・芸術にまで大きな影響をおよぼす。それが本覚思想とよばれるもので、草木成仏はその一局面をなすものである。(p170-171)
今日では本覚思想という語が定着してきているが、その際、必ずしも厳密に規定されずに曖昧にもちらいれている面があるように見受けられる。狭義には「天台本覚思想」といわれるように、日本の天台宗において古代末期から近世初期にまでわたって主流を占めた一傾向、すなわち、前述のようにあるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想を指す。しかし、このような動向は天台宗のみにかぎらず、同じ時期の他の宗派にもみられ、さらにそれをさかのぼれば中国から日本の仏教のなかでしだいに発展してきたものである。そこで、それらをもふくめて本覚思想という言い方がされることも多い。(p173-174)
ところで、このように現象世界をそのまま悟りの世界として肯定するならば、わざわざ修行をして悟りを開く必要もないことになり、宗教としての堕落に陥りやすく、事実、その点から近世以降本覚思想は批判され、それがために研究も遅れることになった。また、そもそも「本覚」という考え方自体が、もともとのインドの仏教にはなかったものであり、異端的な性質をもっているということもできる。

「日本仏教史:思想史としてのアプローチ」末木文美士/新潮文庫

参考文献


仏教の基礎知識シリーズ一覧


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。