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自分を生きる~狂信と正信の違い【憂世で生きる智慧】
狂信と正信の違い
ノボセテいるかノボセさがっているか
[内山興正(うちやまこうしょう)]
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「屁一発だって人と貸し借りでけんやないか。誰でも自分は自分を生きるよりほかないんじゃ。」
[澤木興道(さわきこうどう)]
いかにも沢木老師らしいユーモアにとんだ表現ですが、しかしよくもまあ、生命の真実をこうもズバリといわれたものだと思います。
ほんとうに屁一発、プップッという小さい屁を利子としてつけるから、ブーッという大きな屁を一発、ぜひ貸してほしいといっても、それはまったく不可能です。この貸し借り絶対不可能ということが、われわれの「生命」というものであり、「自己」というものでなければなりません。
それでは「ナマの生きた自己の生命」とはどんなものでしょう?
とにかくここでは絶対貸し借りヤリトリできる筈はありません。
自己はどこまでも「他と貸し借りヤリトリなしの、自己ぎりの自己」を生きているのであり、それを体験する世界も「ただ自己だけが体験する世界」でなければならないのです。
例えば目の前のコップを貴方と私がみる場合、貴方は貴方の視力をもって貴方の角度からみているのであり、私は私の視力をもって私の角度からみているのであって、このコップ一つの見方さえ、絶対にオキカエ入れかえはききません。
あらゆるものを見、あらゆるものを聞いたり展開されるナマの体験世界は、それゆえどんな人間の場合でも絶対に同一ということはありえないものです。
いわんや「人間のものの考え方」にいたっては、人間の顔が一人一人ちがうように、まったくちがった考えをもっているでしょう。
してみれば私の生きているナマの体験世界は、ただ私だけのものであり、貴方の生きているナマの体験世界はただ貴方だけのものだということは、まったく自明のことです。
それゆえもっとはっきりいえば、自己は「自己の世界をもって生まれてくる」のであり、死ぬときには「自己の世界をもって死んで」ゆきます。
つまり自己というのは「自己の生きる世界ぐるみ」であり、この自己の世界はみじんも他と貸し借りヤリトリはできないものです。
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