ポジショントークの『わな』
職場や会議室で、あるいはオンラインの議論の場で、誰もが一度は経験するあの奇妙な感覚―「あれ、これってただの立場の押し付け合いでは?」と薄々気づいてしまう、あの瞬間。わたしの筆致はその瞬間を、何とか面白おかしく、そして濡れるほどに鋭利に切り取りたかったのです。
ですが、こんな濡れたエッセイを書いてしまったことについて、まずは先に謝っておきます。読むだけでお漏らし(知的なね)する可能性がありますからね。知的おむつの準備ができた方から読み進めて下さい。
さて、「ポジショントーク」とは何か。
これを一言で説明するなら、「立場に基づく発言」であり、正しさより利害が優先される発言のことです。経営戦略の会議で、「これは顧客のためです」と言いつつ実は自部門の利益しか考えていない提案をする人。恋愛相談で「本当に相手を想っているなら」と美辞麗句を並べつつ、実は友人の幸せを潰したいだけの人。さらに言えば、「わたし、これが好きだから正しい!」と、推しのために倫理も美学も無視するオタク(わたしのことです)。
こうした「ポジショントーク」が持つ危険性、それはその論理的な説得力の欠如ではありません。むしろ問題は、その説得力が強すぎるところにあります。
だって考えてみてください。人は、どんなにロジカルな仮面を被ろうとも、結局のところ感情で動く生き物です。だからこそ、「わたしの立場からすればこれが正しい」という主張は、その場では驚くほど説得力を持ちます。経営会議では「これは長期的な視点で見れば…」という一言で、短期的利益を追求したい勢力を黙らせられる。恋愛では「わたしが見た限り、この人とは未来がないと思う」と一言言えば、当事者の夢も未来も壊せる。まるで美しいナイフです。手にした瞬間、誰もがその切れ味に酔い、知らぬ間に血を流している。そして、その血は、あなた自身のものかもしれない。
わたしは思うのです。「ポジショントーク」はまるで、深夜の通販番組で売られる謎の高機能キッチンナイフのようだ、と。視聴者はその性能に夢中になり、「これさえあればすべてが切れる」と信じて買う。
でも、届いて使ってみたら、切り口はどうにも不恰好で、結局、料理がまずくなる。会議室で振り回されたポジショントークも同じです。それは一見、議論を前進させるように見えるけれど、実際は結論を歪め、最悪の場合、誰かのキャリアや心をズタズタにしてしまう。
では、なぜ人はポジショントークを使うのでしょう?その理由を深掘りすると、「自己防衛」という言葉が浮かび上がります。だって、怖いんですもの。自分の立場が否定されること、自分が無価値になることを受け入れるのは。ポジショントークはその恐怖を隠すための盾であり、同時に矛でもあります。わたしが「これが正しい」と言い切るとき、そこには「これが正しくなければ、わたしは無価値だ」という暗黙のメッセージが含まれている。そしてそれを、誰も指摘できない。
ここまで読んで、「あれ?これってわたしにも心当たりがあるかも」と感じたあなた、正解です。だってわたしたちはみんなポジショントークの罠にはまっているんです。経営戦略を語るときも、恋愛相談をするときも、推しの話をするときも、果てはネットで匿名で愚痴を言うときも。結局のところ、「自分の立場」を守りたい。だから、無意識にでも「これは全体のため」というフリをして自分の利益を語る。でもその瞬間、わたしたちはすでに罠にかかっている。自分の発言が、本当に正しいかどうかを見失ってしまうのです。
じゃあ、どうすればいいのか?
正直に言いましょう。わたしにはわかりません。ただ、わたし自身は、こう考えています。ポジショントークをする自分を認めること。だって、わたしたちは不完全で、弱い生き物ですもの。立場を守りたいと思うのは自然なことです。だからこそ、まずはその事実を認め、「これはわたしのポジションからの意見です」と明言することが大事なのではないでしょうか。そしてそのうえで、自分の発言がどれだけ偏っているのかを冷静に分析する。
最後に。この文章を書くことで、わたしはまたひとつ自分の弱さをさらけ出してしまいました。けれど、それでいいのです。だって、こうして濡れた文字列が生々しくあなたに届くなら、わたしの恥も無駄ではない。ポジショントークの罠にかかったわたしたちは、その罠を笑い飛ばしながらも、いつかその罠を乗り越えられる日を夢見ているのです。こんな文章を書いてしまったこと、深くお詫び申し上げます。でも、最後に一つだけ。こんなわたしを、少しでも愛してくれたならーそれがわたしの立場です。