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MECEにおける『漏れ感』

わたしはいま、この文章を書く指をキーボードに滑らせながら、「これを世に放ってしまったらどうなるのだろう」と、若干の羞恥と、それを上回る解放感に浸っている。

「知的お漏らし」という概念をこうまで露骨に、しかもエッセイという体裁で具現化するのってどうなの、わたし正気?と思いつつも、ほら、わたしたち変態だから、仕方ないよね。そもそも人間って合理性を装っていながら常に漏れている存在だし。そんな気分なのです。

特に「MECE(Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive):漏れなく、ダブりなく」なんて言葉にすがりながら、完璧なロジックの宇宙を構築しようとするコンサル界隈のわたしのような人種にとって、「漏れる」ことへの恐怖と快感は裏表の関係。漏れを封じ込めたいけど、漏らすのも嫌いじゃない。そんな矛盾に満ちた機械仕掛けの情熱こそ、わたしたちの本質なのでは?

MECE。わたしの職業病的な愛しき呪文。
これをまともに使いこなせていないと、おそらくコンサルなんてやっていられない。すべてを「漏れなく、ダブりなく」分類しようとするこの思考法は、ガラスケースに収められた精密な歯車のように美しい。「これこそが知的な秩序!」って声高に叫びたくなるほどなのに、皮肉なことに、そのガラスケースに指紋をつけるのもまた、わたし自身だ。ほら見て、ここ、よく見て、この角っこの部分、甘くない?漏れてない?そういう湿り気を帯びた声がいつだってわたしの脳内に響いている。

だけど、これがまた、たまらないんですよね。
漏れてしまったときのあの、冷やっとした感じ。完全を目指すあまり、自分が穴だらけの、むしろMECEの対極にいる存在だと気づく瞬間って、奇妙に心地よくて。
たとえば、プロジェクトの深夜会議で図を書きながら、「ここ、思いっきり漏れてるけど、誰にも気づかれないんじゃない?」と密かに思う、あの背徳感。これはもう知的な意味での露出プレイと言っても過言ではない。恥ずかしい、だけど見てほしい。そしてその後、誰かから「ここ、漏れてないですか?」と指摘されて真っ赤になるのが、またひとつの快楽。謎の精神的マゾヒズム。

そもそもMECEって、人間味を抜き取ろうとする試みなんですよね。
「漏れ」の許されない完全な分類体系を作ろうとする考え方は、感情や曖昧さを徹底的に排除しようとする暴力的なロマンがある。だけど、わたしたち人間ってそもそも「漏れ」の集合体じゃない?脳内で考えることは常にダブるし、むしろダブらせることで思考を深めている。
たとえば、恋愛について考えるとき。「あの人は好きだけど、でも…」と感情が二重螺旋のように絡み合い、矛盾し、自己否定と自己肯定が交互に顔を出してくる。その混沌こそが心臓の鼓動を早め、生命を実感させる原動力でしょ?そんな私たちに向かって「漏れなく、ダブりなくやりなさい」なんて要求するの、ほぼ暴力。まあ、暴力って、時に愛でもあるけどね。

そしてコンサルという職業の特殊性。一見冷静で、論理だけを追い求めているようで、その実、中身は感情的で不完全な生き物たちが集うサーカス。データの漏れ、仮説のダブり、ドキュメントのエモさ。そうした「MECE失敗例」に満ちた職場でわたしが何に依存しているかって?
それは、「そうやって漏れる自分」を愛する姿勢。いや、愛さざるを得ないというか。漏れた分だけ自分の感情や弱さが可視化されるわけで、それを否定してしまったら、わたしたち存在そのもの否定しちゃうじゃない?だから、漏れることって、実はとても大事なんです。

でも、ここで疑問が浮かびます。
わたしがこのロジックの漏れや感情の漏れに快感を覚えるのは、果たして正常なのでしょうか。いや、もはや正常とか異常を超えたところに立っている気がする。「完璧」は人間にとって幻想であり、目標でもある。
そのギャップにこそ、人間の美しさがあるって、恋愛アニメの展開で学びました。ヒロインが天然でポカをやらかすたびに視聴者が「かわいい!」と手を叩く構造、その真理はきっとMECEの漏れにも通じる。だからこそ、わたしは今日も堂々と漏らしていく。いや、知的な意味でね?

最後に一言だけ。こうして長文で漏らしてしまったエッセイを前にして、今わたしは静かに反省しているふりをしています。
でも、本音を言うとちょっと誇らしいの。「漏れたわたし」をこんなにエモく記録できたんだから、それって結構素敵なことじゃない?読者の皆さんも、漏れちゃっていいんですよ。あなたの漏れが、わたしの漏れと共鳴する。その瞬間がきっと、知的快楽の頂点だから。読んでくれてありがとう。そして、こんなものを読ませてしまってごめんなさい(久々に徹夜したので無駄にテンション高め。あとで消すかも)。


おまけ

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