考え事を停止してからわかる事 ルアンポー・プラモート師
法の実践は
感覚を感じ続けるのです
集中してくっつき過ぎない*のです
くっ付きすぎるのは
法の実践ではありませんよ
欲
知りたい
観たい
なりたい
善くなりたい
座り、その様なことに
くっついて集中してしまいます
そして心がそれに
適応していくのです
自然の心の働きというものは
いつも変化しているのです
対象にくっ付いて
留まっていると
心が働かなくなるのです
ルアンプー・ドゥン師はこのように教えを説きました
”いくら考えても解りませんよ
考え事を停止してから解るのですよ”と
しかし
思考は使うのです
思考を使うことを禁止するのではありませんよ
思考が生じる時
その後に起こる事は
クソン(善)かアクソン(不善)が
続いてくるのです
あのことを考えて心がクソン(善)になり
そのことを考えて心がアクソン(不善)になるのです
例えば
私達が誰かに危害を加えようと思った時
怒り(ドーサ)が生じます
もしも
善いことを考えたのならば
彼は友人であると思うならば
メッター(慈悲)が生じるのです
もしも
車の事故を目撃したのならば
かわいそうと思い
苦(ドゥッカ)が生じるのです
助けられるのであれば助けようと思うのです
カルナー(悲)が生じるのです
もしも
事故がひどく
もう助からない
何も助けてあげることが出来ないのであれば
「あーこれは大変なことが起こっている」と
あれが悪かったのだろうと
心は悲しくなるのです
それは怒り(ドーサ)なのです
もう一つあります
生き物にはそれぞれの業があります
心が捨(ウペッカー)になります
クソン(善)の中のブン(功徳)が生じてきます
ですから
私達は
心に割り込まないのですよ
心には飾り付けられ働く役割があります
それに考えさせ、飾り付けさせるのです
それを知る事を間に合わせるのです
私たちは飾り付けられるそれに巻き込まれてはいけないのです
飾り付けられるそれを知る事を間に合わせるのです
それをただ知るだけなのです
仏歴2566年5月21日
*くっつきすぎるとは スティサート師リトリート中の説法~お話と日本の方からの質疑に応えて(8)瞑想指導法の3つのタイプ(浦崎雅代)