おもいでは風の中
父が入院した。
耳が聴こえ難くなり、眩暈がするとの症状でかかりつけの総合病院へ診察へ行ったところ、疲労から起因するものだろう、念の為しばらくは検査も兼ねて入院をしましょう、となったようだ。
着替えや洗面道具などを持って行くと、比較的元気そうなので安心した。
週刊誌やスポーツ新聞が欲しいと言われたので近くのコンビニに行き、自分用のカフェオレも買った。
父は今年七十九歳になるが、まだまだ元気で、週に三回はグラウンドゴルフで汗を流し、週末には船を運転して釣りに出掛けている。父の日や誕生日のプレゼントには、ジーンズやNIKEのスニーカーを欲しがったり、まだまだ見た目も若い。
今の私と同じくらいの年齢の時、心筋梗塞で生死の境をさまよった経験があり、その大手術をきっかけにタバコや過度の飲酒をやめているようだ。
適度な運動のおかげもあり、歳の割にとにかく元気で家でじっとしているのが性に合わないのか、畑仕事をしたり知人と食事に出かけたりと、毎日パワフルな生活を送っている。
そんな元気な父の姿を常日頃から見ているので、入院と聞いた時は正直びっくりして、何か大事にでもなってはしないか?と、母と心配をしたが、思いの外元気そうなので、これはゆっくり過ごしなさいという神様のお告げかもしれんねと、母と親戚のおじさんは苦笑いしていた。
私は、父の事が苦手というわけではもちろんなかったが、どちらかというと話しかけにくい感じで、うまく表現が出来ないのだけれど、萎縮してしまい、簡単に言えばいつまで経っても昔から「こわい」存在だ。
いわゆる典型的な昭和の頑固親父と言っていいくらいで、とても気分屋な性格なのだ。
例えば家族で動物園に行こうと夜に計画を立てたとしても、翌日の朝何か気に入らない事があれば、「俺はもう行かんけんな!!」と貝のように頑なになり、あれほど話し合った計画が水泡となってしまう事数知れずといった按配だ。母曰く、「お父さんの計画と約束はおみくじと一緒、当たった試しもなかし、ぬか喜び」らしい。
父と言えば何よりその抜群の運動神経だと思う。
短距離ではおそらく町内一で、父が子供の頃から誰にも負けた記憶がないと言っていた。
私が小学校の時の運動会や、町で開催される町民体育大会などで、走る姿を幾度となく見てきたが、私も一回たりとも父が誰かに負ける姿を見た記憶がない。消防団のリレーでも、年代別の短距離走でも中距離走でも、ダントツの文句無しに一番でゴールテープを切っていた。私も弟も、そこそこ速かったけれど、父の速さはそれをとんでもなく遥かに超越していて、その走る姿もサバンナを疾走するチーターの様で、子供ながらにカッコ良く、それが私達の自慢でもあった。中でも、妹、弟、私、母、父親でバトンを繋ぐ親子リレーと言われる種目があった。
このリレーには先生達も参加し、兄弟に中学生や高校生のいる家族もある。松本家はといえば、妹がスタートで足を引っ張るのが恒例で、第二走者の弟にバトンが渡る頃にはかなりの差がついている。
弟が差を縮めて少し抜き、私がまた縮め、母で抜かれてアンカーの父は後ろのグループでバトンをもらう。しかしここからが見せ場だ。父は颯の如く風を残し、疾風迅雷駆けていく。一人抜き、二人抜き、五人抜き、トップの若い体育の先生をあっという間にするりとかわし、両手を上げてテープを切りガッツポーズで拍手をもらうのだ。
周りの家族や先生からは、「松本さんとこはあれ、違反だよ!大学出立ての先生が敵わんのにうちらが張り合える訳ないけんさぁ」と、ため息の混じった賛辞の言葉を、私は小学校六年間、何度も何度も聞いてきたくらいだ。
また野球でもその運動神経はずば抜けていた。
父は会社のクラブチームに属しており、四番でピッチャー、キャプテンを長い間務めていた。
父の会社は運動に長けた人が多く、いつも大会で優勝し、帰りは応援に来た家族みんなで高級焼肉を食べるのがとても楽しかった。
父は私にも厳しかった。
ソフトボールも低学年の時から鍛えられていた。
ピッチャーの投球方法では独自の投げ方を教育され、その理論と練習方法は、部活動の先生が認め、「お前だけはお父さんの言った通りのやり方でこれから練習しなさい」と言われた事もあった。
右利きにも関わらず、一歩の差で一塁に早く到達出来るからと、私は練習でも遊びでも、左打ちを強制されていた。
高校生になる頃から私は一人暮らしを始めたので、父と話す機会は減っていった。
もともと父は、どちらかと言えば家族の前では無口な方で、いつまで経ってもやはり頑固な性格でもあった為、なかなか話しかけにくい空気のまま、私も歳をとっていった。
今にして思えば、授業参観や面談、文化祭や受験の時に父の姿を見た記憶がなく、相談なども母にばかり頼っていたし、私はそれが当たり前だと思っていた。
私は三十歳の時妻を病気で亡くし、二人の子を連れて、再び熊本の実家へと戻って来た。
まさかまた田舎に帰って来て生活する事になろうなんて、夢にも思っていなかった。
父は相変わらずだったが、私の子供の面倒をよくみてくれた。小さなリュックにお菓子を入れ、孫の手を引いて公園や山に行っていた。滑り台で遊ばせたり、ブランコに乗せ、持参したおやつを一緒に食べたりしていた。
「お前も大変やったな。仕事とかは慌てずにゆっくり考えろ。落ち着くまではしばらくのんびりしときなさい。」と言ってくれた。
また私が体調を崩して入院した時は、「ゆっくり休んでよかよ。生活の事は心配せんでいいから。もっと時間的にも楽な仕事に替えた方がいいんじゃないか?」と声をかけてくれた。
話し合いの結果、自分の体や小さな子供達との時間を優先しようと結論が出て、私は退職する意思を固めた。
実家に帰ってからは父と晩酌する機会も増えて、会話も必然的に多くなっていった。
父は口数が多いタイプではないが、私の子供の将来や幸せについてはいつもアドバイスをくれた。
ひとつはっきり覚えている言葉がある。
それは確か子供達二人の誕生日のお祝いを一月下旬に行い、ろうそくの灯を消して、二人がケーキを食べている時だったと思う。
「父親はな、子供に好かれよう、気に入られようとして子育てをしたらダメやぞ。言いたくない事も言って、嫌われるような事も言って、悪者になりながら教育せないかん。こんな親なんてもしいなくなっても、自分達で生きていけるって思ってもらえば大成功や。いつか子供が大人になって、歳を取った時に、自分の父親の姿をちょっとでも思い出してくれたら、それでいいんやけんな。まぁ、お前の場合は母親代わりもせないかんから、少しばっかり状況は違うけどな。」
そう言いながらビールを飲んでいた。
その時は、父がどういう真意を持ってそう私に言ったのか、あまり理解が出来なかった。
父は明日、精密検査を行う予定だ。
あまり心配はないでしょうと、担当医が言ってくれたので、その旨母に連絡した。庭の猫達に餌を忘れないように念を押された。
「いい休肝日になるたい!」と私が言うと、「病院に長く居れば俺は病気になってしまうとぞ。」と冗談を言って父は少し笑った。
私と父はもちろん親子だけれど、子供に対する考え方や接し方、自分の生きる上での哲学なんかも違うだろう。しかし、あの時父が言った「いつか子供が成長した時、ちょっとでも思い出してくれたら幸せだ」という意味と、その言葉の深さが、今やっと理解出来るようになった気がする。
なぜならば、私がこうして幸せな気持ちで父との思い出を語る事が出来ているから。
私はまだまだ半人前だけど、息子が三十歳になった時、父が私に言ってくれたあの言葉を息子にも伝えようと思っている。
父はよく、釣りやキャンプに連れて行ってくれた。
小さかった私と弟は船の先で手を繋いで立ち、しっかり船に掴まり、波を乗り越え、ザブン、ザブンと揺れる度に大きな声を発しながら腕を空に伸ばしていた。
父は得意気にニヤッと笑いながら、自慢の船の舵を取っていた。
私と弟は波飛沫を浴び風を全身で受け止めながら、天と、前方に、握った拳を高々と突き上げていた。
「走れー!!走れー!」
「進めー進めー!!ヤッホー!!」と。