noteで浄化する恋物語
散歩中によいアイデアが浮かびやすいとはよくいうが、散歩には逆に記憶を片づける効果もあるのではないだろうか。
わたしはこの地方都市で車はおろか自転車さえ使わず、できるだけ徒歩移動を心がけている。(運動不足だから)
そうすると、アイデアが浮かぶこともあるけれども、突如昔のことを思い出すこともまあまあある。
自分でも「そんなことまだ憶えていたんだ」とびっくりするような。
たとえば、高校2年生の一学期が終わりを迎える終業式の日にわけのわからない理由でわたしをふった挙げ句、夏休みが明ける前にはわたしの友人とつき合い始めた野郎のことなどである。
彼はその後、一浪して西の国立大学に進学した。
そして大学で修士課程まで修了し、東証プライム上場企業に就職し、それから数年して高校時代の例の彼女と結婚したらしい、ということはSNSで知った。
聞いてもないのに教えてくれてありがとう。
だからSNSは好きじゃない。
「友だちの友だち」は友だちではないというのに。
当該アカウントはそっ閉じし、別のアカウントを立ち上げた。
わたしにとって学生時代の友人なんて、SとEの2人だけでじゅうぶんだ。
そして2人ともSNSアカウントを持っていない。
だったらわたしも学生時代の知りあいとつながるためのSNSアカウントなど持つ必要がない。
したがって彼と彼女が今どこでどんな暮らしをしているのか、もはやわたしの知るところではないが、なぜだかわたしは猛烈に悔しくなった。
しょうもない妄想の話だが、仮に彼がそのまま、いわゆるエリート街道をまっしぐらに進んでいるとすれば、今のうだつの上がらないわたしは一体なんなのだ。
『真田丸』の草刈正雄さんがいうところの「どこで間違うた!」状態である。
いや、そもそも自分以外の、それももうわたしのことなどすっかり記憶からフライアウェイしてしまっているかもしれないような相手に対して、ほんのすこしでも自分の価値基準を傾けてしまっている自分に腹が立つ。
そんなことで腹が立っている自分にも腹が立つ。
苛立たしさのマトリョーシカである。
目的地が見えて意識の矛先が建物に向いたとき、まるで地団駄を踏むようにドスドスと歩いている自分に気づいて引いた
…いったいなにを考えているのだ。
そうして買いものをすませて帰宅してもなおムンムンがおさまらず、こうしてPCに向かっている。
ここまで966文字を一気に書き、読み返してみたところで「ばかだねえ」とようやく客観視できた。
人がメモを書く理由というのは、忘れるためだ。
メモは外付けメモリみたいなもんで、たとえばTODOリストは「やらなきゃいけないのはわかっているが、いったん今すべきことに集中したいから頭のなかから追い出したいこと」リストだろう。
書いて頭のなかから追い出せるのであれば、本件はスッポリ追い出してしまいたい。そしてもう二度と心の敷居をまたいでくれなくてよい。
散歩で思い出し、書いて浄化する。
今日この日のnoteを、じぶんで読み返さないことを期待する。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたがつい最近思い出してしまった過去のことって、なんですか?
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