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歴史 その意義

歴史をなぜ学ぶのか。その答えのひとつは「温故知新」。過去のものとして客観的に見る事で、誰でも簡単に物事を俯瞰する事が出来る。

関わる様々な立場にそれぞれの視点があることが見えてくる。

それを俯瞰しつつ、文字で残された文献をひもとく。必要な視点はどんどん増える。その文字を書き残したのは誰か、その人に影響力を持っていたのは誰か、どういう意図をもってかかれたのか。残された文字を信じるのではなく、その行間を空間に広げて時間軸を加えて広げ、複数の視点からイマジネーションで読む。

しまった、だんだん小難しくなってきた。

言いたいことは単純です、温故知新。

識字率がほぼ100%の奇跡の国ニッポン。ホームレスが段ボールに詩を書き新聞を読む、不思議の国ニッポン。江戸の町人の識字率の高さが現代の世界と比べても驚異的な不思議の国ニッポン。長屋暮らしでも柱に暦を貼り、お札を貼り、辻に貼られた新聞を読み、娯楽に小説を読んでいた不思議な時空江戸。

世界に比類ない識字率を誇る日本では、ほぼ漏れなく小学校で歴史を習います、中学校で歴史を習います、高校で歴史を習います、趣味で大学でまで歴史を習う人もいます(私もです)。

歴史なんて全然わからない、社会科なんて大嫌いという人でも、ひととおりの出来事を習うのです。その解釈などはともかく、起きた出来事として習います。

忘れていても、その時に意味がわからなくても、第二次世界大戦に関連した単語として「赤紙」「特攻隊」「大本営発表」という言葉を習っているのです。

そして近代史としても習うし、一般常識として、または映画のタイトルなどで、「ホロコースト」「アンネの日記」「黄色い星」「アウシュヴィッツ」などの言葉を目にしてきているはずです。多分、だいたいの人が。

なぜそれが必要な知識なのか。

何かが起きた時の判断基準にするには、自分ひとりの経験では少なすぎるからです。

過去に起きたたくさんの出来事、そこに生きたたくさんの人々、それを追体験したり、俯瞰して客観的に見たりすることで、見える風景が書き割りかもしれないと思いつく、そのためです。

書き割りかもしれない、現実かもしれない、そのどちらであるかは重要ではありません。大概、そういうものは表裏一体です。どちらかだと決めつける必要があると思ってしまいがちですが、そういうものではないのです。

「そうかもしれないと思いつく事」が歴史の効能です。その視点を持つ事で、走り出した列車から飛び降りる事が出来るかもしれない。走り出す前に気付けるかもしれない。星を配られた時点で気付けるかもしれない。でも飛び降りて怪我をするかもしれない、乗らないと乗り遅れるかもしれない、星はただの星かもしれない。だけど。

世の中は陰陽が混ざる所です。どちらかだけで存在することはないと思っておく方がいいとすら言えます。

AかBか、どちらが正しいのか、どちらが嘘か、そういうはっきりスッキリしたものを与えてもらえると思ったら大間違いです。実際はどろどろに混じった中から光明を見出してどろどろの中に足をつっこむしかないのです。

その時に、たったひとりで歩きださないといけないのか。

先人の体験を自分の経験のサポートに使えるのか。


※ いろんな説があって、あちこちで高い文明があったとか、時代があったとか歴史があったとか、そういうものは一旦横におきます。「歴史」とは文字に残されたものを呼びます。文字のない範囲は「考古学」が担当します。


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風邪ひとつひけない世界になるとは思いもしませんでしたね。子供と2人きりのシングルです。遠くても仲間や繋がりを大切に走ってきました。世の中が変わりましたが、アロマとハーブを知って次々と思いもしなかった扉が開いています。健康を翼にして、必ず世界中の友達に会いに行きます。