見出し画像

「働くということ」読書メモ 「選び、選ばれ、評価され」に疲れた人たちへ

こんにちは!オンラインで日本語を教えているErikoです。
今日は日本語の話から離れますが、最近読んで面白かった本について思ったことを書こうと思います。

勅使川原 真衣 氏著
『働くということ 「能力主義」を超えて』という本です。

Amazonリンクに飛びます

こちらの記事で、自分の簡単な経歴、SEを辞めてオンラインで日本語を教えるようになった経緯、などを書きました。
そして今も、絶賛キャリア悩み中なので、キャリアデザインや転職について書かれた本などを読んでいたのですが…
どうにも違和感ばかりで困っていました。
書いてあることは大体もう聞き飽きたことばかりだったから、です。

20代の時は〇〇力をつけて…
30代になったらこれを、40代になったらこれをやって…
収入は業界で決まるから高い収入が見込める業界を選びましょう
個人の市場価値を上げるにはこうしましょう

そういう話ばかりで、まぁ分かるんだけど、そうなんだろうけど、なんか疲れるし違和感が消えない。というかそういう発想でこの数年ずっと頑張ってきたけど、その結果が今(ものすごく辛くなって3回退職)なのでもうその話は役に立たないんです…。
そんなタイミングでこちらの本を見かけ、手にとってみました。

「他者と働くことはなぜこんなに難しいのか?」
ここ数年私が疑問に思い続けてきたことです。
普遍的な問いというより、なぜ「(みんなは普通にできているっぽいのに)私にはこんなに難しいのか…」という疑問でしたが。
でもこういった本が存在し、帯のキャッチコピーになるということは、同じ疑問を持っているのは自分だけではないのだな、と思いました。

印象に残った箇所、気づきがあった場所を抜粋しつつ、自分が思ったことを書いていこうと思います。


人は本当に「選び、選ばれて」いるのか?

仕事の採用面接、入試、パートナー探しなど、色々な場面について以下のように書かれています。

そもそも、能力だろうが何だろうが、人が人を選び・選ばれる状況というのは、実はそれ自体がものすごくレアケースなのですから。であるのに、人と人との不自然な出会いや関わり合いの検討に、我々はやたらと傾倒してしまっていないでしょうか。(中略)学校でも結婚相手を探すといったことでも、類似した体験があるはずです。選び・選ばれると意気込むものの、結果的には神のみぞ知るような状況も多分にある。つまり、よく分からない。いつもどこか揺らいでいる。でもそれが、仕事であり、家族であり、人と人との関係性というものなのだと思えてなりません。

『働くということ』p.78

確かに言われてみれば、親やきょうだいは選んでいないけど、大事な存在だし助け合って生きています。

「どう付き合っていくか/そもそも付き合っていくのか」は選ぶことだと思いますが(家族だからといって相性がいい場合だけでもないし問題があることも多いので、「距離を置く」「付き合わない」という選択は当然ある)、そもそも「誰と人付き合いが始まるか」って元を辿るとものすごく偶然性の高いものなんだよな、と改めて気がつきました。

そしてそれはパートナーであっても、仕事でも同じですね。偶然同じ学年で偶然同じ学校に通っていた。偶然自分が仕事を探していたタイミングで、会社も人を探していた。今の時代、数年違うだけで、そもそも存在する会社も大きく変わっていたりもします。

マッチングアプリの類もそうですが、現代に生きる自分たちは、「考えうる選択肢を全て横並びにして」「その中からベストを選ぶ」(選べる気持ちになる)ことに慣れてしまっている気がします。

それに、世の中の言説も、「どういう人を選んだら良いか?」「どうやって「選ばれる」人(女性/男性)になるか?」そういった話に溢れかえっている。でも、そもそも「全てを比較検討して最善を選ぶ」は不可能だし、選択肢が増えるほど選べなくなるのは自然な現象だと思います。

人と人が関わること、それ自体が偶然性の高いものであれば、「何の仕事をするか、どの会社で働くか、誰と一緒にやっていくか」を一生悩み続けるより「どうやっていくか」を考えたほうが良いのではないか、という気持ちにもなりました。(もちろん、絶対に避けた方が良い選択肢というのも一定ある、という留保付きです。)

「能力」の呪い

次は、「能力」と呼ばれているものって何なのだ、という話です。この本を読んで一番思ったのは、「自分が得している物差しを疑うのはかなり難易度が高い行為」だ、ということでした。

「能力」と言われるものでも、「学力」=ペーパー試験の点数であり偏差値、と考える前提において、「学力」は自分にはとてもわかりやすいものでした。そして、その物差しで、自分は得する側にいたのでそれを疑うこともありませんでした。

勉強は好きで楽しかったし、やればそれなりに比例して結果が出たし、成績が良ければある程度好きなようにさせてもらえました。その状況で、「そもそもこの物差しで「上」にいることって、意味あるの?」と疑問を持つことは過去の私にはできませんでした。(数年前にそこに疑問を持ち始めて書いた記事がこちらにあります)

でも「しごと」をするようになってから、あまりにも必要な「能力」が多すぎて(特に他の人間と付き合っていくことが難しすぎて)、いつも「傷ついて」しまい、毎回限界になってもう3回仕事を辞めています。

「私は、『学力』という学校の中だけで通用する物差しでは『優秀』だったけど、実社会では『精神力』や『交渉力』『対人能力』がなさすぎる、『使えない、役に立たない』人間なんだ」という気持ちでさらに自分で自分を傷つけていました。

でも考えたら、「〇〇力」って何なのよ?結局?というところまでは、深掘って考えられていませんでした。それを突き詰めると、誰も見たこともないし、測定できるものでもない、曖昧なものだよね、という指摘がこの本ではされています。

「能力が高い/低い」ではなく、組み合わせの問題

そういった、「そもそも能力って何ですか」というところから話は進み、「そもそも個人の問題に帰結されている色々なことは、実は組み合わせの問題なのではないか」という指摘もされています。(引用の引用になってしまいますが)

善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。
(『エチカ(下)』岩波文庫、11頁)
組み合わせの良し悪しこそあれど、個に良し悪しはないのです。

『働くということ』p.104-105 (太字は記事作成者による)

この部分に、私はとても救われた気持ちになりました。
採用の場面などでは「スキルマッチ」とか「カルチャーマッチ」とか言われる気がしますが、もっと広い概念だと理解したので、「組み合わせ」と表現した方がしっくり来ます。

もし問題が「私の性格、人格」にあるのであれば、もう人生これ以上どうしようもないし、どこでも働けない、という気持ちになります。でも、「組み合わせ」に問題があったのであれば、まだまだできることはありそうです。

もちろん、何かうまくいかなかった時、仕事にしろパートナーシップにしろ、「もっとこうできたのでは?」と考えて、改善できるところはする、というのは大事なことだと思います。
でも「結局、組み合わせが良くなかったよね」に帰結することはとても多いのではないでしょうか。

ただしこの本では、そういった場合に「じゃあ違う人を選ぼう」とすることを推奨しているのではなく、「どうしたらこの組み合わせがうまく行くか?」という発想に変えていこう、ということも言われています。

まとめ

自分が思ったことをまとめるとこんな感じになります。

  • 人と人が関わることは、そもそもがかなり制御不能で偶然性の高いものだから、「ベストを選ぶ」ことに躍起になるよりも偶然の出会いを楽しむ、味わう、くらいの気持ちの方が良いのではないか

  • 学校にしろ仕事にしろ、何らかの形で「評価」をされ続けているけれど、そもそも物差しを疑ってみることも大事。「この物差しで「上」に行くことは本当に(自分にとって)意義のあることなのか?」立ち止まって考えてみたい。

  • 「個に問題がある」と考えるより、「組み合わせが良くなかったのでは」と考えた方が、これからの人生には役に立ちそう

「働くこと」「仕事をすること」に悩んでいて、巷のキャリア関係の本も何だかしっくりこないなぁ、と思ったことがある方には特にお勧めできる本でした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集