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【小説】嘘に満ちた世界で (サラとの1か月間~10日目~)

前回までの話
1. 傷に触れない (サラとの1か月間~6日目~)
2.時間の概念と隣町のコロッケ (サラとの1か月間~13日目~)

概要

元同僚のサラは新卒2年目にも関わらず、容姿と卓越したコミュニケーション能力で人脈を広げ、職場内での地位を確立してきた。高級ブランドのバッグ、アクセサリーを身につけ、上司だけでなく新興企業の経営者や有名デザイナー、御曹司を相手に会員制のレストランでの会食、イベントでの接待をこなす日々。多くの人間が羨む生活を送っていたかのように見えた。だが、突然の音信不通。仕事仲間や関係者を裏切るような形で、会社を辞めていった。

ぼくが彼女と再開したのは、近所の銭湯だった。そこで短い会話を交わしただけだったが、サラが人とのつながりに対して、大きな煩わしさを抱いていることに気づいた。ぼくと同じように。

彼女も共鳴するものを感じたのだろう。一時的な“居場所”として、ぼくのアパートに住み着くようになった。お互い、しがらみのない人間関係を維持するために深入りはしない。表面的で何でもない日々を過ごした。

これは、ぼくがサラと暮らした1ヶ月間のなんてこともない話。映画のように感動も緊迫もない。読み手に共感さえも持ってもらえないかもしれない。ただ、くだらない生活の記録として、ここに残している。


3


 隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。
 それは壊れかけのミキサーで氷を砕く音と似ていた。サラは発情期の猫が火薬を踏みつけた声だと揶揄する。どちらにしても不快なことには変わりない。舌打ちしながら、ぼくはベッドから身体を起こした。時計の短い針は“1”を指している。

 先ほどまで寝息をたてていたサラがいないことに気づく。
 青白いシーツはわずかに湿り気を帯び、さざ波のようなシワが広がっていた。

 水を飲みにシンクへ移動する途中、ベランダでタバコを吸っている彼女の後ろ姿を見つけた。グラス片手に、ぼくも欄干に寄りかかる。
「今夜も騒がしいね」と、サラはタバコをくわえたまま笑った。
 隣には父娘が住んでいるようだった。一度だけ娘と出くわしたことがある。彼女はランドセル姿でアパートの階段を駆け下りていた。あいさつをすると、ボソッとその場しのぎの返事をする。小太りで、襟のよれたシャツ。ろくに服を買ってもらえず、高カロリーの安価な食べ物ばかり与えられた結果なのかもしれない。身体に染みついた貧困と孤独。
 怒鳴り声の主はおそらく父親なのだろう。姿を見たことがないし、会いたくもなかった。
「虐待かな?」
 薄々と感じていたことを、ぼくは口にした。言ってから、大人として何らかの責任が発生するような気がした。たとえば、児童相談所に連絡するとか。
「さぁね」
 サラは肩をすくめた。
「“親と子”って、くだらないものよね」と、ブリキ製の灰皿にタバコを押し付ける。
 一筋の煙を残して、赤黒い火が消えた。
 サラの言葉の意味を考えてみた。どの時代も親子関係は大切にされてきたが、彼女にとってはどうでもいいものなのだろう。親子関係だけではない。彼女は友人や恋人、仕事仲間といった、あらゆる“人とのつながり”に価値を置いてはいない。
「目、覚めた?」
 サラはティーシャツの裾を引っ張ってきた。
「アイス、食べない?」と、イタズラを思いついた子どものような表情を浮かべながら。

 窓から差し込む街灯が、冷たいフローリングを銀色に照らしていた。アイスクリームを食べるだけなら、部屋の照明はいらなかった。ベランダから夜風が流れ込む。
 サラは冷凍庫からハーゲンダッツのミニカップを2つ持ってきた。ぼくにクッキー&クリームを渡す。彼女は片膝をついてストロベリー味の蓋を開けた。
 遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。隣人の怒鳴り声は止まない。うんざりする騒音の中、なぜかサラのアイスクリームを食べる音が耳に届いてくる。
 唇を開いたときの湿っぽさと、スプーンが歯に当たる音。
「こうやって毎晩のように起こされると仕事中、眠くなるんじゃない?」
 サラはボサボサに膨らんだ髪をかき上げる。憐れみよりも優越感のある口調で「かわいそ」と笑みを浮かべる。
 ぼくは返事をする代わりに口をへの字に曲げて、ため息をついてみせた。
「私みたいに辞めてみるのもいいんじゃない?」
 会社に縛られない状態を想像してみる。憧れはあるが、今の自分にはできない。たとえ無能だと罵倒され続けても、社会とのつながりが切れて、誰からも必要とされなくなるのは耐えられないような気がした。
 怒鳴り声が止んだ。
 事件現場を映し出す中継映像が断線したかのような、後味の悪い静寂が訪れる。
 誰かが文句を言いに来る前に、通報を受けた警察官が訪れる前に、喧騒は終わりをむかえる。
「小さい頃、こうやって夜中に甘いものを食べる夢をよく見ていたっけ」
 彼女は気にする様子もなく、街灯の光を反射させているスプーンを眺めていた。たしかに夜中に食べるアイスクリームは背徳感のせいか、いつもより甘かった。
「サラは、どんな子どもだったの?」
 ぼくの質問にサラは微笑み、目を閉ざす。訊かなきゃよかった。
 煩わしい過去やこれからの未来。人間像が浮き彫りになる話を彼女は望んでいない。
 あまりにも軽くて頼りない、夜空に漂う薄雲のような意味のない言葉を交わす。何にも縛られず、風が吹けば流れていく。ぼく達は、そんな関係性を保つようにしていた。

 仕事中、何度も眠気におそわれた。ゆったりとした睡魔が漂い、頭は発泡スチロールを詰め込まれたように軽くなっていた。
 でも、このダルさはいつまでも続かなった。サラからのイタズラで目が覚める。
編集部内の社員なら誰でも閲覧できるグループチャット。そこに、ぼくに向けて「寝不足だけど居眠りはダメだよ♡」という文章が送られてきた。
 退職して間もない彼女のIDは、まだ消されていなかった。突然、行方を眩ませて退職届を郵送してきた社員からのメッセージに、部内は騒然となった。
「お前、なにか知ってるな?」
 主任は顎を突き出し、見下ろしてくる。あまりの威圧感に返事をすることができず、ただ首を振ってこたえた。
 サラが会社に来なくなったとき、主任は何度も彼女の自宅を訪ねたが返事はなかった。心身に不調をきたしたのか、それとも何らかの事件に巻き込まれたのか。
 これまでの人懐っこく、楽しげに勤務していた様子から、ただ単に「人間関係が面倒になったから辞めた」という考えには至らないのだろう。
 電話、メール、メッセージアプリ。あらゆる手段で連絡を取ろうとしたが、なしのつぶて。主任が背負っていたサラへの心配が、ぼくに対する怒りに変わった心情も分かる気がする。
 だが、そもそもサラに他の社会人と同じようなコミュニケーションを期待するのは間違っている。
 彼女は、人との信頼関係やルールといった常識から解放されることを、心の底から望んでいた。自分がどうみられているか、他人へ迷惑をかけないようにするための言動など、ずぶ濡れの服のように不快で煩わしいだけだった。
「サ……彼女については、何も知りません。こんなイタズラをするような方だったのですか?」
 うっかり“サラ”と下の名前を出しそうになる。ごまかすために、いかにも迷惑だというように大げさにため息をついてみせた。
 怪訝と怒りが混ざったような低いうなり声が、主任から発せられた。
「ご存じのとおり一緒に仕事をしたことも、会話をしたことも、ほとんどないです」
「そうだよな……人事のタチの悪いイタズラかもしれないな」
 自分自身を納得させるように独り言を漏らして、立ち去った。彼の後ろ姿を横目で見ながら舌打ちをした。サラの悪ふざけ、主任の懐疑。
 ぼくは、いつも誰かに振り回されている。
 
 眠気は去った。だけど、サラからのメッセージ以降、オフィスにいる人たちの好奇と嫌疑の視線を背中で感じるようになった。
 いつもは夜中まで次号の調整や特集記事の企画書を作成するが、限界だった。スケジューラーを確認してから席を立つ。
「すみません、ちょっと今日は用がありまして……」
 誰からも訊かれていないのに、言い訳を口にして席を立つ。カバンを抱えて逃げるようにオフィスを離れる自分が情けなかった。


 オフィス街に夕陽が差し込んでいた。真新しい建物、剪定された街路樹、幾何学模様の石畳。全てがオレンジ色に染まっていた。高層ビルから吐き出された人の群れが、吸い込まれるように駅に向かっていく。彼らには働く場所があって帰る家があるのだと、認識させられる光景だった。定型化された生活の中で、蜘蛛の巣のように張り巡らされた人間関係に拘束されて生活している。サラと一緒にいると、そんな当たり前のことさえ忘れてしまいそうになる。

 アパートのドアを開けるとサラがキッチンに立っていた。背中越しに、桶のようなアルミ鍋が見えた。沸騰音と共に大量の湯気を吐き出している。
「あっ、早かったね」
 サラが振り向いた。
 鍋をのぞくとトウモロコシが4本、お湯に沈んでいた。薄黄緑色の皮の隙間から鮮やかな黄色の粒。
「大家さんに貰ったの。実家の農家から毎年送られてくるみたい」と、額についた汗の玉をキャミソールの裾で拭った。血色の良い頬に浮かんでいる“そばかす”のせいで、やけに幼く見える。会社勤めの頃はファンデーションで隠していたが、最近はメイクをしている様子がなかった。
「鍋も借りちゃった。ホントは茹でたのが欲しかったんだけどね」と笑って、小さな舌を出す。
 この笑顔で色んなものを手に入れてきたのだろう。起業家、プロデューサー、地主の息子からブランド物のバッグや希少なシャンパン、派手やかなバラの花束。職場の上司からは評価と役職を。仕事を辞めた今も、初老の大家からトウモロコシをもらっている。
「何分、茹でればいいんだろ?」
 大きな音を立てて沸騰している鍋を前に、彼女は腕組をする。
「事前に調べておけよ」と言った後で、サラはスマートフォンを持っていないことを思い出す。
「10分から12分だって。先に塩を入れておくと良いらしい」
レシピサイトに掲載されていた内容を伝える。
「へぇ、でもいつから茹でているか分からないんだよね」
画面を覗き込んでくるサラから、汗とシャンプーの匂いがした。

茹で上がったトウモロコシは、固くて少し青臭かった。
「大家さん、なんか言ってた?」
「えっ? なにが?」
トウモロコシから口を離して、サラは首をかしげる。黄色い粒が頬にくっついていた。
「いや、本当は一人暮らしで部屋を契約したのに……」
 最初、彼女は意味が分かっていないようだった。大きな目をぼくに向けたまま、咀嚼を続ける。
「あっ、あぁ、そういうことね」
 数秒経ってから、理解したようにうなずく。
「べつに一緒に暮らしているとは思ってないみたいよ。私たちのこと仲の良い恋人と思っているぐらいじゃない?」と缶ビールに手を伸ばした。
 音をたてて一気に飲み干すと、鎖骨の浮き出た薄い肩を上下させて呼吸した。
「大丈夫、そんな長くいないから」と微笑む。
ぼくは後悔した。「早く出ていってほしい」という意図はなかったが、誤解されてしまう言葉だと気づいて。
いつでも、いていいよ……と口にしようと思ったが、すぐに無駄だと気づく。
 あの日銭湯で出会ったタイミングが良かったから彼女は、ぼくのアパートに居座っているだけなのだ。小鳥が枝で羽を休めているようなもので、いずれ何のためらいもなく、飛び去っていくのだろう。未練もあと腐れなく。
 それがサラの魅力だと感じる一方で、湿っぽい寂しさが胸の奥で漂っていた。
一本目のトウモロコシを食べ終えた頃にインターフォンが鳴った。
甲高い電子音に尻が浮き上がるほど、驚いてしまった。普段この音が鳴ることは、ほとんどない。怪訝な顔をしているサラと目を合わせる。
「配達、頼んだ?」
 ぼくは首を振る。水道点検を装った詐欺まがいのセールスだろうか。それともパンフレット片手に信仰の重要性を説いてくる宗教勧誘だろうか。
 もう一度インターフォンが鳴る。
「すみません。隣のモノです」
弱々しい男の声。
毎晩、騒ぎを起こしている隣人が夕食の時間に尋ねてくる。良くない兆候であることは明らかだった。
「出るの?」 
サラは眉を思いっきりしかめて、嫌悪感を表した。
ぼくはため息をついて腰を上げた。
「すみません、あの……」
ドア越しからでは、男のこもった声がよく聞こえない。
チェーンをかけたままドアノブに手をかけたが、少し考えてから外した。いかにも警戒している様子を見せるのも気が引けて。
「どうしました?」
 口にしながら、彼の風貌に驚愕した。坊主頭の中年だった。背が低く樽のような体型をしていて、黒い半そでシャツから出ている太い腕には入道雲のような刺青が彫られていた。
偏見かもしれないが、あぁ、コイツなら毎晩騒ぎかねないな……という考えが頭をよぎった。
「リオ、娘をご覧……見てませんか?」
 ズレた日本語だが、彼が娘を捜していることが分かった。
「今日は見てないです」
 できるだけ関わらない方がいい。ドアを閉めようと思ったときに「いつもはこの時間に帰ってくるんですよ」と足を踏み入れてきた。タバコと汗、それと古い畳が混ざったような体臭に思わず顔を背けそうになった。
「すんませんが、一緒に捜してくれませんかね。頼る人がいないんです」と、男は膝をついて頭を下げた。
「俺、このところ娘にムカついて、殴ってしまって。ほんと後悔しているんです。戻ってきたら謝りたいんです」
 初対面に、ここまで弱みを見せられる人間も珍しい。坊主頭や刺青は、単なる強がりなのかもしれない。
「そんなこと言われても、その子がどこにいるのか見当もつかないので……」
 殴るほど怒りの対象となっている娘を心配している姿に、同情よりも滑稽さをおぼえた。憎しみと愛情は、こんなにも近い距離で存立するものだろうか。親の心情とは、そういうものなのだろうか。それとも目の前の男が単に変わり者なだけか。
「警察に相談してみてはいかがですか?」
 男は勢いよく顔を上げて、見開いた目をぼくに向けてきた。
「そっか……そうですよね」と口元に手をあてる。
「でも警察に迷惑をかけるのは、ちょっと……」
 ぼくらには迷惑をかけていいのか。連夜の騒ぎのこともあって、苛立ちが募る。
「児童館の近くにある橋の下で、たまに見ますよ」 
 いつの間にかサラが後ろに立っていた。キャミソール姿のまま腕を組み、男を見下ろす。
「そこは捜しましたか?」という言葉に、男は首を振った。
「アイツ、あんなところで何してんですかね?」
「さぁ」と、肩をすくめた。
「じゃあ、一緒に……」「急いだ方がいいですよ」
 男の懇願に被せるように、彼女は刺々しい声を発した。
「分かりました。行ってみます」
男は何度も頭を下げながら後退した。ドアが閉まる直前に隙間から、にやけた顔をぼくに向けてくる。
「カノジョ、美人ですね。うらやましいなぁ」
 ドアノブに手をかけて、力を込めて閉める。もう二度と来ないことを祈って。

 リビングに戻って、温くなったビールを飲みながら訊いた。
「ねぇ、橋の下で女の子を見かけるって、本当?」
 ぼくの質問に、サラはトウモロコシから口を離して首をかしげる。
「いや、俺は見たことがないから、その場しのぎのウソをついたんじゃないかって思って……」
「あぁ、そういうことね」
口角を上げて、見つめてくる。
「もう、どうでもいいことじゃない?」
 森に潜む湖のような瞳。一瞬だけ、背中に冷たい風が流れたような気がした。
「そうだね」
ぼくは彼女から視線を逸らして、2本目のトウモロコシに手を伸ばした。

 その日の夜から怒鳴り声が聞こえなくなった。掃除機やドアの開閉といった生活する上で、発する音さえも発しない。刺青の男も、あれから訪ねて来なかった。

週末、買い物帰りに道路からアパートの2階を見上げると、隣の部屋のカーテンがなくなっていることに気づいた。中は暗くてよく見えないが、家具や細々した生活用品も見えない。
「気にすることないよ」
 ぼくの様子に気づいたサラは、肘でわき腹を突いてきた。不意のくすぐったさに手に持っていたビニール袋を落とす。
「あー」と叫びながら、サラはしゃがみ込む。
「スイカ、割れちゃったじゃない」
大げさに頭を抱えていたが「まぁ、いっか。切る手間が省けた」と、ビニール袋を拾い上げる。
白いノースリーブのシャツを着たサラと袋の底に溜まった小玉スイカの赤い汁。その光景を曲がり角に佇むカーブミラーが映していた。
全てが眩しいくらいに鮮やかで、目が痛くなる。彼女は隣人に住んでいた父娘とは別の世界に存在している人間だった。
ハッピーエンドに向かって駆け抜ける青春映画のヒロイン。一方で隣人は、悲しみと苦悩を描いたモノクロ映画の名もなきキャストだった。別々のスクリーンで上映されているシネマコンプレックスのような場所に、ぼくは存在していた。
「なに? また、くだらないこと考えているの?」
「べつに……」と首を振る。
サラは立ち上がり、右耳に唇を近づけてきた。
「子どもの頃にサイテーな場所にいるのも……悪くないよ」と、ゆっくりとささやく。
日焼け止めクリームと、スイカの甘い匂い。
「あの女の子とは、まだどこかで会えると思うよ」
軽い足取りでアパートの階段を上るサラの背中は、空に浮かぶ入道雲と同じ色をしていた。

 5日後、ぼくは隣に住んでいた女の子と再び出会うことになるが、それはまた別の機会に書くことにする。児童館の近くにある橋の下。彼女とサラはここで小さな約束をしていたことを後で知ることになる。


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アメミヤ
リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。