【小説】意味を持たない海(前編) (サラとの1か月間~14日目~)
前回までの話
1. 傷に触れない (サラとの1か月間~6日目~)
2.時間の概念と隣町のコロッケ (サラとの1か月間~13日目~)
3.嘘に満ちた世界で (サラとの1か月間~10日目~)
概要
元同僚のサラは新卒2年目にも関わらず、容姿と卓越したコミュニケーション能力で人脈を広げ、職場内での地位を確立してきた。高級ブランドのバッグ、アクセサリーを身につけ、上司だけでなく新興企業の経営者や有名デザイナー、御曹司を相手に会員制のレストランでの会食、イベントでの接待をこなす日々。多くの人間が羨む生活を送っていたかのように見えた。だが、突然の音信不通。仕事仲間や関係者を裏切るような形で、会社を辞めていった。
ぼくが彼女と再開したのは、近所の銭湯だった。そこで短い会話を交わしただけだったが、サラが人とのつながりに対して、大きな煩わしさを抱いていることに気づいた。ぼくと同じように。
彼女も共鳴するものを感じたのだろう。一時的な“居場所”として、ぼくのアパートに住み着くようになった。お互い、しがらみのない人間関係を維持するために深入りはしない。表面的で何でもない日々を過ごした。
これは、ぼくがサラと暮らした1ヶ月間のなんてこともない話。映画のように感動も緊迫もない。読み手に共感さえも持ってもらえないかもしれない。ただ、くだらない生活の記録として、ここに残している。
古いドキュメンタリー映画を見ているようだった。
大量のビジネスマンが電車のドアからホームへ吐き出されていく光景。いつもは、ぼくもこの黒い流れに紛れて重たい足取りでオフィスへ向かっているはずなのに、その日は違った。
社会人になって初めてズル休みをした。
「インフルエンザとか、親の危篤とか休暇の理由なんて適当なこと言っておけばいいのよ。どうせ向こうは10秒後には忘れているんだから」
今朝、サラは寝ぐせを撫でながらぼくに仕事を休むことを要求してきた。
「良い天気だよね」と、ベランダから差し込む日差しに目を向けて。
3分の遅延を繰り返し謝罪するアナウンスも、忙しない靴音もなくなった。車内には埃っぽい静けさだけが残る。
スマートフォンも、文庫本も持たずに電車に乗るのは久しぶりのことだった。車窓に眼を向けると、一定間隔に設置された照明が窓の外に流れていた。
サラは座席に深く腰掛けて、真正面を向いていた。退職してすぐにスマートフォンを捨てた彼女は、電車移動での退屈を当たり前のものとして受け入れているようだった。
ぼく達は黙ったまま、車輪の音や車内アナウンスに耳を傾けていた。
時間を埋めるための会話を彼女は嫌う。ただ、自分が伝えたい言葉だけを口にするようにしていた。
「相手のご機嫌を取るための会話は、一生分やったよ」
ベンチャー企業の経営者や若手医師の会合。まだ24歳だったが、毎晩のように派手な社交界で愛想笑いを浮かべてきた彼女の言葉は、それなりの重みがあった。
終点を告げるアナウンスが流れると勢いよく座席から立ち上がった。
「こっからJRに乗り換えね」と声を弾ます。
サラと電車に乗って出掛けるのは初めてのことだった。
昨夜、サラは隣町のコロッケを食べながら「海へ行きたい」と言いだした。
「貝殻がほしいの。ピンクの」
理由を訊いても「いいじゃん、べつに」と教えてくれない。言いたくないのか、それとも単なる気まぐれでの発言なのか。
長いエスカレーターを上がり、地上ホームへ移動すると空が晴れていることに気づく。アパートを出たときは、月曜の憂鬱を表したような薄雲に覆われていた。
乗車すると窓から差し込む日差しにサラは目を細め、ブラインドを下した。
「海へ行くのは何年ぶりだろう」
独り言のように、口に出してみた。中身のない言葉だった。
サラは視線を自分の手元に落としていた。指先で爪を撫でながら、ゆらゆらと居眠りをはじめる。正面の車窓に目をやる。線路わきに佇む建物の隙間から光沢のあるシーツのような海が見えた。旋回するウミネコ。
海岸近くの駅に到着すると、サラは寝足りないといった様子で立ち上がる。大きなあくび。乗客がほどんといないから、周囲を気にすることもない。ホームへ降り立つと、穏やかな陽光を含んだ潮風が顔を撫でた。
改札を抜けて、焼けた道路を歩く。次第に波の音が大きくなり、潮の香が濃くなっていく。
「すごくバカみたいなこと言っていい?」とサラは目を細めて空を仰いだ。
彼女のまっすぐ伸びた鼻筋を眺めながら「いいよ」と返事をする。
「海って……広いよね」
「うん、大きくもある」
彼女のくだらない言葉に、こたえる。
こんなことを口にするのは、単なる気まぐれだと思っていた。
「広くて、怖くて、ときどき何でも受け入れてくれるような気がしていた」
「どういうこと?」
ぼくは足を止めた。
「小学校の5年か6年生ぐらいのときだったかな? 家に帰る途中、海に呼ばれている気がしたの。今も、そんな気がしない?」と、同意を期待するように顔を覗き込んでくる。大きな瞳は夏空を吸い込んで輝いていた。
「波の音が、そう聞こえなくもないけど……」
そんなことを思ったことはない。でも、無垢な彼女の表情に微かな恐怖さえ感じて、その場しのぎの同意をしてしまった。
「だから行ってみたの。少し冷たかったけど、進んでいく内になにも感じなくなっていった」
「海に入ったってこと?」
ぼくの質問に笑みを浮かべる。
「受け入れてくれているような気がしていたの。なにか別の……わたしの知らない誰かが、その先にいると思って」
小学生の女の子が灰色の海に向かって進んでいく様子を想像した。服を着たまま、迷いもない足取りで。
「どうだったの? 誰かいた?」
「いるわけないじゃん」と自嘲を帯びた声が返ってきた。
「途中で怖くなったけれど、足がつかなくなって、引き返すことができなくなっちゃったの。目も痛くて開けられないし、苦しくて……」
当時の辛い状況が蘇ったのか、胸に手を当ててゆっくりと息を吐く。
「でも、気がつけば少し離れた海岸にいたの。ずぶ濡れになって、靴もなくなっていて。家に帰ったら親に散々殴られちゃった」
サラの過去に、ぼくはどう反応していいか分からなかった。
「先月、慰労会があったの知ってる? 浜松町のレストランで」
「あぁ、でも俺は参加していないけど」
参加できなかった……という言葉の方が正しいのかもしれない。慰労会という名目で定期的に開かれているが社員全員が対象ではない。取締役が気に入った人間だけを選別して出席させる。A5ランクの和牛と希少なシャンパン。必要以上に広い会場では、最近フリーになった有名アナウンサーが司会を担当する。サラは、贅を尽くしたこのパーティの常連だった。光熱費の節約と労基のチェックから逃れるために、照明を抑えたオフィスで記事を作成しているぼくには関係のない世界だった。
「あの日、海の側にあるテラスが会場だったの。黒く嫌なニオイのする汚れた水がコンクリートで仕切られていて、わたしのことを呼んだ海とは全然違う感じがした」
彼女はため息をついた。
「なんだか海が社長の周りで媚びを売っている人たちと同じように見えて、わたしが小学校の頃に抱いたあの感情がバカらしく思えてきちゃった」
サラは周囲と同調して笑い、喜び、感動を装うだけの自分と決別するために会社を辞めた。この海沿いで行われた慰労会も退社を決意する要因の一つだったのだろう。
「コンビニでアイス買っていこ」と、サラは再び歩き始めた。
白いシャツに透ける華奢な背中が、どこか痛々しくみえた。多くの社会人が目を逸らして、やりすごしている“嫌いなもの”をサラは真正面から受け止めてきた。この小さな身体で、大きな自己嫌悪を抱えながら。
横断歩道の手前で彼女は立ち止まる。ぼくはティーシャツの裾が微かに触れる程度の距離を置いて横に立った。日焼け止めの甘い香りと、息づかい。
信号が変わる。
「今の話は忘れて」
サラはいたずらを仕掛けた子どものように笑うと、早足で横断歩道を渡る。
ぼくとの距離が少しずつ開いていった。
つづく