【小説】白い世界を見おろす深海魚 85章 (水色のマフラーの温もり)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
安田は自分が置かれた状況のプレッシャーから逃れるため、退職前に塩崎がデスクに残していった抗うつ剤を服用して、キャスト・レオへ謝罪に向かう。
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「少し違った方法だったけど、安田君は記事を書いたことで自由になれるきっかけをつかめたと思うの」
青田さんの声は乾いた空気の中で、微かな湿り気を帯びていた。
「たしかに会社に縛られた意識では、できないことですね。退職も覚悟しないといけないし……」
ぼくは苦笑を浮かべたまま、うつむいた。
「でも、俺のやったことって結局は御社にとって、なんの痛手にもならなかったんですよね? 考えてみれば、素人が短期間で書いた原稿です。しかも、部数の少ないマニアックな雑誌だから強い影響力があるとは思えないし」
それに、塩崎さんが救われたわけでもない。所詮は自己満足でしかなかったんだ。
「青田さんにも、ご迷惑をおかけしました。これで御社と弊社の関係も悪くなったと思います」
事務的に喋るぼくを彼女は見上げた。引き締めた口元からは、なんらかの強い意志が感じられた。
「……かもしれないね。でも、トップにはわたしから伝えておいたから。心配しないで。さっきも言ったけれど、キャスト・レオとしては安田君の会社に責任は求めない考えでいるよ」
トップと言われて、セミナーで見た背の低いおっさんを思い出した。青田さんは彼にものを言える立場なのだろうか。
「君は、これからだよ。強い意志を持って突き進めばいい。負けるなッ、青年」と、青田さんは片方の眉を上げて、ぼくの胸の辺りを指差す。
「わたし達の会社が〝踏み台〟と呼べるものになれたかどうか分からないけど、今回を機に安田君は新たなスタートが切れたんだよ。だからさ……うまく言えないけど」と、首に巻いていた水色のマフラーを外す。
「好きにするといいよ。これから先、安田君の進む道はちょっと大変だけど大丈夫。人生の先輩として、わたしが保障する。君は自分自身を表現できたのだから」
乱暴にぼくにマフラーを巻き付けた。ゴワゴワして温かく、いい匂いがした。
「寒いね……どっかお店にでも入ろうか?」
自分の言葉に照れ臭さを感じたのか、目をそらして話題を変えた。
「ラーメンでも食べに行こうか?」
ラーメン、という言葉を聞いて急に温かい食べ物が恋しくなった。でも、ぼくは行く気にはなれなかった。キャスト・レオへの憎しみと青田さんの温もりが胸のなかで混じり合って。ここで、彼女と良好な関係を保ったままでいいのだろうか、という迷いがあった。
塩崎さん……。
彼女の顔を思い浮かべる。できるだけ鮮明に、細部まで。
「行かないです」
組んだ自分の手元だけ見て、返事をした。しばらく間を置いてから「そう……」とつぶやく声がした。
「じゃあ、帰ろうか?」
ぼくはうなずいた。隣にいる人に対して、曖昧な感情を抱いたまま。
「わたしもね……」
タクシー乗り場へ行く途中、彼女は話しはじめた。
「将来やりたいことがあるの」
見下ろすと、照れたようにうつむいていた。
「取りたい資格があってね。お金も貯まってきたし、春からは仕事を続けながら学校に通おうと思っているの。本格的な研修が始まったら、会社も辞めなきゃならないけど」
エンジンで震えているタクシーの前に立ち止まる。ドアが開く。
「いやぁ、昔のカレの借金を肩代わりをしちゃったから、ここまで来るのにずいぶん時間がかかったよ」
膨れっ面をしながらも、おどけた目を向けてきた。
「安田君も、付き合う人には気をつけてね」と後部座席に乗り込んだ。
彼女のマフラーを通して吸い込む湿った空気が、胸の奥にしみこんできた。
「なんの資格ですか?」 と質問してみる。
「ん? 看護士だよ。小さい頃からの夢だったの。わたし、家の事情でロクに学校に行けなかったけど、どうしても諦めきれなくて」
欲望まみれの会社にいる人間が、命と真剣に向き合う仕事を目指していることに違和感があった。
「青田さんは、強い人ですね」
そう言うと「さぁ、どうだろう」と小首をかしげた。でも、自分にも他人にも真正面に向き合える人であるような気がした。
タクシーの中で、彼女はぼくの冷えた右手を握ってきた。どう反応していいか分からず、黙ったまま窓の外に目を向ける。でも、わずかな時間だけど、その温もりがこれから会社へ戻るぼくの気持ちを軽くさせてくれた。
つづく
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