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【エッセイ】14歳とパンドラの箱

この文章は誰に対して書いているのだろう?

読者のみなさん? 今の自分?

それとも過去の自分へ?

う~ん……多分……過去の自分へ?

それも定かではない。

あやふやで、不確かで、正直誰に書いているかなんてわからないけど、残しておきたいから書いている。

もし仮に過去の自分に向けて書くなら、10年くらい放置した箱を開けなくてはいけない。

他者に対しては見せたくない、パンドラの箱。

いや、人によっては”大したことないじゃん”って言う人が大半であろう。

だけど、僕にとっては大きな傷で、一度、僕という人間は姿を消した。

今もあの日のまま僕は世の中を彷徨い続けている。

内容が矛盾していたり、よくわからなかったら伝えてほしい。

自分のありのままの感情を文字に起こしているから、僕もよくわからないと思うけど…。だから解決は難しい。

御託はいいから、このまま本編に入ってほしい?

もっとスマートに皆さんに僕の世界を見せたかったのに、上手く行かない…

結果的にかなり長くなってしまいました。
お時間がある際に読んで頂けるとありがたいです。

*注意*この記事では東日本大震災について触れている描写があります。
その為、震災の事を思い出したくも、触れたくもない方は2章を読まない又は、ここから先は読まないほうがいいかと思います。
予めご了承のほどよろしくお願いいたします。



1章:何故怒られている?「幼稚園」

 一番古い記憶。怒られている記憶。

当時幼稚園に通っていた僕は、確かレクリエーションの時間に簡単にできる工作を作っていたような気がする。

それは長い新聞紙のような紙をクルクルと巻いて、先をとんがらしてチャンバラごっこのような遊びをするために作っていたのではないかと思う。

その遊びの最中に僕が同じクラスの子の目に当たったという冤罪をかけられている記憶。

もう20年も前だから詳細な事は覚えていないし、本当は僕が悪かったのかもしれないが、その時はやってもいないのに何故責められなければいけないのだろうと思っていたと思う。

引っ込み思案でしょっちゅう泣いて、誰にも声をかけられずに1人で遊んでいたような自分が、クラスでもやんちゃだった子供の事を傷つけられるはずがないと思っているのだがよくわからない。

当時の感情として、言われもない事で怒られているという事は覚えている。

2章:あの日の自分は輝いている「小学生~中学1年生」


最初は小学校も物凄く行きたくなかったことは覚えている。

小学1年生の間は毎日登校時間になると親に引っ張り出されて、毎日泣きながら登校していたような気がする。

少しずつ友達もできてきたのだが、勉強の学習スピードが他の人より確実に遅れていた。

だから、担任の先生とは別にサポートしている先生に教えてもらいながらなんとかやっていたような覚えがある。

そして、小学3年生の時に東日本大震災で被災する。

僕が当時住んでいた場所は宮城県仙台市。

2011年3月11日午後2時45分くらいだと思う。

丁度、ホームルームで帰る支度をしていて教室に座っていた。

そんな時物凄い、揺れが起きた。

あれほどの地震は人生でもう遭遇する事はないんじゃないかな。

一斉にクラスのみんなが机の下に隠れて、揺れが収まったら先生が校庭に避難しなさいと言われたようなことを覚えている。

僕がこれから話すことは、世間一般の人からすると間違っているのだろう。

実の母親にもおかしいと言われたので実績はある。

震災の以前から防災訓練だったり避難訓練を学校で受けていた為に、廊下では走らないでください、大きな声を出さない、静かに移動しましょう的なことを言われていたような気がする。

けど、震災にあってみるとクラスの生徒達は何一つ守れていなかった。

キャーキャーわめくし、廊下では走るし、みんながパニックになっていた。

僕はみんなと合わせているように動いていたけど、内心は人って面白いなぁと俯瞰して物事を観ていた。

まるで危機感はなかった。なんかすごい事はおきているのだろうけど、それは僕にとって未知の体験で新鮮だった。

あの日は3月なのに仙台では、珍しく雪が降った。

3時間くらい待って、両親が学校に来た。

1時間くらい校庭で待っていて、それでもこないから体育館で友達と話をしながら両親を待っていた事を覚えている。

家に帰ると全ての家具が下に落っこちてた。

時計、電子レンジ、本棚、テレビ、オーブンなど…

電気は止まり、ガスも止まっていた。

ライフラインが止まっていたから、外部の情報がラジオくらいしかないのだが、当時の僕には難しくてよくわからなかった。

2日後にテレビが復旧すると震災の映像がどの局でも放映されていた。

その時に初めて大変な事が起きたんだと実感した。

ACのCMがしょっちゅう流れていたことを覚えている。

震災とは関係なく親の仕事の関係で、岩手に引っ越しする予定は決まっていた。

小学4年生から中学3年生までを岩手で過ごす。

小学校の頃はなんとか勉強にもついていき、友達もできて順風満帆な生活を送っていた。

問題は中学時代だ。

僕がいた中学校は運動部9割、文化部1割みたいな学校だった。

その為、基本的に生徒は運動部に入るのだが僕は運動部の部活紹介でバドミントンがカッコいいなと思ったのでバドミントン部に入部した。

僕がいた学校は特に強豪校とかではなかったのだが、バドミントン部の同じ時期に入部した1年生が15人くらい居た。多すぎる。物凄く人気。

僕はなんとなく上手くいって、1部、2部があるとしたら1部で練習していた。先輩と練習したり、試合にも早く出させてもらった。

そして1年生の秋ごろだったと思う。

誰が言い出したのかわからないし、何故そういう雰囲気にあったのかもわからないのだが、当時女子バドミントン部と男子バドミントン部は混合で練習していて、女子バドミントン部の同じ1年生の子と僕がなんかいい雰囲気なんじゃないかってどこからか流れ出した。

あれはいまだに何だったのかもよくわからない。

僕は意識もしていなかったが言われたら、当然相手の事も気になるし、相手も僕の事を意識するようになる。

そして、1年生の冬に付き合う事になった。

だけど、幼稚園、小学校の頃からましになったとはいえ、臆病で人と話す事が苦手で、特に女性と何を話していいかどういう風にお付き合いすればいいかなんて知らなかった。

だから、デートもしたし、バレンタインはチョコも貰って、お返しに何故かチョコを作って渡した。

イベント事はしっかり行ったけど、その当時はスマホもまだ普及していなかったし、中学性に買い与えていた親は少数だったために、連絡手段がなかったのと、その子とは通学路が途中で帰り道が別々だったのと、僕が周りの視線を気にしてコミュニケーションをとれなかったなど、様々な言い訳はできるのだが、結局僕が悪い。これは100%僕が悪い。

会話が減少し、疎遠になって、付き合っていた当時の彼女が当然バッサリと髪をロングからボブくらいに切った。

その後の展開などお察しだろう。

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