乗り越えなきゃ…
俺が自律神経失調症を発症したきっかけは明確なんだ。
大学を卒業して入った会社で同僚だった先輩の死と阪神淡路大震災で
大阪の独身寮に住んでいた頃に大変可愛がって頂いた副本部長の死が悔んでも悔やみきれなくて…
もしかしたら、救えたかもしれない二つの命…
その悔やんでも悔やみきれない後悔を未だに引きずっている。
それは思い上がりかもしれないけど…
東京の先輩
先輩はとても自信家で後から配属された俺のことをライバル視していて、
結構強く当たられていました。
ところが、お互いに一緒に仕事をすることがあり、その先輩とも交流が生まれ、よく飲みに連れて行ってもらってました。
会議が岡山の工場で行われるときは、先輩の実家に泊めて貰ったり、先輩がお勧めするラーメン屋に連れて行って貰ったり、同じくクルマ好きなので、先輩が買ったAudiにのせて貰ったりと次第にお互い認め合う関係を構築していきました。
ある日、大阪本社で会議が行われた際に、その先輩が出張してきていて、自信家の先輩はいつもの通り、大きな声で事務所内で自分の営業実績を自慢気に話している姿を見て、別の部署の課長が、
「彼と同じタイプの人間を沢山は見てきた。そいつは結局、自ら死を選んだ」
「彼も同じタイプの人間で、脆い人間だから、同じ結果が見えている」
と俺にハッキリ言ったんです。
それ以来ずっとその言葉が心に刻まれていたのですが、実際どうしたらよいのか分からず過ごしていたある日、その先輩が無断欠勤して失踪する。
上司が東京に探しに行ったのですが、数日間見つからず、先輩が次に戻ってきたときはあの自信に溢れていた姿は微塵も見られない状態でした。
直ぐにその先輩は故郷の岡山の実家で自宅療養することになったのですが、
俺だけにほぼ毎晩電話が掛かってくるようになる。
その電話ではいつも決まって弱々しい声で
「俺、もうクビやろ?」
と毎回同じことを言っていた。
その度に
「大丈夫ですから、今はゆっくり休んでいてください」
と伝えていて、そのことは上司にも都度報告したが、
その上司は「もう、相手にするな」と言い放った。
そんな先輩とのやり取りも徐々に無くなっていた頃、突然、会社にその先輩が交通事故で亡くなったとの連絡が入りました。
俺は勿論、岡山まで行って葬儀に参列しました。
遺影を見ると感情が抑え切れず、人目を憚らず号泣してました。
しかし、その時どうしても腑に落ちない点が一つありました。
先輩のAudiが傷一つなくガレージにあったんです。
おかしいとは思ってましたが、総務からは先輩の母親のクルマで事故にあったと聞いていました。
それから、1,2年経ったとき先輩の居た東京の営業所に行った時、
先輩の上司代わりだった部長から、
「会社は隠しているが、あいつは母親のクルマで出掛けてとある橋から投身自殺をした」
と教えられました。
それを聞いた時、私は愕然としたのと同時にもう少し何か出来ることは無かったのか?と自問自答を繰り返していました。
結婚
先輩の死のことも、少し落ち着いたころ、上司から
「仕事も落ち着いてきたので、お前そろそろ結婚しろ」
と言われました。
丁度、ウナギの寝床で隙間風が入るような独身寮から早く出たいと思い始めた矢先でしたので、結婚することにしました。
しかし、嫁は取引先に在籍していたことも有り、披露宴をしても両方の会社の柵に巻き込まれそうだったので、それを避けるために、身内を連れてハワイで挙式して、披露宴は会費制の軽い感じの披露宴パーティーにしました。
独身寮に居た約4年間ずっと、父親代わりだったような副本部長にも出席をお願いし、大変喜んで頂いて快く快諾してくれました。
その副本部長は仕事は物凄く出来るのですが、酒癖が悪く、いつも一緒に飲むときは最寄り駅まで送り届け、別れる際は副本部長の奥様に毎回電話を入れて何処で別れたかを報告してました。
なので、披露宴パーティー当日も工場の先輩に俺がが送って帰れないので、同様にしてほしいと伝えていました。
最悪の結末
披露宴パーティーの翌朝、工場の先輩から電話が入り、副本部長が家に帰ってないとの連絡を受けました。
「あれだけお願いしたのに!」
と、工場の先輩に怒り、電話を切りました。
ところがその日の夕方に、工場の先輩から連絡があり、
「落ち着いて聞いてくれ…」
と重たい口調で話し出しました。
「行方不明の副本部長が披露宴パーティーを開いたホテルの近くの海で水死体で発見されたんや…」
俺は岡山の先輩を責め立てましたが、当然何事も状況を替えれるわけでもなく、失意のまま翌日出社しました。
事務所に入ると副本部長が座っていた席には大きな花が飾られており、それを見るのが辛くて職場を逃げ出そうと何度も思いました。
勿論、葬儀には参列したのですが、奥様より「お顔を見てあげて下さい」と言われて棺を除いた瞬間、押さえていた感情が爆発してしまい、泣き崩れました。
葬儀が終わって暫くしてから、上司に連れられて、副本部長の自宅に伺い仏壇にお線香を挙げさせて貰い、奥様には俺がちゃんといつも通りにしていたらこんなことにはならなかったと詫びました。
奥様はこれまで副本部長が帰宅されるときに毎回電話していたことを有難く思っているし、副本部長も俺の結婚を実の息子のように喜んでくれていたから自分を責めないで下さいと言って下さいました。
心が悲鳴を上げる
俺は僅かな数年間に深く関わった人を二人も亡くしたことの罪悪感は誰にも言えず苦しんだ。仕事は忙しく、日本国中だけでなく時には海外にも出張をしていたが、ふとそのことがずっと、心の奥底に刻まれていた。
「俺があの時…」
そんな後悔が、心の中にエンドレスで続く日々だった。
そしてその弊害が体に現れた。
いつの間にか不眠症となり、朝まで起きてそのまま出勤すると言う異常な日常が続くようになり始める。
当然、仕事は二人に抜けた穴を埋めるための激務。
先に疲弊したのは工場の先輩で、過多のストレスが原因で自宅療養することになる。
その先輩が復職後、俺も不眠症で有ることを告白した。
「お前も疲弊してるんや、どうしても辛い時はこれを飲め」
と抗うつ剤を渡された。
当時の俺は取引先とジョイントベンチャーで行う中国進出事業の切り込み隊長のような役割を任命されていた。
しかし、1回目の現地視察で、既に欧州のメーカーが先陣を切っており、時既に遅しという状況だった。
帰国後、その報告を行ったが、ジョイントベンチャーということで、お互いの役員が関わっており、引くにも引けない状況。俺一人の報告なんて闇に葬られた。
そんな状況で、2回目の中国出張が決まったので、俺は不眠症を解消するためにも藁にもすがる気持ちで工場の先輩に貰った抗うつ剤を服用した。
服用の代償
服用するとこれまでの不眠症が嘘みたいに睡魔が襲い、ぐっすり眠れた。
ところが、よく朝起きると思考能力は低下。更に呂律が回らなくなってました。
2回目の中国出張に出発する寸前だったので、上司と相談してその時初めて心療内科を受診する。
ところが、家の近くの心療内科で
「それは単なるサボり病です」
とろくに診察のされずにぼろくそに言われる。
その後、母親に神戸に良い病院があると言われて恐る恐る受診したら、
その先生は私に何も聞かず、目の動きを確認しただけで、
「今までよく頑張ったね。もう頑張らなくていいよ」
と優しく言葉を掛けてくれた。
その瞬間、救われたと思った。
だが、それが悪夢の始まりだった…
自宅療養
直ぐに半年間の自宅療養生活が始まり、電車に乗れなくなったり、引きこもりになったり、夏の暑い日に、体温コントロールが出来なくなって布団をかぶって寝てたり…
あの半年は悲惨だった。
実際、人間が極度に辛いことがあると記憶が無くなるというが、その半年の記憶はぼんやりとしかない。
左遷
その後、職場復帰するけど、出社して驚いたことが…
半年間休職している間にクーデター的なことが勃発して、それまでいた幹部連中が根こそぎ辞めさせられていて、上層部の顔ぶれがガラッと代わっていた。
所属していた部署も同様で、入社してからずっとお世話になっていた本部長も例外ではなかった。
俺は新しい本部長に病気のことがあって、目の敵にされた。
当時は『パワハラ』って言葉が無かったので、そんなことがまかり通った。
ある時、上司に呼び出され、本部長と3人で話をした。
転勤の話だった。
東京か工場の2択だった。
当然、営業から離れたくなかったので、東京を選択した。
しかし上司は強引に工場を推してきた。
その上司というのは自殺した先輩から電話が掛かってきたときに
「もう、相手にするな」
といった張本人。
結局、そいつの一言で俺は工場に行くことになった。
当時の俺にとってそれは屈辱的なことだった。
工場に行った俺はさらに壮絶なパワハラにあった。
更に子会社への転属、そこで待っていたのは、日雇い労働者がするよう力仕事。
これまでのプライドをズタズタにされるどころか、パートのおばはんにでさえ、
「そんな仕事をしていてもいい給料もらっていいわね!」
と馬鹿にされる日々だった。
結局、それに耐えきれず、左遷後約1年で退職。
俺は今でも事の発端になった上司お陰で、その後の人生を大きく狂わされたと思っている。
ただ無駄に生かされているだけ
その後、何度も転職繰り返すが、病気が完治するわけでもなく、転職を繰り返すとブラック企業にしか出会わない”負のスパイラル”にはまった気がして、生きる望みすらなくして、いつしか、
『俺はただ無駄に生かされているだけ…』
って思ってた。
昔は通勤で朝、駅のホームに立っているとき、
『楽になりたい…』
と思い、電車に飛び込もうという思考が湧いてきたこともあったけど、結局そんな勇気はなかった。
『生かされていることが辛い…』
自分で死を選べないなら、不慮の事故に出も巻き込まれてとも思ったこともあった。
本当にあの頃は”生きている”ことが辛かった。
朝、目覚めることが怖かった。
本気でこの世の中が終わって欲しいと思った。
そして、いつしか人と関わるのですら、嫌というか、うまく入り込めない時期もあった。
高校時代から付き合いのあった奴も俺が病気に甘えていると言って、馬鹿にしていた。
だから、そういう奴とは関係をゴッソリ断ち切った。
それも”逃げ”かもしれない…
病気に逃げている
よく言われるのが、
「病気に逃げてばっかりいて…あなたはまだ恵まれている。世の中にはもっと大変な人が一杯いる。」
そんな言葉を他人からだけではなく、身内からも言われ続けてきた。
確かに世界を見渡せばそうかもしれない。
でも、それって心を病んだことの無い人だから言えること。
何度か自分を押し殺して、病気に甘えているという奴とも付き合おうとして無理した時期もあったけど、結局苦しくなって、心無い言葉にまたメンタルが左右されるくらいなら、無理して付き合わなくてもいいと思った。
「お前のことを思って言っている…」
という奴に限って、自分の持論を展開して、相手の言葉を拾おうとはしない。
自律神経失調症になって見えてきたこと
悩みを持っている人の心の闇の深さは計り知れない。
だから、俺は相談を受けたら持論を展開せずに、言いたいことを言わしてあげるように聞き役に徹する。
そうすることで、その相手が楽ななるならとも思うし、その人が何かその状態から脱出してくれるヒントを掴んでくれたらって思う。
結局、そこから這い上がらるのも自分次第。
誰も助けられない。
環境を変えるには、自分を信じて行動を起こすしかないし…
俺は約二十年間病気で苦しんだ。
特に俺は三十代の男として大事な時期である十年を棒に振った。
でも、それって後悔しても帰ってこない。
それを後悔するよりも、残りの人生を如何に過ごすかってことに離婚してから特に重きを置くようになった。
それはこれまで生きてきた時間より圧倒的に短いけど、
『だったら、悔いなく生きてやる!』
って、何処かで思ったんだ。
俺のアイコンにしているラオウの画像。
ラオウが最期に…
『我が人生に一片の悔いなし』
と叫んで、天に召されるシーン。
あんなカッコよく最期を迎えられたら最高!
って、いまは思って前を向いて歩み始めてる…
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