社会に対する怒り。
丙申…自分にとって広がる日だ。そんな日にこの記事に出会った。
外は快晴で、青い空に心地よい日差しが差しているというのに、心の中は核を突かれたように、ドスンと重いものがあり、雨が降っているようだ。
小さい頃から、社会に対する怒りが強かった。その怒りは、成人になった今でも、心を蝕んでいる。深い怒りや憎しみには、深い悲しみと痛みがある。この悲しみと痛みとの向き合い方と、癒し方をまだ知らない。
社会に対する怒り、それは、自分にチャンスを与えてくれないから、それから、もっとよく見ると、自分に自分でチャンスを与えることができないから。
障害者雇用を見ると、同じ仕事なのに、給料は健常者の半分、だなんてざらだ。
耳が聞こえないことを伝えると、じゃあ無理だね、と言われる。耳が聞こえない人ができる仕事をすればいいじゃない、と心ない言葉を十代に言われたこともあった。
それから、耳が聞こえることが当たり前、という普通でできた社会のシステムに、頼ることも、甘えることも、したくなくなった。
何をしても、耳が聞こえる人の手を借りなければならない、という、環境や状況はいつだって、心を傷つける。それは耳が聞こえない人としてなのか、それとも、自分という人間としてなのか、分からないプライドで。
音のある世界と、音のない世界を行ったり来たりする。音のある世界が楽しい時間というのは、大体自分だけの時間である時。人が関わると、途端に楽しくなくなる。
社会のシステムに対する怒りを、人に向けないように自制している。けれども、人と接するたびに、切り離せない存在であることを知る。
聞こえる世界に20年、聞こえない世界に3年。長年の癖で、聞こえる方に意識が入ってしまう。そこにロールモデルはいないというのに。
聞こえて、動けるというのは、特権がある。羨ましい限りだ。生まれた瞬間に、ロールモデルがあり、情報保障があり、人の手を借りなくても、電話ができる。会話ができる。運転免許が取れる。
自分にはロールモデルがいない。だからこそ、どう生きたらいいか分からない。0から1を作り出すのは、果てしない労力だ。聾学校でさえ、耳が聞こえる人が先生をしている。耳が聞こえない人はどこにいるのだろう。霧に包まれたかのような存在だ。
見えないから、ない、というのは違う。見えないから、ない、のではなく、見えていないだけだ。自分もそうなのだろう。見えてないことばかりだ。だけれども、見えてないことを、見えるようにするには、どうしたらいいのだろう。
社会のシステムに対して、怒りを持つのは、労力がいるし、疲れる。できることなら、憎しみも持ちたくない。同時に持ち続けることで、プライドを保っているような気もする。自分という人間なのか、前世の魂の記憶なのか、分からないけれども。
詩を書く原動力にも皮肉なことに。
ただひとつ分かるのは、何が起きても、決してブレちゃいけない。ブレたら、傷つく。相手までも巻き込む。