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日記 9月21日 土曜日 人生の試練

 晴れ まだ暑い。
朝はパン1枚、昼は昨日自分で作った野菜としらたきの炒めもの。
夜は友人と飲み。
職場時代からの仲、リラックスして話せる。
場所が小田急相模原で前の職場近くなのでもう既に懐かしい気持ち。まだ辞めて一ヶ月しか経ってないんだよなぁ。。


たまに自分の弱さについて嫌気がさす時がある。
人間誰もが弱いのだけど、人それぞれその弱さに向き合わなきゃいけない試練みたいなものがくる。
その試練は大概余裕で勝てる気がするものだ。
お酒が試練の人は飲まなきゃ良い話。
借金癖が試練の人は借りなきゃ良い話。
博打が試練の人はやらなきゃ良い話。

人の試練は難敵を打ち倒すことではなく、実は余裕で勝てそうな敵に負けないことだ。
みんな最初は楽勝だと思い込み、余裕で勝てるはずの試合を負けてしまうのだ。
なぜだろう。
それは試練の本質が「勝てると思わせる」所にあるからだ。
専門的に言えば依存症である。
世間からはお医者さんと薬でなんとかしろで片付けられる。
しかし当事者たちにとってはそんな簡単な問題ではない。
そもそも自覚症状が無い。
記憶喪失なのかと疑うほどいつ自分が沼に自ら足を踏み入れたかわからないのだ。
どこで気持ちのラインを引くべきかがまずわからなのだから、自分がいつ病気になっていていつ病院に行くべきか、どれくらい重症かがわからないのだ。
依存症はデリケートなので日常に相談する相手も中々いない、だから既に狂ってる自分の感覚だけを頼りに生きることになる。
自分では勝てると思い込むがいつも負けてしまう。そして敗因が何なのかがわからないのだ。
自覚するには自分の中のこの敵はまず勝てる相手ではないということを知ることであり、大事なのは勝つことではなく負けないことであることを学ぶことだ。
どんな偉業を成し遂げた人でも、それを運命の試練に打ち勝ったと勘違いして本当の試練に挫かれる人は多い。

最も強い敵に勝つことではなく最も弱い敵に負けないこと、最も大きな難題を乗り越えることではなく最も小さな易問に挑み続けること、最も大きな結果を残すことではなく最も小さな過程を経ていくこと。
現象的な試練と本質的な試練の違いはここにある。

 何かをやめるということは簡単なようで実は難しく、それはゴールのないマラソンや登山をするが如くである。
大事なのは少しずつやめていく段階を定めていくことだ。
お酒ならまず自分はもうお酒の誘惑に勝てないと知り、一日ずつ止めること、止める為に必要なものを知ること。一歩ずつの精神を心掛ける。
沼に陥ってる時はいつでもやめれる(勝てる)と思っていて、でもまたやっちゃった。あれ?まぁいっかーくらいの感じなのだ。
いつでもコイツには勝てると思う誤りが最初の試練の段階であり、まず自分は勝てないと知ること。そこから始まる本当の試練の道は地味で簡単でとても険しい。
ただそれをやらなければ良いだけのとても簡単な話だが、それはとても険しい道なのだ。
死ぬまでずっと襲ってくる誘惑に、一日ずつちゃんとやらなかった(負けはしなかった)ということを記録すること。僕はそれを心がけなければいけない。
人生は宿命付けられた試練だ、その試練はとても簡単だが、ラクではない。
生きるだけなら衣食住が揃っていればそれで達成しているが、人生となると人はしなくて良い過ちを犯し、苦しまなくても良い苦しみを経験する。
難しい何かをやるより簡単な何かをやめるという事の方が遥かに険しいことであり、生きる本質はそこにあるのだ。