ぼくの美しい人だから/恋愛短編
あたしは菱田さんが好きで好きで好きすぎて、どうしようもなくて、8月のめっちゃ暑かった土曜の夜、菱田さんのアパートへ押しかけた。菱田さんの好きないいちことえびせんとブラックサンダーいっぱいコンビニで買って。
ブー・・・「はい」
「こんばんわ、前野です」
いた、よかった。
8秒ほど間があったけど、菱田さんはドアを開けてくれた。
夜10時。お風呂入ったあとの先輩は髪が濡れててめちゃセクシー。
菱田さんと仲良くなったのは、喫煙室で司馬遼太郎について話したのがきっかけだった。
慎吾くんが好きでー、大河ドラマの新選組見てるんです、んで、内容をもっと知りたくて、司馬遼太郎の「燃えよ剣」上下読みましたっ。へー、君みたいなギャルが司馬遼読むの? ひっどーい、ギャルじゃないですよう。司馬遼だったら僕は竜馬がいちばん好きだな。竜馬がゆく? そう。8巻ぜんぶ持ってる。あたし読みたいです、よかったら貸していただけませんか。
竜馬がゆくからはじまって、国盗り物語、坂の上の雲、海音寺周五郎とか三島由紀夫とか。倉橋由美子とか江戸川乱歩とか。国語の時間いつも寝てたあたしにはつらい修業だった。
燃えよ剣だって読むのに半年かかったんだよ。でもでもっ。前野由梨はやっぱりアホな子って菱田さんに思われたくないのであたしは好きなドラマ見るのやめて睡眠時間けずってがんばって読んだ。ふつうの小説が終わると外国の小説、詩集、それが終わると心理学っていうの? そういう本。グルジェフのなんとかってやつとかわけわかんない系。
むずかしくて頭いたい、菱田さんあたしをいじめてあそんでる? って怒ったら笑ってスラムダンク貸してくれた。
読んでるうちに、本のおもしろさがわかってきて、夢中になった。会社の休み時間も読んでた。菱田さんはたまに私のフロアに来て、次の本を届けに来てくれた。ついでに仕事のわからないとこ訊いたりして。
言葉と韻律の世界、これは菱田さんの世界、24時間菱田さんの世界につつまれてる夜寝てるときも。
あたしはサリンジャーが好き、村上春樹が好き、菱田智信が好き。
菱田さんも吟醸酒とかいっぱい出してきて、酒盛りは続く。
会社のあいつとあいつが嫌いとか、そんな話で盛り上がる。
これは盛り上がる。
目覚まし時計が12時を指す。菱田さんが沈黙する。
怖い怖い怖い。
あたしは居ずまいをただし、本題に入る。
「菱田さん・・・あのっ。いま、付き合ってる人とかいますかっ」
長い沈黙。
「いや、いないけど・・・」
「あたしっ、ずっと前から菱田さんのことが好きで・・・だからっ、・・・あの・・・」
怖い怖い怖い怖い怖い怖いこの間
「ごめん。実は少し前、あるひとに告って、ふられてさ」
!!
「だから、その・・・そういうことは、今は考えられない」
うわさは、ほんとだった。
新藤恵子さん。私の斜め前の席の、やさしくてきれいな先輩。
酔いが醒めた。完全に醒めた。
両の目玉から水があふれ出る。
「じゃあ、じゃあ・・・あたしが彼女になってあげる。そしたら、ちょうどいいじゃないですか」
なんちゅうイタイことを言うあたし。
「ちょっと今は、そういうことは考えたくないんだ。ごめんね」
ジャア、ナンデ、アタシヲココニイレテクレタンデスカ?
あたしは醜く泣き続けた。せっかくの化粧もはげてほんとにひどい顔になってたと思う。
あたしは本棚の手前に飾られている、一冊の文庫本を指さした。
「じゃあ、お詫びにあの本ください」
「ごめん、あれはダメだ。他の本だったらいいよ」
「あれじゃなきゃいやです、あの本ください」
菱田さんは困った顔であたしの顔をじっと見ていたが、ついと立って、本棚からその本を取り出して、あたしに差し出した。
それを合図に、あたしは菱田さんのアパートを辞した。
ぼくの美しいひとだから。
今も私の本棚に並んでいる。
いまだ読んでやったことはない。