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「ジストニア」の男性が、2021年の東京パラリンピックでの演奏など、叶えられた夢とは?

こんにちは、翼祈(たすき)です。
私は楽器全般が弾けないことで、例えばみんなで、楽器を演奏するテストの時も迷惑をかけていました。

小学3年生の時かなんかにリコーダーのテストがありました。数名のグループで、音を出して、テストを受けるものでした。

私も弾いていましたが、誰が聞いても、明らかに一人だけ遅れているのが分かる位でした。そのことで、私のいるグループだけ合格ができませんでした。

同じグループの女の子から、「●ちゃんがリコーダーを弾けないから、私のグループだけ、合格するまで昼休みの時間もない。だから演奏しているフリだけして欲しい」と言われて、再テストの時に、手だけ動かして、音を出さず、弾いているフリをすると、何とか合格することができました。

子どもながら、足を引っ張っていることが恥ずかしかったです。

この記事では、私が罹患している病気ではないですが、ある病気を抱えながらも、ピアノの演奏を続ける、ピアニストの男性の話となります。

2024年8月2日、「ジストニア」という病気を乗り越えて動かせる様になった7本の指で演奏活動を続けているピアニストの西川悟平さんが、2024年5月に吹奏楽部と共演したことをきっかけに、福岡県太宰府市にある日本経済大学を訪れ、大学内でコンサートを開催し、表現力のある演奏をしました。

ピアニストの西川さんは、23年前に神経の病気「ジストニア」を発症した影響で左手は動かせる指が親指と人差し指に限定され、右手と合わせて7本の指だけで演奏活動を続けています。

今回は、ピアニストの男性が「ジストニア」を発症していても、叶え続けた夢について、発信します。

「ジストニア」を発症する男性。発症後も続けたピアノの演奏で、叶えた夢とは?

学生や大学関係者およそ150人を前に演奏を披露したコンサートでは、曲の間に西川さんがトークを披露し、病気で指が動かせなくなった時の想いや夢を叶えたいと活動を続けた結果、2021年の東京パラリンピックの閉会式で演奏を披露できたことなどを語り諦めずに前向くことの大切さを言葉にしました。

西川さんは、
常識で考えて無理だと考えることであっても、叶えたい気持ちがあればできることが結構ありますし、新しいことにチャレンジする際に、しないで後悔するより勇気を出して前に進んで頂きたいです
と学生たちにそう声をかけていました。

参考:病気乗り越え7本の指で演奏 ピアニストがコンサート 太宰府 福岡 NEWS WEB(2024年)

コンサートでは吹奏楽部の学生と一緒に演奏を披露する場面も見られ、共演した4年生の男子学生は、「今までの苦労とか、今後の未来への想いを感じられる様なピアノの演奏で、とても心に響きました。また西川さんと是非ご一緒したいです」と述べました。

全く楽器が弾けないのに、

小学生の時は、割とチャレンジャーでした。小学5年生だったかと思いますが、楽器を体育祭や、朝の集会などで演奏をする、クラスの楽器委員に手を挙げて、入っていました。

自分の中で、楽器に触れてみたいという想いがあったからでした。

特に、木琴や鉄琴の柔らかい音が好きでした。

それでも、生徒をまとめる先生も、「この人ならこれならできそう」というものしか振らないですよね?そのことで、私はミスしても演奏に支障が出ない、太鼓とかを軽めに演奏したりとか、そういう楽器を担当することが多かったですね。

楽器委員だった年の体育祭では、応援でグロッケンシュピールを弾いたこともありました。憧れの1つでもあったグロッケンシュピールですが、やはり一人だけ遅れを取ってしまう。しかも体育祭なので、両親とか他の人のご家族が多くいる場所。ズレて弾いているのが、誰かにバレないか、ヒヤヒヤしながら、弾いていました。

私は子どもの頃からピアノやギターを演奏することに憧れがありました。

特にピアノはその当時流行っていた歌を歌いながら、弾いてみたいという憧れもありました。

友達でピアノを習っている人が多かったので、私も習いたかったのですが、習えませんでした。

大人になって、母に「小さい頃からピアノ、習いたかったんだよ」と言っても、私が当時、そう思っているとは知らなかったみたいでした。

結局楽譜も読めなくて、小学5年生の楽器委員でも苦労したので、ピアノもギターも憧れがあっても、弾けなかったかもしれませんね。

今はほとんど音楽は聞きませんが、楽器が弾けなくても、手を挙げて、楽器委員になるほど、昔から音楽が好きだったんだなと感じた、子どもの頃の経験でした。


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