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2024年新春、子ども・若い世代に伝えたいこと(その2。人生は一本道ではない。そして、挑戦できる人間はより応援したくなる)。【エッセイ】【社会貢献】



 「人間としての、最低限度の大学」、冷静に考えれば誇張的な表現だけど、当時の自分的には、正直とても悔しかった。でもだからこそ、「悲しみ、痛み、悔しさ」が理解できる自分に慣れた、といまは思えている。


 (今回のnote記事は、(その1)と同様に、「想像以上にとても長く、乱文になっている」ですし、文章のつながりがよろしくない箇所も正直あるかなですが、「趣旨」「伝えたいこと」が伝わってると、とても有難いです。
 それを踏まえた上で、読み進めて頂けると、より有難く思います。)




 (←「2023年2月1日」の「社会貢献#5A」のnote記事、つまり「ちょうど1年前、「2023年版」の「受験シーズンのあなたへ」的な意味合いのnote記事です。)


 (←「2023年3月31日」の「社会貢献#6A」のnote記事。「2023年版」の「#新生活をたのしく」のnote記事です。「強くなるより優しくなりたい」を信念とするある少女の考え方への強い共感、これを基に、「好きなこと・長所を何か1つ育むこと」「優しさ・思いやりを育むこと」の大切さを伝える内容です。)





 今回のnote記事。そう、「ほんとうに書きたい、伝えたいと強く思っていたこと」を、この(その2)で綴ります。というか、「書きたいことの大枠のイメージ」は、もともとあった訳です。
 ですけど、どのように書き出そうか、どのように話と話をつなごうか、これがなかなかできなくて。

 そのような中で、急遽で執筆させて頂いたのが、(その1)でした。
 そう、あの、「芦原妃名子さん(セクシー田中さん)の一連のこと」は、1人の人間として、とても悲しいと感じますし、「書かずにはいられない」と感じたと。

 (その1)で綴ったこと。これは正直、「綴りながら改めて学んだ・感じた」感じでもありますけど、

 ・「『ほんとうに仕事ができる人間』とは、『一緒に仕事がしたいと思える人間』である、それは『仕事に対する姿勢』に惹かれる人間といえるのでは?と。では、この『仕事に対する姿勢』とは、仕事に対する『プロ意識・使命感・責任感』であり、『誠意・敬意・情熱』(特に「相手がある場合ならばなおさら」)であること。」

 ・「何かひとつのことをやると決めたならば、最後までやり遂げようとする姿勢、そのためには『誠実さ』があってこそと考える。
 特に、チームで取り組む場合、それこそ企業・役所・NGO/NPOとかでならば、『1つのプロジェクトに取り組む』ことを経験するだろうと想像の感じだけど、その際、『チームとして、心を1つにする、同じ方向を向き続ける』ためにも、まず最初に(つまり、初顔合わせの際に)『押さえておきたい約束事とか、共通認識とかを(恐らくいくつかあるだろうと思われるが)共有しておく』ことが大切であると考える。」


 趣旨(主旨)としては、これを書きたかったのです。

 あの悲劇から、2週間近くが経過していますが、騒動が収まる気配は正直ありません。この文章を綴ってる時点での昨日(2月8日木曜日)に、「出版社(小学館。『会社として』『編集局として』の連名で」「脚本家」がそれぞれ、コメント(釈明文)を発表して、騒動の1つのクライマックスを迎えた、と映っていますが、この騒動、最も大切なことは、


 「今回のような悲劇をもう絶対に繰り返さないようにするには、何ができる・何が必要であるのか?
 そして、今回起きてしまった悲劇から、何を学べるのか?」


 これであると自分は思ってるんですよね。尤も、2週間近くが経っても、「騒動が収まる気配がない」理由には、「責任の所在がはっきりしない」こと(これについては、「テレビ局(日本テレビ)の制作側・特に芦原さんの唯一の窓口になっていたプロデューサー陣」が「責任の所在として、最も重い」がはっきりしてきたといえますし、最終的には「局として何らかの調査結果を公表する→謝罪する[程度はともかく、非を認める1択はもはや明らかでしょう]→NEWS ZEROで、何らかのコメントを出す[かつての「TBSビデオ問題(1996年)」では、NEWS23で「TBSは死んだに等しいと思います」という名言に発展しましたが]、になるのではと読んでますが)、これが1つにあります。

 それと共に、恐らくですけど、「メディア・映像・制作の業界の『構造的な問題・欠陥』」を浮き彫りにした、ともいえます。(その1)で自分は、
 「これってどこかで見た景色だよね?そう、2004年、プロ野球のいわゆる『球界再編』騒動での、最終的に『史上初めて(かつ唯一)のストライキ行使』に発展したこと、これと似た感じになってるよね?」
 と綴りましたけど、これって

 「いまの日本社会、より深く述べれば、いまの日本社会の大人の『醜さ』を浮き彫りにしている。」

 と、自分は思っているのです。そう、今回の芦原さんの一連のことは、この「日本社会の大人(特に、いわゆる「社会を動かしている上層部」)の醜さ、の一端である」と思っている、これって裏を返せば、「一端に過ぎない、ともいえる」と思っているのです。



 だからこそ、強く感じるのです。確かに、「大人は醜い、大人は人間を簡単に裏切る」、そういう人間が現実に存在することは、悲しいですけど否定はできません、自分もそのような存在を目の当たりにしてきて、嫌な思いをした経験もありますから。
 ですけど、です。この一方で、

 「とても素敵な、とても魅力的な、とても尊敬できると思える大人だって、あるいはとても尊敬できると思える、あなたと同じ若い世代や10代(中高生とか)だって、実はたくさんいるんだよ!」

 も、併せて伝えたいのです。

 実際、自分自身、「人生の最大の転機になった」こととして、「2011年、27歳のとき、東日本大震災の復興支援活動に参加させて頂く機会を得て、東北を訪れたこと」であると、これまで何回か言及させて頂いてますけど、「人間不信」であった自分にとって、「尊敬できる、一緒に仕事ができるとより素敵であると思える人間に、何人も出会えたこと」が、自分自身の生き方・価値観を、「それこそ、自分自身がとても驚くほどに、」一気にがらりと変えた感じですから。

 そう、「どこに、どんな出会いがあるのか、どんなきっかけがあるのか、わからない」、これは自分自身が実際に、大人になって学んだことです。
 そう、自分でも驚く、気付かないところに、「転機」ってあるのです。
 ですけど、この「転機」は、地道な努力なしにはやってこない、努力できる人間にこそやってくることだよ!とも、自分は強く感じてます。



 で、話を戻しますと、そう、いま、世間の話題は、「芦原妃名子さんの悲劇」、未だこれのほぼ一色といってもよい訳ですけど、これ、視点を変えれば、この時期でだと、
 「プロ野球のキャンプのこと」、自分は「野球ファン」でもありますので、そりゃあとても気に掛かりますけど、「今年はこの選手、くると思うよ」とかの話題が、現時点ではほとんど全くありません。尤も、もう少しすれば、「紅白戦」とか「練習試合」の時期になるだろうの感じですので、さすがにこの3連休以降では、徐々に話題になっていくだろう、と思うのですけど。

 昨年のいま頃は、「田中幹也(中日。遊撃手/二塁手。昨季は大卒1年目)が、とにかくいいよ、長所である走塁・守備能力は勿論、打撃の確実性の面でも、結構通用できるんじゃないかな?」と、ほぼ連日、どこかの媒体で話題になっていました。尤もこの田中幹也、オープン戦の最終盤で大怪我をしてしまい(右肩の脱臼)、最終的に「シーズン全休」になりましたが。
 (正直自分は、昨季、中日が「数字以上にとても苦しみ続けた」理由の大きな1つは、「1年目から1軍の重要戦力として見込めたであろう田中幹也の、開幕直前での大怪我で、『構想が根底から狂ってしまった、それを最後まで修正できずじまいに終わった』ことが大きいのでは?」と思ってます。「20盗塁を見込めて、一定以上の水準の遊撃/二塁守備を併せ持つ、しかも右打者だから、対左投手に怯える必要がない」、そのような選手自体がとても希少価値があるので。)
 今年も、「この選手がいいよ!」という話題に出会いたい、これが正直な気持ちなんですよね。


 で、いまの世間の話題は「芦原さんの悲劇のこと」一色であること、これによる弊害の1つとして、「プロ野球のキャンプのこと」もですけど、尤も野球のことは、「娯楽のこと」ともいえるのです。
 ですけど、そう、弊害の1つとして、



 そう、いまリンク添付をさせて頂いてますけど、今年の元日に起きた、「能登半島地震」。自分はこれ、「能登大震災」と表記した方がいいんじゃないか?と強く思っていますが(というのも、「阪神・淡路大震災」や「熊本地震」の「およそ5倍の大きさ」といわれているからです。ちなみに自分は、小学4年生のときに、西宮で、「阪神・淡路大震災」に実際に被災経験があります)、NHKや大新聞(読売・朝日・毎日とかでの「全国紙」)では、能登半島地震を結構なウェイトで取り上げていますが(NHKの「ニュース7」に至っては、ほとんどの回で「トップ」で報道しています)、社会的な関心という意味では、「ほとんど取り上げられていない」感覚です。はっきり述べれば、「まるで他人事」、とても悲しくなります。

 実際、ツイッター(X)のトレンド欄では、能登半島地震のことは、ほとんどあがってきません。そう、自分が、東北に向き合い続けることを通して学ばせて頂いた

 「物事を、『自分ごととして考える』。」

 これができている人間が、現実はまだまだ、とても少ないんだなあ…、と考えさせられます。

 かくいう自分自身、本来の専門は、「野球」「バスケットボール」とかの「スポーツ」の分野です(こうして「書く・伝える」ことを通して、自分自身が「ほんとうに得意なこと」が見えてきた感じでもあります)。
 ですけど、1人の人間としては、「社会のこと」、特に自分は、「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」という「2つの震災」が、「自分自身をかたちづくってきた」と強く実感していますので(はっきり述べれば、「東北に向き合う」転機がなければ、いまの自分はいないと断言できます)、「子ども・教育」「いのち・人間」「防災・災害」のことは、「ずっと向き合い続けたいこと」であるのです。


 …そう、「異なる分野にも目を向ける」ことは、自分が「気付けなかったこと」「忘れかかっていたこと」に気付かせてくれる・学ばせてくれる
 高校生、1回目の大学生(実は自分は、大学生を2回経験してます)のときに思い描いていた姿とは、正直異なってますが、「自分にできるペースで」ということを含めて、いまの自分は、「『自分が持っている長所・資質能力をより活かせる』意味では、これでよかったのかも」と正直感じてます。

 …というか、自分は大学受験で、「とても不本意な結果に終わった」「精神的にズタボロになった」ことは、いままでも述べてきましたし、恐らくこれからも言及させて頂く機会があるでしょう。そう、自分は、第1志望校に失敗したことが、そもそもの回り道に、大きく影響していると感じてます。



 いまは、例えば「メディア・マスコミ業界」の場合でだと、徐々に緩和されつつあると伺っていますが、自分の大学受験のとき(2003年)は、
 「ジャーナリスト・ライターになりたいならば、『関関同立』に辿り着けなければ、『門前払い』」
 の時代でした。それがいまでは、




 いま、リンク添付させて頂いた、ABC(朝日放送。大阪のテレビ局)の、鷲尾千尋アナウンサー。「関西外国語大学からの入社」です(2021年入社、つまり現在「3年目」)。自分の時代では「あり得ない」でした。

 勿論、鷲尾さん自身の努力が届いた(伝わった)から、が大きいですし、「笑顔がとても素敵」で、「華がある」んですよね(尤もこの「華がある」こそ、「主観的な概念」であるのですが)、それは正直あるかなです。
 加えて、鷲尾アナの場合、入社の志望動機として「ABCは『M1グランプリ』を主催しているから、お笑い番組に携われると思ったから」(←入社後も、実際に公言している)と、これも「熱意の現れ」といえるでしょう。
 ですけど、これらと共に、「社会状況の変化という後押し」も、正直あったと映ってます(この場合は、「プラスの意味で」ですが)。


 そう、自分の1回目の大学時代(京都産業大学。いわゆる「産近甲龍」)。大学の教職課程の担当の先生から(その先生には、何かと懇意にして頂いていました)、あるとき、偶然にも1対1にならせて頂く機会があって、その際にこう言われたことがあります。

 「おまえ(実際には名前で呼ばれている)が、『子どもが大好き』『いじめに苦しんだ経験を活かしたい』『子どもの心に親身に寄り添いたい』、この想いを人一倍強く持っていることは、先生にもとても伝わっている。
 でも、その一方で、『【なり方がわかる】のが【教員】であるから』ということも、正直あるんじゃないか?いや、『他の道では、なり方がわからないから』といった方がいいかな?」


 「子どもの心に親身に寄り添える先生になりたい」
 この想いは、当時、ずっと抱き続けていました。
 実際、1回目の大学時代で最も読んだ本の種類は、「いじめ」「不登校」「学級崩壊」の関係の本でしたから(勿論、主専攻である政治学の本も、たくさん拝読させて頂きましたけど)。

 ですけど一方で、当時の、この先生の言葉。
 「あっ、図星だ…」と正直感じたんですよね。


 そう、自分の大学受験は、そもそも

 「経済力・精神力の両方で、あなたに『浪人』はさせられない、とにかく『現役』で受かれるところに行って欲しい。」

 と、はっきりいわれていました。自分の場合、「現役だけど、第3志望校への進学」でしたけど、これが大きく影響しています。
 で、第3志望校への進学が決まり、報告できたとき。勿論、『おめでとうではありましたけど、その直後に

 「『人間としての最低限度の大学』に辿り着けて、ほっとした。」

 これもいまも、強烈に記憶してます。そう、
 「人間としての最低限度の大学」というパワーワード(ちなみに自分は、「私立の中高一貫の男子校」でした。いまは共学になり、自分のときからは「結構なイメージチェンジ」に成功していますが)。

 実は、冷静に考えれば、「関関同立」で「全体での15%~20%」、「産近甲龍」で「全体での20%~25%」くらいのレベルではあるのです。
 これってそれぞれ、小中学校での学級の成績・立ち位置に例えれば、
 「関関同立」で「5位~7位相当」、「産近甲龍」で「8位~10位相当」。

 自分は、小学5年生・6年生のとき、立ち位置的には「5位~7位くらい」でしたので、そのときよりは少し落ちたかもだけど、でも「事故ったことを考慮しても、特段に落ちた訳ではない」のです。


 どういうことかと申しますと、自分は、大学受験のとき、学びたい分野として、「教育学」と「政治学」で、ぎりぎりまで熟考していました(最終的には、絞り切れなかった)。
 当時(2003年)は、「環境学」はできたばかり(関西学院大学の「総合政策学部」が、これに該当ではあった)、「防災学」は分野自体がなかった、「スポーツマネジメント学」は「運動能力に優れる人間が行くところ」の時代だった(かつ、どこかの球団職員になりたい場合は「親会社の天下り」のほぼ1択、の時代であった)、これらも正直、影響しています。
 (仮に、いまのように「防災学」「スポーツマネジメント学」の道があれば、恐らくそちらを選んでいた可能性は充分にあるだろう、と自分は思ってます。)

 加えて、関西圏の場合、政治学って「法学部」なんですよ。関東圏とかでは「政治経済学部」がありますけど(早稲田大学、明治大学など)。
 そう、「政治学」、特に日本政治をより深く理解するためには、実は「経済政策」とかに触れると、より望ましいですので(1回目の大学受験での「心残り」の1つが、実はこれです)。

 で、自分の時代は、「推薦入試で勝ち取る」方法が、特に関関同立レベルでだと、「指定校推薦」の1択でした(AOが全くなかった訳ではないが、まだできたばかりで「申し訳程度」)。
 で、自分の場合、「数学・理科がとても苦手」(特に数学は、高校2年生のとき、「0点」を2回食らってる)、「運動能力がない」(故に体育は「よくて3」)、「手先が極端なほどに不器用」(美術、家庭は「苦痛・地獄でしかなかった」)、ですので「指定校推薦」は「ノーチャン」でした。



 かつて、『テストの花道』というEテレの番組があって、ある回で、「ゆーき(倉益悠希さん)」が

 「5段階評価で、どれほど努力しても『3.8』『3.9』しかとれない人間がいる、そういう人間って『指定校推薦、AO推薦』の恩恵にあずかれないから、報われない、理不尽である、と私は正直感じてます。」

 という趣旨のことを仰ってたんですよね。これにとても共感で。
 (ちなみに、この「ゆーき」、『テストの花道』の生徒では「中心人物の1人」でした。番組の過程で、特に英語が得意になり、最終的に「現役で上智大学に進学」、進学後は留学を経験した、と伺ってます。「ボブヘアと笑顔が魅力」で、『テストの花道』の生徒では、実は最も大好きでした。
 ちなみに、「現役で上智大学に進学」って、「いや、めっちゃ賢いってことだからね?」と思ってます、そう、「ゆーき」って、「人一倍の努力の人間」と感じていて、だから「ずっと応援したい」と思えたのかなと。)

 そう、自分自身、この「物理的に、5段階評価の評定平均が『3.8~3.9』」に、まさしく該当でした(実際、最終的にそうだった)。
 「AO推薦」の場合は、「3.8~3.9でも、合格は可能」であることが少なくない、とも伺ったりですけど、自分の時代は「AO推薦」の道がゼロに等しかった感じですから。


 …って、話が脱線してきていますが、そう、自分が

 「『【なり方がわかる】のが【教員】であるから』ということも、正直あるんじゃないか?いや、『他の道では、なり方がわからないから』といった方がいいかな?」

 「あっ、図星だ…」というのは、そう、「子どもの心に親身に寄り添いたい」「悩んでいる・悲しんでいる子どもの気持ちは、自分ならばわかる」、この想いに嘘はない!、そう強く思う、でも一方で、

 「『関関同立』に落ちた(届かなかった)時点で、ジャーナリストの道は、事実上絶たれていると同義である。」
 (当時はそうであった。そのため、「ジャーナリスト」の道を諦め切れない場合は、「関関同立、あるいはこれと同等以上レベルの学校の大学院への進学」を目指すの1択でした。
 実際、最終的に自分は、2回生のときからは学業成績がトップ級であったこともあって、「他校の大学院」への進学を目指しました[なお失敗。で、ここから4年間、自分的にいう「暗黒時代」に突入になります。)

 これも、正直ありました。ちなみに最終的には、関関同立の中の、ある大学院への進学を目指して、それで失敗したのですけど(特に苦手の英語は猛勉強で、面接には辿り着けた)、「学歴ロンダリング」という表現が実際にあります(この意図があった訳ではないが)。自分的には、シンプルに「キャリアアップ」「目指せる道を拡げたい」「学部の生活で、やり残したことがあると感じたから」が、大きな理由でしたけど。
 いまでも、悔しさはずっと残っていますし、いつの日か、機会があれば(資金がネックではありますが)、大学院で2年間、「学ぶことに特化できる時間・空間が欲しい!」の想いは、正直強く抱いてます。
 (いまは、「書く・伝える」道と、歩む道が明確になったこともあり、あくまでも「いつか可能になるタイミングが来れば」の域を出ませんけど、資金面でクリアになったりなどで「いける!」になれば、「大学院で2年間学びたい!」想いは、正直とても強いです。)

 と申しますのも、自分自身、子ども時代から、「『責任感』『正義感』が人一倍強いと、自他共に認める人間」でした。これに加えて、「社会をよりよくできる一助に」という意識も、中高生のときから(漠然とですが)強く抱き続けてきました。
 これを活かせる道は?ということ、これで導き出したのが「2つ」。
 「警察官」と「ジャーナリスト」。ただ、「警察官」は、持っている資質能力的には「合う」といえるけど、「運動能力が皆無」であることが「最大の障壁」でした。
 (より厳密には、「身体を動かすこと自体は好き」だけど、これを「スポーツとして活かす能力は全くない」でした。ちなみに「スポーツ」は、子ども時代からずっとですけど、「観る」ことは大好きだけど、「する」能力は全くない、でした。)
 そうなると、「ジャーナリスト」になる。「素敵なことは素敵」「おかしいことはおかしい」、それができる仕事であるからと。

 そう、大学受験のとき、自分の念頭にあった道は「2つ」でした。
 「教員(中学校の社会科)」と「ジャーナリスト」。
 で、学びたい分野は、「教育学」と「政治学」。
 そう、「教員」と「ジャーナリスト」、「教育学」と「政治学」、それこそ



 「ヒトツダケナンテエラベナイヨー」だったんですよね。
 いまだと、「リベラルアーツ」(分野横断的に学べる道)があるので、「リベラルアーツ」という道があるならば、その方が自分的にはより望ましかったのかもしれません、でも自分の時代では、少なくとも関西圏では、「リベラルアーツ」という道はなかったですので。

 そう、大学受験で「失意」の結果に終わり、「ジャーナリスト」、つまり「書く・伝える」の道は、事実上絶たれた。
 いま振り返って、あのとき、そのような自分を「見透かしていた」のかどうかは、正直わかりません。ですけど、「教員」と「ジャーナリスト」、どちらも自分にとっては「なりたい道」であったけど、より向いていてそうな道といえば、「ジャーナリスト」であるとは、(漠然とですが)感じていたことも、正直な感じです。



 …そう、自分は、「回り道」の人生でした。もし、「思い描いていた道」に近い感じでできていたならば、どんな景色に辿り着けたのだろう?と、「悔しさ」の思いは、ずっと苦しみ続けてます。この「悔しさ」は、恐らく一生癒えることはない、そう強く感じます。
 で、いま、自分は「天王寺」が職場です(いまはフリーランスで、「コワーキングスペース」や「カフェ」が職場ですけど)。自分も「私立の中高一貫校」の出身ですし、天王寺はそもそもが「学生の街」ですけど、そう、「名だたる私立・国立の学校」、それこそ制服姿で、「どこの学校で学んでいるのか、わかるでしょう?」と誇示する人間が集う、といってもいいほどです。
 そのような人間に囲まれることは、「刺激」でもあります、実際に自分自身を成長させてくれる原動力の1つでもありますから。でも一方で、「悔しさ」でもあるのです。

 ですけど一方で、「回り道」を余儀なくされたからこそ、いまの自分がいます。「失ったこと」が少なからずあることは否めません、ですけど、「回り道」「挫折」を余儀なくされた自分だからこそ、「わかる景色」がいくつもある、その意味で、「むしろプラスと思える」と、いまでははっきりと言えます。そう、「人間として『深み』を与えてくれた」、これは「回り道」「挫折」を歩まざるを得なかったからこそできた景色だよと。


 で、いまリンク添付させて頂いた記事。「模試がA判定連発で、『負けるはずがない』で本番を迎えたのに、本番(それも第1志望校のとき。数学で)で生理が起きてしまい、持てる全力を出し切れなかった」とのこと。

 実は、自分も似た経験をしています。


 「年明けの元日、インフルエンザで1週間寝込むを余儀なくされた(予防接種をしていたのに!)。」

 「本番の初日、第2志望校のA日程のとき(模試ではほとんどA判定だった)、『絶対的な生命線』である日本史で、模試でも全く経験しなかった『大失敗』になってしまった(ちなみに当日は雪。自分は『雨・雪のときは、頭の回転が一気に悪くなる傾向がある』が、それがもろに出てしまった。加えて日本史で、唯一といっていいほど苦手である『原始時代』で精神的に動揺したこともあったかもと)。」
 (加えて、熟考の末、「1.5次」に相当する「B日程」を回避していた。あとで聞くと、自分のA日程のときの点数は、「B日程だと合格できていた計算」であったとのこと。「B日程を回避の決断」は、ずっと後悔し続けていますし、「この後悔は恐らく一生消えない」と強く感じてます。)

 「第1志望校のとき、英語の傾向ががらりと変わり、それに最後まで全く対応できずじまいで終わったこと(英語はもともと苦手。そのため、傾向に頼らざるを得なかった面があり、これがなおさら自分には不利に作用してしまった。
 ちなみに第1志望校は、最もよかったときで「30点ほどの差」、最も悪いときでだと「80点ほどの差」と、散々な結果で、特に英語は「思い出したくもない」でした。ただでさえ、第1志望校は、得意の日本史の配点が他校よりも低かったので、それも自分には不利でした)。」


 いまでは、特に有力私立の場合は、伝統的に存在する「エスカレーター式」に加えて、「AO推薦を目指す道」も存在しています(AO推薦を勝ち取りたいならば、「高校の入学の時点から、『AO推薦を勝ち取る戦いは、既に始まっている!コツコツ地道に積み上げられる人間が報われるための受験方式なので!』」といえます)。
 実際、自分が住む関西圏では、「エスカレーター式」(大学附属の中学校・高校)を目指す人間が、増加傾向の一途です(正直自分は、これは「当然でしょう」とおもってます、「資金力さえ許せば」の注釈付きにはなりますが)。

 …って、こうして書いてますと、「ああ、自分、感傷的になっているなあ…」と、我ながら感じます。
 「回り道・挫折を余儀なくされたからこそ、いまの自分がある」、これも正直な実感です、結果として「自分らしさ」の形に出会えたと感じられているのは、「回り道・挫折」を経て、特に「東北に向き合う」機会を得たことや、「ラブライブ」(「オタク」である「ほんとうの自分」に出会えたこと)との出会い、「バスケットボール」という「夢中になれること」に出会えたこと(同じ趣味を持つ人間との出会いは、視野を広げる一助になりますから)、とりわけ「東北に向き合う」機会は、回り道をして、「もう1回、大学生をし直そう」と決断できたからこそ、が大きいですので。
 そう、「回り道・挫折は、自分にはきっと必要だったんだ」と、いまははっきりと実感してます。

 でも一方で、「回り道・挫折を余儀なくされた悔しさは、恐らくずっと消えないんだ」とも実感です、「なりたかったけど、なれなかった自分」を突き付けられると、そりゃあ正直悔しいですよ。


 ですけど、「回り道」「挫折」を余儀なくされた自分だからこそ、「東北に向き合う」という「転機」に出会えた。で、「転機」は、自分自身の「生き方」「価値観」を一気に変えてくれた、それこそ「自分自身がとても驚くほどに」。
 そう、「人間として大切なこと」を学べたことの多くは、「東日本大震災」、「東北に向き合う」を通してから始まった、とはっきりといえます。

 尤も、そう、自分自身の「心の原点」は、「阪神・淡路大震災」と「いじめ」の2つですけど、自分自身が「自分らしさ」「ほんとうの自分」を見出していけたのは、「東日本大震災」、およそ2万人の犠牲のもとにある、これは正直、とても申し訳なさがあります。ですけど、「ほんとうの自分」を、徐々にだけど出会えていけたから、いまの自分がある。
 それと、中高生のとき、1回目の大学生のときに、ほとんど叶えられなかった、「ほんとうの心の青春」、これが「27歳になってから」、いわば「とても異色」ですけど、「異色である自分」を、いまでは「誇れること」と感じてます。

 「誇れること」でも「とても悔しいこと」でもある、確かにこれは、ある種「矛盾していること」かもしれません、でも、どちらも正直な感覚ですし、どちらの感覚も感じているからこその「いまの自分」であるのです


 そう、高校生のときに思い描いていた姿とは、異なる感じではあるけど、「書く・伝える」ことで生きていく、自分自身が「学んできたこと」「積み上げてきたこと」「持っている資質能力」を最も活かせる道であるから
 それに、自分の場合、よくも悪くも「自分のリズム」で生きる人間です、これも「回り道」「挫折」を経験したからこそ、学べたこと。その点、「書く・伝える」という道は、「社会をよりよくできる一助に」「『好き』『問題意識』を発信・表現できる」「自分のリズム・ペースでできる」の3つができる、といえるのです。

 自分が出会った言葉の1つに、

 「フットボールは人生である」
 (ヘスス・スアレスさん[スペイン人のサッカージャーナリスト。『ワールドサッカーダイジェスト』の「THE JOURNALISTIC」、スペインの欄より。)

 がありますけど、これって「言い得て妙」であると思っていて。
 実際、いま自分自身、バスケットボールの生観戦であったり、昨年(2023年)でだと、陸上の日本選手権(開催地が大阪[長居]でした)の生観戦の機会を持ったりでしたけど、そう、特にスポーツを生観戦させて頂くと、「息づかいを感じられる」といいますけど、走っているときだけではない、振る舞いや言動の端々とかに、「その人らしさ」を垣間見ることができる、それを感じられたときに、自分自身が「生きる希望」「生きる勇気」をもらえるんですよね。



 …と、このような感じで、ここまでで既に、想像以上に結構な文章量になっている感じですけど、そう、「『回り道』『挫折』を経験した自分だからこそ、伝えられることがあるし、自分自身を成長させてくれたと実感できる」、形は違うけど、「人間の心の悲しみ、痛み、悔しさを知っている」、これは自分自身の「長所」であると感じてます。

 で、「能登半島地震」のことが、社会(世間)的には、ほとんど話題になってない(報道では「ある程度とりあげられている」とは感じてますが)、ということから、話を膨らませた感じですが、「能登半島地震」のことが、社会的には「他人ごと」のような雰囲気に映っていること、自分は、とても悲しい気持ちでいます。

 そのような中で、です。1月28日日曜日、「とても素敵な記事」に出会いました。



 「能登に留学してた高校生」「気仙沼で語り部をしてる高校生」、チャレンジ(挑戦)し続ける姿勢」がとても素敵だし、「あなただからこそできる架け橋」、とても応援したい!





@06_nanay

能登で地震があり壊れた町ばかりがネットに溢れているのを見て綺麗な能登も皆さんに知って欲しい、そして綺麗な能登を思い出して欲しい、という思いではじめました。ぜひ覗いて行ってください。 #綺麗な能登を知って欲しい #能登 #高校生 #青春

♬ オリジナル楽曲 - 雀 - 雀


 1月28日日曜日。「Yahoo!ニュース」や「X(ツイッター)」で、偶然に出会ったこの記事。
 いまリンク添付させて頂いたのは、「能登にいた高校生」さん(記事では「あおい」さんと表記。高校2年生の女子です)の、「withnewsさんの記事」「インスタグラム」「TikTok」です。

 記事の文章、いくつかを引用・抜粋をさせて頂きます。



 友人たちと階段を駆け上がった先に、夕焼けに染まる海が広がる――。

 「能登で地震があり、壊れた町ばかりがネットにあふれているのを見て、綺麗な能登も皆さんに知ってほしい、そして綺麗な能登を思い出してほしい、という思いで始めました」

 そんな文言とともに、「能登にいた高校生」のTikTokアカウントで投稿された動画。
 投稿したあおいさんによると、動画は昨年11月、あおいさんが通う県立能登高校から歩いて5分ほどの海辺で撮影された夕焼けの風景。

 動画は広く拡散され、13万件以上の「いいね」がついています。
 コメントには、「応援しています」と復興を願う声や「また行きたい」「素敵な場所ですね」と多くの声が寄せられました。

 あおいさんは
 「投稿したときは、『きれいだな』と少しの人にでも思ってもらえればと考えていたので、ここまで多くの人に見てもらえると思っていませんでした」
 と話します。応援のコメントを読み、
 「動画を出してよかったなと思っています」


 東京都出身のあおいさんですが、高校2年生の1年間、在籍校とは違う地域の高校で学ぶ「地域みらい留学365」の制度を使い、昨年4月から県立能登高校に通っています。
 「いろいろな価値観に触れたかったのと、好きなカメラに触れる時間を作りたかった」と留学の理由を語ります。

 能登半島地震が起きた1月1日は、冬休みで東京の自宅に帰省中でした。
 東京の友人から「能登、大丈夫?」と連絡が来て、地震の発生を知りました。

 テレビでは津波に関する情報が流れ「普通の地震とは違う」と感じ「ちょっと怖かった」。
 その後SNSで情報を集め始めると、学校近くの鳥居が崩れている様子が映し出され「こんなにやばいんだ」と言葉を失いました。
 能登の友人たちとも連絡をとりましたが、中には通信状況などで数日間連絡が取れない人もいて、「それが一番心配でした」。


 数日前まで日常だった能登での生活が一変している様子を、東京という離れた土地で知る日々。

 「現地にいないので、できることが本当に少なくて。支援物資を送ろうかと高校にも聞きましたが、能登高校には物資が届いているから大丈夫と言われて……」

 「12月まで能登にいて、こんなにいい街だと私は知っています。でも、街が壊れた写真ばかり出てきて、『能登が怖い』というイメージになっちゃうんじゃないか」
 と心を痛めたそうです。

 「自分には何ができるのか」と苦しんだなか、ふと思い浮かんだのが、能登で撮った写真や動画でした。
 「きれいな能登を知ってほしい」と、普段からカメラやスマートフォンで撮りためた写真や動画をSNSに投稿することにしました。

 (中略)

 「何げないことが印象的で、とにかく楽しかった」と能登での生活を振り返ります。

 (中略)

 21日から始めたTikTokとインスタグラムでの投稿は今後も続けていくつもりだといいます。
 現在はオンラインで能登高校の授業を受けているあおいさん。今後はまだ見通せないといいます。

 留学の間、本当に楽しかった。残りの留学生活がどうなるかは未定ですが、このまま終わりじゃなくて、自分の得意な写真などを、いかしながら、これからもずっと関わっていきたいと思っています

(https://withnews.jp/article/f0240128001qq000000000000000W07n10201qq000026585A)
 (2024年1月28日、「withnews」さんの記事、「〝能登にいた高校生〟が投稿する美しい風景 『自分にできることは』」より引用・抜粋。)


 そう、この12月までの9か月間、能登で学んでいた高校2年生の、あおいさん(ここからは基本的に、「あおいさん」と表記させて頂きます)。
 記事、インスタグラム、TikTokを拝読させて頂いて、「とても感動で、気が付けば涙が止まらなくなっていました」

 (自分の場合、「インスタグラム」は「もともと『見る専』」。写真や動画は、撮ることも撮られることももともと苦手だからです。「情報収集のため」の感じでもあります。
 で、「TikTok」。自分は、SNSは基本、ほぼ専らPCからですので、それもあって「TikTok」はいままで完全ノータッチでしたけど、この記事を拝読させて頂いて、TikTokを登録させて頂きました[はっきり正直に述べれば、「あおいさんが感じてきた世界を、自分も共に感じたい」ためだけに登録した、の感じです]。)

 で、あおいさんの、インスタグラム、TikTok。
 「感受性がとても豊か」「純粋、まっすぐ」「根が優しい心の持ち主」
 これがとても伝わるのです。

 震災が起きて、「自分には何ができるのか」と考えたこと。
 そう、「『自分にできること』を考えられること自体が、とても素敵なことだよ!」と伝えたいです。


 「現況、実状がどうであるのか」、これも勿論大切なことです。自分も正直、どちらかといえばそうです。
 ですけど、いやだからこそ、「その場所(今回だと、能登)が本来持っている特徴・魅力を知って欲しい」、これってとても大切であること。
 うん、いわれてみれば、「なるほど、そうだよね」と。
 「気付かなかった視点に気付かせてくれる」意味でも、とても素敵だなと正直感じます。

 そう、「『どのように』復興に導ければいいのか」、この「どのように」を考える意味で、「その場所の本来の特徴・魅力」を把握できないと、「絵に描いた餅」「やりっぱなしで、誰得になるリスク」になってきます。
 その意味で、

 「あおいさんが発信する『写真(インスタグラム)』『動画(TikTok)』」は、「(復興のヒントのための、)その場所の本来の特徴・魅力を知る意味での、貴重な資料になり得る」。

 といえるのでは?と映ってます。



 (←上から順に、「地域みらい留学の公式note」「地域みらい留学の公式HPのトップページ」「地域みらい留学の関連リンク集」「国内留学のwikipediaページ」「山村留学のwikipediaページ」。
 下の2つは、「地域みらい留学」のウィキペディアのページがないので、「国内留学」及び「山村留学」のページで代用しています。)


 (←「山村留学」とは、主に小学校5,6年生の年代で、日本では長年、普及している方法。かつて、2015年に口永良部島[鹿児島県の離島、いわゆる「奄美地域の離島群」の1つです]で噴火が起きたとき、「横浜から山村留学していた当時小学6年生の少女」がいたことが、ちょっとした話題になっていました。)



 そう、「地域みらい留学」のことは、いつか別途で言及させて頂く機会を持てればと思ってます。
 (話し出すと、とても長くなりそうなことが目に見えているので。
 わかりやすく述べれば「国内留学の高校生バージョン」、あるいは「スポーツ留学を『勉強留学』『自己成長留学』に置き換えたイメージ」と解釈して頂けると、より伝わるかなです。)

 この「地域みらい留学」。制度としては、「2017年」に誕生しました。
 あおいさんが用いている「地域みらい留学365」は、「2020年」に誕生。
 高校2年生の1年間を使っての「国内留学」の制度です。で、能登高校は、現時点ではこの「地域みらい留学365」のみを受け入れてるとのことです。

 よく、世間的に知られているのは、いわゆる「野球留学」です。
 他のスポーツでもある話で、「バスケットボール」「陸上」とかでも、これはもともと存在しています。女子バスケットボールの桜花学園(愛知)が、長年にわたり「高校女子バスケの頂点(ラスボス)的な存在」ですけど、いわば全国のバスケのスター候補が、「桜花学園で自分を高めたい」と集まってくるんですよね。

 あるいは、いま少し言及させて頂いたように、陸上も然りです。直近でだと、年明けの都道府県対抗女子駅伝で、宮城の優勝の原動力になった、9区(アンカー)の小海遥(「小海」と書いて「こかい」と読みます)。小海は、「故郷は新潟、高校は仙台育英」、つまり「新潟から宮城に、陸上留学した」ことになります。
 (高校時代から「潜在能力が高い」とずっと期待され続けてきたが、高校では実は伸び悩んだ。昨年から持っている潜在能力を開花させ始めてきていて、この5月3日に、袋井[静岡県。エコパスタジアム]で「日本選手権の10000m」が開催されますが、「ここを突破してパリ五輪に到達」の可能性がある有力候補の1人になっています。
 実際、小海は「新潟は自分にとって大切な故郷だけど、宮城は自分の『第2の故郷』」と公言しています。)


 そう、他のスポーツでも「◎◎留学」のケースが知られるようになり、その理由は、その人自身が「自分を成長させたいから」なことが、実は多いことがわかってきた。
 これに加えて、コロナを経て、「地域みらい留学」の存在があることが知られるようになったこともあり、「野球留学」への批判的な解釈は、(全くなくなっている訳ではないが、)かつてよりは結構和らいできている、と映ってます。

 というか、かくいう自分自身は(住んでいるのは大阪で、中学3年生までは西宮でした)、高校生の当時、「地元である関西圏から出る」こと自体を、全く想像できない人間でした(実際、大学受験のときは「関西圏の学校限定」という条件が付いていました)。



 そう、「地域みらい留学」の深入りは、別途の機会に、の感じですけど、一定の結果を出しているから、「win-win」といえる何かがあるから、普及してきている(理に適っているといえる)訳です。

 よく、大学生・大学院生とかで、「留学したい」という人間がいる訳で(大学生・大学院生の留学は、ほとんどが「海外留学」のことですけど)、冷静に考えれば、「大学生・大学院生の留学も、小学生の山村留学も、もともとずっと存在している訳で、少なくとも、高校生の国内留学だって、「あっていいじゃん、それでプラスになる人間が存在するならば、その時点で有意義なことじゃん」である訳です。


 (←大学生の国内留学の事例は、実際に存在している。いまリンク添付は、「同志社大学と早稲田大学の国内交換留学」。ちなみに自分の1回目の大学時代[2003年~2007年]の時点から、この制度は存在してました。)



 で、そう、この「地域みらい留学」。
 「『チャレンジしたい何か』があるから、できるシステム」といえます。
 この「チャレンジ」とは、「自分を変えたい」も理由の1つといえます。

 で、子ども自身が「チャレンジしたい」と思っていることが最も大切ですけど、「親御さんの理解」がなければ、チャレンジ(挑戦)自体が叶いません(現実論、親御さんに反対されて「泣く泣く諦める」子どもも少なからず存在していると想像ですし)。
 それと、「ホームシック」のリスクだって、起こり得る訳ですので。

 そう、「チャレンジしたい」という、あおいさんの意志・姿勢がとても素敵であることは勿論ですけど、理解(恐らくは応援も)の姿勢を示した親御さんも、とても素敵である、と自分は思うのです。



 で、記事もですし、インスタグラム、TikTokを拝読させて頂くと、
 「あおいさんの持っている個性・感性・特徴が、能登の持っている雰囲気に『合った』んだね。」
 が、とても伝わってきます。



 で、そう、「能登半島地震」のこと。
 自分が、「東日本大震災」の復興支援活動に、微力ながら参加してきたこと(震災の半年後から、2015年3月まで、延べ「10回」訪れました)、これが自分自身の「最大の転機」になったこと、及び、東北に向き合うことのきっかけは、自分自身が「阪神・淡路大震災」に、「小学4年生、西宮」で実際に被災した経験を持つから、ということを、これまでも述べてきました。
 自分の場合、母方の実家がある八尾(大阪の東側の隣の市です)に、2か月強ほど避難(当時は「疎開」という表現でしたが)した経験を持ちます。

 で、自分は、あの「阪神淡路のとき、たくさんの人間に支えて頂いた、温かく接して頂いたことへの感謝」が、「心の原点」です。
 特に、避難先の小学校の級友が、自分に対して特別扱い(転校生扱い、被災者扱い)をせずに、純粋に1人の級友として接して頂けたこと、「いつだってオープン、ウェルカムだよ」の姿勢で接してくれたことが、とても嬉しかったんですよね。
 「優しい自分でありたい」「純粋で、まっすぐな自分でありたい」。
 いまの自分の、特にこの2つの信念は、「阪神・淡路大震災」の被災経験からきていると、あらためて実感しています。


 ですけど、その一方で、子ども心に、強く心に刻まれたことがあります。

 「政治は、何もしてくれなかった。」

 厳密には、兵庫県・神戸市レベルでは、できる精一杯の全力をしようとしていたことは、子ども心には伝わっていました。
 ですけど、です。そう、「国政レベル」。できる精一杯の全力をしようの、「で」の字も「せ」の字も「ぜ」の字も、少なくとも自分には、全く伝わりませんでした(つまり「ゼロ」)。

 後年になり、震災からちょうど10年の「2005年」、当時の首相であった村山富市さんが、あるインタビューで、
 「震災の当時、何もしてくれなかったという声は聞こえてきていたし、何もしてくれなかったといわれても、反論はできない。対応が後手後手に回った、どうすればよいのかというノウハウを持っていなかったことは否めないから。」
 という趣旨のことを仰っていました。これに、不思議と心が「すとんと落ちた」ことを、いまでも強く記憶しています。


 そう、自分が最終的に、1回目の大学時代、「政治学を学ぶ」を決断したことの理由は「3つ」あります。

 (1)(小学4年生の)「阪神・淡路大震災」で、「政治(厳密には国政)は何もしてくれなかった」という強烈な記憶。この思いを、自分なりに問い直したいと感じたから。

 (2)(小学3年生の)「1993年の政権交代」、当時は早寝であった自分が、子ども心に「わくわく感」を抱いたこと。あのときの衝撃を、自分なりに問い直したいと感じたから。

 (3)シンプルに「日本史の近現代史」が「最大の得意分野」であったから。日本の場合、歴史学が扱うのは「近世(江戸時代)」までであることが多く、自分が最も得意かつ好きである「近現代(明治時代以降)」は政治学が扱う分野であったから。


 実際、「政治学」を学んだからこそ、いまの自分がある、なぜって、「政治学」を学ぶことを通して、「社会」を学ばせて頂く一助になったといえるからです。「ほんとうの意味」で、「社会」というか「活きた学び」をさせて頂けるようになったのは、それこそ2011年、27歳(2回目の大学時代)以降での、「東北に向き合う」、これを切り口に「社会に向き合う」をさせて頂けるようになってからですけど、政治学を学んだことは、少なからず生きていると実感していますので。


 で、そうです、「政治は何もしてくれなかった」、いま、1人の人間として、阪神淡路の「負の記憶」が繰り返されようとしている(しかもその上、社会的な関心も、ほとんどまともにされていないように映る)、そういったことを含めて、「悲しい」「悔しい」気持ちを正直強く感じてます。

 そう、「教訓の共有」、より深く述べれば「社会全体で、過去の災害(地震)の教訓を共有できること」がとても大切である、と自分は思っていますけど、教訓を活かそうの「き」の字も伝わってこないよなあ…と。
 勿論、市民ベースでいえば、子どもの心の居場所を創出しようとかの動きが伝わってきますけど。

 報道越しにだと、「能登半島の独特の地理的な構造」、これはどうしても、支援の動きをしようにも、陸路だと「南側から北側への1方向しか事実上できない」こと、故に「空路、海路をも活用にならざるを得ないが、そもそものキャパ的にこれも限界があること」が影響なことを、耳にします。
 「支援(ボランティアを含めて)をしたくても、宿泊地をまともに確保できない」、この指摘もあります、確かに、最も近いであろう和倉温泉でも、特に被害の程度が大きい「輪島・珠洲地域」からは結構離れている感じですし、それに温泉地とかは、現況では「現地の人間の二次避難場所」になりつつあることも、問題を難しくしていると想像です。

 「国政がまともに対応できていない」、これは「能登のことよりも、いわゆる『政治資金スキャンダル』のことに、気持ちが向いていた」(世間的には、「芦原さんの一連のこと」に気持ちが向いていた訳で、「世間も世間、国政も国政」という表現ができるでしょう)影響は、正直否めないと映ってます。
 で、そのうえ、「いわゆる現地の市役所・町役場の職員のキャパオーバー」も指摘されています、これは「現地の市役所・町役場の職員が、そもそも人数的に不足しているから」と。なぜそうなっているのかは、想像でしかないですけど、
 「そもそも採用段階で人数を絞りすぎたことの、ツケが回ってきたんだよ!」(←正直自分は、こう思ってます。そう、「意欲・熱意ある人間は大歓迎だよ」にすれば、こうなる可能性は幾分かはましだったのでは?と)なのか、「近年、公務員の離職率が上昇傾向にあるといわれているが、この影響?」(←「特に上層部に、資質能力がそもそもない人間が少なからずいる」とか、「親に強く言われて仕方なく目指した人間が、同僚に少なからず混ざっている」とかで、「意欲・熱意ある人間が、絶望して去っていく」ことが指摘されている、これは国家[いわゆる霞が関]・地方を問わずして)なのかは、わからない、結局想像でしかない感じですけど。


 そのうえ、です。




 そう、自分は実は「鉄道ファン」でもありますけど、今回の「能登半島地震」、実は「そもそも論」として、

 「震災以前から、交通的には不便であった」
 「特に被害が大きい地域は、いわゆる『鉄道空白地域』、というか、かつて鉄道はあったが、『2001年』及び『2005年』に鉄道が廃止された、悲しい歴史的経緯を持つ」

 であるのです。そう、「輪島」「珠洲」、あるいは「能登町(宇出津。あおいさんが学ぶ能登高校がある場所)」は、この「かつては鉄道があったが、いまは敗戦で鉄道がない地域」に該当します。

 個人的には、「能登の役に立ちたい、現地で何らかの貢献がしたい、能登を訪れたい」と強く思っていても、「交通のアクセスの悪さ」が、「能登を訪れる」ことの障壁になるのでは?という危惧が正直拭えないです(ごめんなさい!)。

 で、これは、最終的には「復興」を目指すのは勿論ですけど、この「復興」においても、「交通をどうするか」は、「重要なテーマの1つになる」と強く思ってます。


 とはいえ、です。現実論として、では「鉄道を復活させる」は、正直「非現実的」であると読んでいます。でも、能登に生きる子ども・若い世代のため、の視点で考えると、「いまのままでいいはずがない」と思うのです、そう、「知恵」をフル回転させて、「最適解」を導き出して欲しい。
 そこで考えられる道の1つが、「東日本大震災」の復興で活用された「BRT」です、鉄道ほどのコストをかけずに済むし、鉄道よりも運行本数を充分に確保できる、そして「学校」「市役所・町役場」「図書館」「公民館」「体育館」等の、地域住民が特に訪れるであろう場所に近い停留所をより多く確保できる、といったメリットがあります。
 あくまでも、1つの方法に過ぎないといえば、そうです。ですけど、自分は、東北で最も訪れた場所が「南三陸」ですけど、この「南三陸」(いわゆる「志津川」「歌津」の地域がここに該当です)、BRTになって「恐らくだけど、プラスの影響」になった地域と、訪れて感じたんですよね。


 …と、そのような感じで、要はつまり、1人の人間としては、

 「能登の地震(個人的には「震災」と強く思っていますが)の復興に向けては、まず、社会的に考えて、『自分ごと』と考えている人間が、どれほどいるのだろう…?という不安感。」

 これを正直強く抱いてます。


 「物事を、『自分ごと』として考える。」
 「自分がその人の立場ならば、何をして欲しいだろう?自分に何ができるだろう?を強く意識する・想像する。」

 「東北に向き合う」ことを通して、自分が特に学ばせて頂いたことのうちの2つです。



 「東北は、課題先進地である。」

 「東北に向き合う」過程で、自分が出会った言葉の1つです。
 で、実際、東北を何回も訪れる機会を得て、この「課題先進地」ということは、とても強い説得力、「言い得て妙」であると正直感じてます。

 そう考えると、先述で、交通(電車)のこととかを綴らせて頂きましたけど、いまの能登は「課題先進地」であるといえるのでは?と思ってます。
 そう、「学び(教育)のこと」「医療、福祉のこと」「買い物(商業施設とか)のこと(食、服は勿論、本、文房具とかを含めて)」等。


 そう、自分自身、「東北を訪れる」「東北に向き合う」ことを通して、「社会に向き合う」ができて、自分の想像以上に、「心の引き出し」「社会に対する視野」が一気に拡がり深まったと感じますけど、「学び」「気付き」がいっぱいあるんですよ。

 いまは、東北を訪れていたときとは、立場が変化していることもありますので、「能登に向き合いたい」気持ちはとても強い一方で、「能登を訪れる」ことは、ある程度の時間が経過してからになるのかな、と正直想像の感じです。

 ですけど、「(自分が住んでいる)関西(大阪)から『能登に向き合い続ける』姿勢・心掛けを持ち続けることはできる」と思っていて。



 「いま、能登のために、自分ができること」
 「能登を想い続ける」「能登のことの報道に、積極的に触れる」。これは勿論のこと、と思ってます。ですけどこれらは、「無形のこと」でもあるのです。
 そう、できれば「有形のこと」としても、「想いを示せれば、より望ましい」よね、と思っていて。そうなると、ベタですけど、「募金」になる訳です。

 で、「東北に向き合う」過程で、特に学んだことの1つに、「より信頼できそうな団体を見極める」ことがあります。
 そう、「募金」といっても、現実論は、ピンキリあるのです。自分は、東北のことを通して、とても素敵な団体がいくつもあることを学んでいますが(例えば「カタリバ」さん、「キッズドア」さん、「チャンスフォーチルドレン」さん[通称「CFC」]、「DxP」さん、「ワカモノヂカラプロジェクト」さん、「かぎかっこPROJECT」さん[いわゆる「高校生百貨店」等]、「みやっこベース」さん、等々。いま自分も微力ながらかかわっている「きっかけ食堂」さんもそうです)、一方で、「いかがわしい、まゆつばもの(眉唾もの)の団体」があることも、正直否めません。


 そのような中で、です。いま、リンク添付させて頂きましたけど、いまの自分の最大のメインフィールドであるといってもいい、「バスケットボール」(Bリーグ)の募金活動。
 「プロスポーツチームがする募金活動ならば、とても信頼性がある」、つまり「より信頼できる団体、より信頼できる使い道」になる可能性が高い、と判断できる。
 ですので、自分は今回、募金を、この「Bリーグの各球団の募金活動」を通して、という感じを、させて頂いてます。実際、
 「島根vs茨城」(1月20日・1月21日。島根の東京での本拠地開催の際に)
 「大阪vs京都」(2月7日。いわゆる「京阪ダービー」。ちなみに大阪は、今季いっぱい、つまり最終戦[5月4日・5月5日]まで、本拠地開催時の募金箱を設置し続ける、との場内アナウンスがありました)
 の3試合で、募金をさせて頂きました。


 …という感じですけど、話を改めて、東京から能登に、およそ9か月間学んでいた、「あおいさん」のことです。


 「留学の間、本当に楽しかった。残りの留学生活がどうなるかは未定ですが、このまま終わりじゃなくて、自分の得意な写真などを、いかしながら、これからも(能登に)ずっと関わっていきたいと思っています」


 そう、あおいさんの持っている個性・感性・特徴が、能登の持っている雰囲気と「合った」、これがとても伝わりますし、あおいさんにとって、この「地域みらい留学」を通しての挑戦は「あおいさんを、とても大きく成長させたんだろうなあ」と伝わってきますし、先述でも述べたように、「あおいさんを能登へと快く送り出した(応援・理解を示してくれた)親御さんに感謝だね」の感じです。

 そう、「能登が大好きになった」ことがとても伝わりますし、恐らくですけど、「能登を離れたくない」気持ちなのかな、とも想像するのです。
 (自分が、あおいさんの立場ならば、「高校3年生になっても、能登への留学を延長できますでしょうか?」と掛け合うかな、と想像です。いわゆる「だめもと」を覚悟のうえで、「でも、叶うならば、より嬉しい」のニュアンスとしてです。)

 だからこそ、あおいさんには、これから、どのような道を歩むのかは想像でしかないですし、大学にせよ、専門学校にせよ、その場合は物理的に能登を離れることになりますが、

 あおいさんには、最終的には、どのような形であれ、『能登に携わり続ける』感じであって欲しい!それが、能登に移住する形なのか、能登に通うとかの感じでかかわりを持つのか、とかはわからないけど。
 だけど、はっきりといえることがある。『あおいさんだからこそ、できることがある(恐らく、あおいさんだからこその【唯一無二の何か】が)』、あおいさんが吹き込んだ『新しい息吹』は、能登に、少なくとも能登高校の同級生に、きっとプラスの形を与えたと想像するから、だからこそ、あおいさんには、(大人になってからも)能登と何らかのかかわりを持ち続けることが、きっと『あおいさんに与えられた使命』といえるんじゃないかな?

 と、自分は伝えたいのです。

 そう、「あおいさんが、能登に出会い、能登で学んできたことを通してこそ、成長できたことが伝わる」ことと共に、「(純粋な能登の人間ではないという意味で)外の世界の人間である、あおいさんが持ち込んだ『新鮮な息吹』によって、プラスの成長になった人間が、恐らく何人もいる」。
 そう、それは、あおいさんにとっては勿論、あおいさんと出会った人間にとっても、プラスになっているはずだよ!と想像するのです。

 だからこそ、少なくとも、あおいさんには、能登とのかかわりを持ち続けられる感じであって欲しい、能登とのかかわりが、卒業とかを気に終わると科にはなって欲しくない(もったいない、を含めて)と伝えたいのです。


 そう、あおいさんのことから学べることとして、

 「生きていく過程で、『挑戦(チャレンジ)』を決断するタイミングが、必ずどこかで訪れる。その挑戦は、もしかしたら失敗という結果になることもあるかも。
 でも、『挑戦を決断する』ことでこそ、『あっと驚く素敵な景色』も、『想像していなかった転機』も、『想像以上のプラスの成長』も、そしてひいては『自分がより輝ける最適解の【志】』も、見えてくる可能性がより大きくなる。
 そう、『やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい』って言葉があるけど、後ろ向きな後悔は、一生引きずるだけ(ただのマイナス)。やってみてわかることがきっとあるはずってこと!」

 と、自分は伝えたいんですよね。そう、これをよりかみ砕けば、

 シンプルに、チャレンジする姿勢を持ち続けられる人間って、『かっこいい』でしょう?

 と自分は思うんですよね。そう考えると、

 『自分自身の心の声』に対して、正直になれる勇気。
 それができる人間って、『ほんとうの意味で、強い人間』だと思う!

 そう、ですので、あおいさんが「能登に留学するというチャレンジを決断した」こと自体が、そもそも論、とても素敵なこと!と思うのです。



 いつか、あおいさんの「能登への想い」を、じっくり聴く機会を持てると、より嬉しいです、これが正直な想いです。
 そして、「あおいさんらしさ」を貫いて欲しい、追い求めて欲しい、その先に、あおいさんが持っているよさ、積み上げてきたことを活かせる最適解の道があるはず、それが「能登とより関われる」感じだとより素敵です!、と伝えたいです。



 …という感じで、既にかなりの文字数になっていますけど(激汗)、今年(2024年)になってからという意味で、先述の「能登にいた高校生(あおいさん)」のことと共に、「最も心に響いた」「最も感動した」と強く感じる話題があります。

 この話題に出会ったのは、1月17日、そう、「阪神・淡路大震災から、ちょうど29年」の当日です。YouTubeで、「あなたへのおすすめ」として、偶然にもトップで表示されていたんですよ。

 そう、ここから話を進める、この記事(及び動画)の話、実は、昨年(2023年)の「東日本大震災」のTBSの特集番組(TBSは例年、東日本大震災の特集番組をしています。自分が把握できる限りでですが、NHKを除けば、民放でこうして東日本大震災のことをまとまった時間枠で取り上げているのは、TBSだけです)の記事です。
 日程が合わなくて、放送当日は視聴できなかったですので、自分にとって特別である「阪神・淡路大震災」(小学4年生、西宮で被災している)の当日に、この記事に出会ったのは、「運命」と正直感じてます。






 いまリンク添付させて頂いた記事・動画のことは、程なくして改めて言及させて頂きます。
 で、この記事に出会った、「1月17日」。先述のように、自分は
 「小学4年生のとき、西宮」で、「阪神・淡路大震災」に、実際に被災しています。





 で、「1月17日」は、自分にとっては「永遠に特別な日」です。そう、これまでも、これからも、ずっと。
 で、「1月17日」、日程が合えば、HAT神戸(人と防災未来センターを含めて)や東遊園地、ポートアイランドを訪れるのですが、今年の1月17日は、仕事上の日程の関係で、できませんでした(ただ、恐らくそう遠くないうちに、HAT神戸や東遊園地、ポートアイランドを訪れる機会は持つかなですし、そもそも神戸を訪れる機会は、毎年持つように心掛けてます)。

 で、2022年から、欠かさずするようにしてることがあります。
 サンテレビの「バトン1.17」。ありがたいことに、YouTubeでも無料ライブ配信(しかもアーカイブ付き!)されています。


 (←上から順に、「バトン1.17」の、「2022年版」「2023年版」「2024年版」。)



 で、今年(2024年版)の、「バトン1.17」。
 この中の1つ、「震災を経験していない若者たち あの日のことを伝えたい」。
 神戸にある学生団体「あすパ・ユース震災語り部隊」のことです。
 で、神戸を訪れた、福島の大学生有志との交流のことが、描かれています。
 今年で3年連続、この「バトン1.17」からは、いつも学ばせて頂いている感じで。

 では、話を、1月17日、そう、「阪神・淡路大震災から、ちょうど29年」の当日に、YouTubeで、「あなたへのおすすめ」として、偶然にもトップで表示されていて視聴・閲読させて頂いて、「最も心に響いた」「最も感動した」と強く感じる動画(記事)のことへと、話を進めます(戻します)。






 (←実際には、野球のWBC[日本vs韓国]の生中継が延長になった関係で、「0時50分に放送開始」であったとのことです。)


 気仙沼(宮城)の高校3年生(記事の当時は、高校2年生。つまり現在、大学受験の立場になります)、岩槻佳桜さん(「佳桜」とかいて「かお」と読みます)。
 童顔と、頬が赤いのが特徴的な、かわいらしい少女です。


 (前略)

 自らが経験した東日本大震災。その記憶を紙1枚で表現していました。
 「紙で表現することによって、言い表せない感情や客観視したものが作り出せる」
 この取り組みを考案した岩槻佳桜さん。宮城県・気仙沼市に暮らすごく普通の高校生ですが、もう1つ別の顔があります。

 震災遺構として保存される気仙沼向洋高校の旧校舎。佳桜さんは、ここで震災の教訓を伝える“語り部”として活動しています。

 (中略)

 中学2年から語り部をしている佳桜さん。震災を伝えるうえで“大切にしていること”があるといいます。

 「自分が見たものを話したいなと思っているので、『自分の言葉で伝える』ようにしてます」

 一方、こんな悩みも打ち明けてくれました。

 「同じことを話さなきゃいけないので、なんかマンネリ化してるのかなって自分で怖くなってて」

 (中略)

 12年前の2011年3月11日。佳桜さんは当時5歳でした。気仙沼の町を襲った“黒い津波”。佳桜さんも避難中、目撃していました。
 「ぱっと振り返ったらもうサワサワサワって坂から上ってきてた“黒いもの”が。もう1回振り返ったら、さっきまでいた小学校の校庭が真っ黒になってて…」
 津波から無事、逃げることができた佳桜さん。その日は車の中で過ごすことになったそうです。夜、停電であたりは真っ暗でした。ただ、ふと空を見上げると…

 「車の中で星を見ました。ピュアな記憶というか、綺麗だったんです。とにかく綺麗だったんです」
 5歳の佳桜さんにとっては綺麗な星空でしたが、一方で…
 「宮城県内に住むお客さんが来てくれたときに、『あの星は絶望だったね』って言われて、同じものを見ていても全然違う感情があるんだなと」

 そこで、あることを思いつきます。みんなに“3.11の記憶を紙1枚で表現”してもらおうという取り組みです。

 「この方はいっぱい折ってもらった」
 「津波を見たって言っていた方で津波の波を連想させるような形と…」
 これは“心にあいてしまった穴”。被災した人が作ったそうです。当時、東京にいた人は…
 「実はこれは“テレビのL字バー”なんです。実家が東北の方でどうなっているんだろうっていうのでずっとテレビの前に立ってこれを見てたって」

 紙で表現する、それぞれの“あの日のこと”…。手を動かし、自らの記憶を振り返ることで、風化の防止にもつながるといいます。

 東日本大震災から12年、いま伝えたいことは…
 「犠牲になられた方々、家がなくなったとか、大切な宝物を失ってしまった方もたくさんいると思うんですよ。『忘れないで欲しい』と思ってて

 そして、使命感も芽生えてきました。
 “震災の記憶が残る最後の世代”かなって感じてるので、一番小さい私たちが見た、ピュアな気持ちとか目線というのを、伝えていけるんじゃないかなって思ってます


 3月6日、佳桜さんは保育所にいました。

 「津波っていうのが来る場所と来ない場所があります。それを“かくれんぼ”という遊びを通してみんなに教えてあげたいと思います」

 将来の夢は「保育士」という佳桜さん。“震災を知らない世代”に“震災の記憶をつないでいきたい”といいます。
 
 「防災教育みたいな点で、学んでほしいし知ってほしいなって。私の5歳の記憶を5歳の子に伝えることができるんじゃないかなと思ってて」

 佳桜さんはいま、あの日の記憶を“絵本”にしようとしています。
 2月、文章が完成しました。タイトルは「五歳の私」。

 「私は宮城県に住む高校二年生の女の子。五歳の時に東日本大震災を経験したんだ。今から私が五歳の時にどんな経験をしたかこの絵本で教えてあげるね」

 先生が腕を目いっぱい広げて、地震の揺れから必死に守ってくれたこと。避難中に見た“黒い津波”。夜空の星がすごく綺麗だったこと。最後は子どもたちに向けてこんなメッセージで締めくくります。

 「私が五歳の時にどんなことをしたのかわかったかな? 私が必死に一人で走ったように、“自分の命は自分で守る”。みんなも防災についてもっともっとお勉強してみてね!」


 動画(記事)を観させて頂いて、自分は正直、とても感動で、涙が止まらなくなっていました。
 「なんとこの人(佳桜さん)は、心が優しくて、純粋で、真っすぐなんだろう!」と。そう、佳桜さんは、気仙沼、宮城にとっての「希望の星」に映るのです。

 この、自分の正直な気持ちを、言葉にうまく落とし込めないのが、正直とてももどかしいけど、一見、穏やかそうな雰囲気の中に、いわば内に秘める「ほとばしるような、とても強い想い」が、ひしひしと伝わるんですよね。
 それと、耳に心地いい、少し高音の、とても素敵な声質も、その「強い想い」に、「より強い説得力」をもたらしてる感じです。


 佳桜さんの言葉で伝えられてる、「黒い津波」。
 自分は、「ある言葉」が重ね合わさって感じます。




 「黒い雨」。広島や長崎への原爆投下の少し後に、「放射性物質を伴う、黒い雨」が落ちて、それが被害を拡大させた、といわれています。
 「東北を訪れる」に、一つの区切りになった、2015年。
 この3月、「国連防災世界会議」のセッションの1つ、「日本ユース会議」に参加させて頂く機会を得たこと、自分にとっては、「人生で最大の『心の財産』の1つ」ですけど、「東北に向き合う」ことから派生して、「社会に向き合う」によりウエイトを置く、この過程で、広島や長崎を訪れる機会を得ました。勿論、広島、長崎のそれぞれの平和記念資料館にも実際に訪れて、特に長崎の、原爆の実物大の模型を目にしたときの衝撃は、とても強烈に心に焼き付いています。

 で、「社会に向き合う」という意識を強く持てる、「東北、広島、長崎という、「点と点」を、「1つの線」としてとらえようとできる、そう考えると、1回目の大学時代、最終的に「政治学」を主専攻としたことに、意味はとてもあったと改めて感じてます(いま、あの当時に戻れるならば、「防災」か「スポーツマネジメント」に向き合えれば、とも感じますけど)。



 自分は、「絵」や「図形」がとても苦手ですので、の感じですけど(激汗)、
 「震災(3.11)の記憶を紙1枚で表現する」、
 そう、「言葉で表現する」以上に、「人間の数だけ、『感じてること』の形が生まれる」よねと、(いわれてみればですけど、)「とても強い説得力」を感じます
 そう、「紙で表現する」ことで、「より『立体的に』、より『可視化して』表現できる」と思いますから。

 自分が、「(実際に被災した)阪神・淡路大震災」、「(生き方・価値観ががらりと変化した)東日本大震災」を、それぞれ紙に表現するとどうなるだろうと、自分でも「やってみないとわからない」感じだったりしますが。


 そう、あの夜にみた星は、佳桜さん自身には「とてもきれいな星」に映った。
 これは、自分が「阪神・淡路大震災」の数時間後に外を歩いたときにみた、「とてもきれいな青空」に、重なって映ります。
 (あの、言葉通りの「青く染まった青空」の衝撃も、自分が「いくつもの逆境」を乗り越えられた1つかもと、いま振り返ると感じます。)

 そう、あのとき佳桜さんが見た、「とてもきれいな星」。
 でも一方で、「たくさんの悲しみが、引き起こされてしまった」。
 だからこそなおさら、自分(佳桜さん自身)が「架け橋のような星」になる。あくまでも自分の解釈ですけど、佳桜さんのこと、その「想いの強さ」をも含めて、そのように映り、なおさらとても応援したい!と感じます。


 ですけど、実は、まず最初に、動画を通しでみたときに、ごめん、失礼であることはわかっているのですけど、
 「こんなに大きな『志』が伝わるのに、『保育士』という枠で収まりきらないような…と(勿論、「いい意味で収まりきらない」なのですけど)。
 いったいなぜ、『保育士』を志しているのだろう?」
 と感じたんですよね。でも、改めて動画や記事を読み返すと、なぜ「保育士」を志すのか、がとても伝わってくるのです。


 「震災が起きたとき、自分(佳桜さん)は5歳であった。
 だから、『私の5歳の記憶を5歳の子に伝えることができる』、それは『当時5歳であった自分だからできること』と思う。
 それに自分は、『震災の記憶が残る最後の世代』である。だから、震災を後世に伝えることは、『自分に与えられた使命である』と思うから。」

 (これに加えて、シンプルに「子どもが大好きだから」や、「人間の可能性を育める、とても素敵な道だから」も、理由の1つかなですが。)


 そう解釈すると、「なるほど、とても強い説得力がある、理に適っている」よねと。
 そう、いい意味で、「どこまでも心がまっすぐ、ピュアである」。
 無意識的に「ドロドロ感」が心のどこかにある自分にとって、なおさら「見習いたい」と強く感じます。

 そう、そのように考えると、

 「震災という『過去』を、後世に伝える。それを、希望や可能性という『未来』に昇華させる。そう、『【過去】と【未来】をつなぐ【架け橋のような星】』は、自分だからこそできる役割・存在意義である!と。」

 「架け橋のような星」、そう読み解けると、なおさらとても感動で、また改めて、涙が溢れ出てくるのです、勿論これは「感動が故の、嬉し涙」ですけど。


 「絶対に、志を叶えるんだよ!あなただからこそできる、唯一無二の志(「佳桜さんだからこその保育士像」を含めてです)の景色、楽しみに待っているから!」

 そう強く、応援したい想いですし、今回のnote記事、そう、実は、先述の「能登にいた高校生」の、あおいさんもですけど、とりわけ、この
 「佳桜さんという『希望』の存在を、応援したい!」
 これが、執筆の大きな理由の1つになっているんですよね。

 で、動画(記事)には、終盤で、「絵本を執筆している」とありました。
 佳桜さんが書いた絵本(『五歳の私』)、一般である自分は、入手できるのかなあ?の感じです。
 そう、「入手できるならば、是非とも読ませて頂きたいです!」の感じですので。佳桜さんが「感じている景色」って、どんな景色だろう?という純粋な興味深さもですし、1人の人間として、そこから学べることがきっとあるだろう、という意味でもです。


 …そう、ここから学べることって、

 「『貫きたい想いの強さ』を持っている人間って、誰よりも素敵に映るし、そういう人間って『ほんとうの意味で、強い人間』であると思う!」


 「『誰かがやらなければいけないこと』を、先頭になって(中心になって)できる人間って、『勇気の心を持てる、とても素敵な人間』であると思う、そのような人間って、なおさら応援したいと思えるし、どこかで逆境に直面しても、きっと乗り越えられる!」

 と伝えたいんですよね。



 いずれにせよ、そう、佳桜さんに強く伝えたいこと、

 「『佳桜さんらしさ』を貫いて欲しい、追い求めて欲しい!」

 ということです。

 で、自分の場合、東北を訪れる過程で、岩手・宮城・福島と、いわば「一通りの場所は、恐らく1回以上は訪れている」感じですし、特に、最初に訪れた場所でもある「南三陸、石巻、仙台」は、その後も何回も訪れる機会を持ちました。
 それと、2019年にも1回、東北を訪れる機会を持ちましたけど、その際、「復興のまちづくり」に成功した、女川駅周辺の景色は、シンプルに「とても素敵」と感じましたので。

 ですけど、「訪れる機会を、最終的に持てずじまい」であった場所が、2つあります。
 第1が「宮古」。自分の場合、「みやっこベース」という団体にとても強い共感を抱いていて、いつもnote、楽しみに拝読させて頂いてますけど、釜石は訪れたことがある一方で、宮古は結局叶わずじまいでいます。


 で、第2がそう、「気仙沼」です。厳密に述べれば、「通ったことはあるけど、降りたことはない場所」。
 それも、実は、自分が出会った人間には、不思議と「東北で、最も訪れたことが多い場所」あるいは「東北で、最もご縁がある場所」が「気仙沼」という人間が多いのです。



 実は、毎年8月上旬に、気仙沼では「気仙沼みなとまつり」という、地域にとっては「一大イベント」があります。
 自分が住む関西圏ですと、「なにわ淀川花火大会」がありますが、それのような感じでしょう(ちなみに、この「なにわ淀川花火大会」は、1年で「大阪駅、梅田エリアが最も熱く燃える日、最もカオス状態になる日」といわれています)。

 そう、自分の周りに、気仙沼とつながりある人間がいる、だからこそなおさら、いつか訪れたい。その一方で、いまは、かつて(2015年までのように)東北を何回か訪れる機会を持っていたときとは、もう立場が異なる、現実論、東京など、別の場所で資金も時間も費やす感じになっていること。

 でも、動画(記事)を拝読させて頂いて、少なくとも、この2024年で、「最も感動した人間」とはっきりと明確にいえる。そう、
 「いつか、佳桜さんの想い、じっくりと聴かせて頂ける機会を、持ちたいです!」
 が、正直な想いです(いわゆる「いつかお会いさせて頂けると、とても嬉しい人間」ってことです)。
 こうはっきり述べるのは、正直恥ずかしさがありますけど、でも、とても素敵な動画(記事)で、自分が、「生きる勇気」をもらえたんですよね。「ありがとう」です。



 「人生は、一本道ではない」、「挫折・回り道を経験した人間だからこそ、見える景色、伝えられることがある」、なぜって自分がそうだから。「自分だけじゃないんだ」と「生きる勇気」をもらえる、あるアナウンサーのこと。


 で、ここまで、「能登にいた高校生」、「気仙沼で、中学2年生から語り部活動をしている高校生」のことを、取り上げてきました。

 では、このnote記事のラスト、これも、1月下旬に偶然に出会った記事ですが、「6浪という挫折を経験した末に、アナウンサーとして大成した、ある女性のこと」を、取り上げます。







 いま、リンク添付をさせて頂いたのは、フリーアナウンサーの原千晶さんです。父が医師、母が歯科医師であり、両親への憧れもあって医師を志して、6年間の浪人生活(つまり「6浪」、いわゆる「他浪生」になる)をしたけど、夢破れて(つまり医学部には届かなかった)、本命ではない学部に進まざるを得なかった。
 でも、夢破れての進学の後に、地元の神社の「ふく娘」になるという「転機」を得て、それがきっかけで「アナウンサー」という「志」をみつけて、挫折を経た歩みに理解があったであろう、山口のテレビ局で6年半務めて、昨秋(2023年秋)からフリーでの活動になり、現在に至る、になります。

 で、「あと2点」、つまり「あと1問」で届かなかった「医師という道」。
 6年間の浪人生活、こんなに努力したのに…と。

 じぶんも、このきもち、とーっても理解できます。
 そう、第2志望校の龍谷大学、「B日程」を出願していれば、受かっていた。一生後悔し続けている、あの判断ミス。これに相通ずると。

 「あと1問~あと2問」、これが実は「果てしなく遠い」んですよ。これを自分も、身をもって知ってますから。
 もうこれは、「実際に経験した人間だからこそ、理解できる道」といえる感じでと。


 1年生の終わりに父と話をしていて、「浪人したことはマイナスになったんじゃないか。あんなに苦労して勉強したのに結果が出なかった」というようなことをポロッと言ったら、父から「それは苦労じゃない」と言われたんです。「浪人したくてもできない人もいっぱいいる。私はやりたいことを6回も挑戦できたんだから、それは苦労とは言わないよ」と言われたときに、ちょっと気持ちが軽くなったというか。6浪は自慢できることもでないけれど、少し気持ちが切り替えられた感じはありました。

 また、そのタイミングで母が「神社で『ふく娘』という、神社のPRをするお仕事があるんだけどどう?」と進めてきてくれたんです。受けたら合格を頂けて、1年間の任期の中で福岡県内のメディアに神社のPRで訪れたり、正月三が日に鈴はらいや福引のアナウンスをしたりとすごく楽しかったんですよ。そこから自分でも色々アルバイトをしてみたくなって、「宝くじの女神」というキャンペーンに応募したら合格して。大学とは別の世界が広がって、この2つのお仕事がアナウンサーになるきっかけになりました。

 (https://bunshun.jp/articles/-/68612)

 (文春オンライン、2024年1月26日付、「“6浪経験”とかポジティブワードじゃ全然ないので」原千晶アナウンサー(35)が語る“就職活動のリアル”《『THE TIME,』で公表すると…》」より引用・抜粋。)


 そう、自分の場合は、「浪人はNG、地元(関西圏)以外はNG」という条件が、最初からありました。というか、自分の大学受験のときは、「浪人の人間自体は、少なからずいる」ではありましたけど、その一方で、

 「浪人、休学は、落ちこぼれの証明である。」

 この空気がとても強くありました。しかも自分が高校で在籍していたクラスは、よりにもよって(ちなみに「私立の中高一貫の男子校」、「1学年18クラス、このうち自分は『6年一貫コースの3クラスのうちの1つ』」でした)、

 「学校の歴史で『歴代ワースト1』といえる『自他共に認める、落ちこぼれの集団のクラス』。」

 の学級でした。というか、自分でもそう思っていましたし、高2、高3の2年間の学級の雰囲気は、「思い出したくないくらい、マジで最悪」でしたから。
 何故「落ちこぼれ学級」に直行になったって?「数学、理科が全くだめだったから」です。で、高校2年生のとき、数学で「0点を2回とる」でした。

 その後、2011年の「東日本大震災」を機に、

 「浪人、休学も、『その人の成長のため』には、全然あっていいと思うよ?」

 と、浪人、休学に対して、徐々にですけど寛容(許容)になる雰囲気が、生み出されつつある感じになり、現在に至る、少なくとも、自分はこう解釈しています。

 そう、浪人、休学に対する雰囲気が、「東日本大震災」でがらりと変化し始めたのは、理由はいろいろと複合的な感じですけど、
 「震災の復興支援活動(ボランティア活動とか)を回していくためには、『まとまった時間を東北にどっぷり充てられる人間』が必要になったという事情が生じたから。」
 これがあると自分は思ってます。そう、いわば半強制的に、「浪人、休学がNGって、おかしいよね」にならざるを得なくなったと。


 というか、いまだからいえますけど、高校のときもですし、1回目の大学時代でも、自分の「心の成長ペース」という意味で、

 「4年間で大学を卒業するって、頭脳の面では追い付けても、心の面で追い付けるイメージが、1ミリも湧かない。」

 これが正直、とても強くありました。で、結局最終的に失敗でしたけど、大学院でもう2年間学びたいと強く思うようになったのは、勿論、「シンプルに、もっと学びたい、これができないと絶対に後悔すると感じたから」が最も大きいですけど、「案の定やっぱり、4年で社会に出るというのが、心の成長という意味で全然追い付いていない」が正直強かったから、でもあります。

 





 いま、リンク添付をさせて頂いたのは、大阪大学に実際に存在しているサークル(同好会)である、「多浪の会」です。



 自分がnoteを書き始めて間もない時期である、「2022年の3月末」のnote記事。この、いまリンク添付をさせて頂いた記事の終盤で、
 「小学5、6年生のときに通っていた塾(浜学園)で、『自分の学年での絶対女王』に君臨し続けた『神童』が、大学受験では『1浪の末に、大阪大学医学部に進学した(それも、あの天才少女が、大学受験の現役時は「数学で大失敗した」とのこと)」
 という内容の文章です。

 そう、創作の世界のような天才少女だったのです、当時の記事で言及した、その同級生の少女は。「この人には、どんなに努力しても届かない」、それをみせつけられる存在であった。
 そんな天才でも、「挫折」を経験したのです。いまはどうしているのだろう?と、正直気に掛かっていますが。

 そのような感じですけど、「浪人NG、地元以外NG」であった自分からすれば(まあ、経済力のみならず、精神力の部分も正直ありましたし、結局、「推薦で到達できるラインに行けなかったから」でもある訳ですが)、この「多浪の会」、いわば「そういう人間がいても、全然いいじゃん」という社会になってきた証明で、少なくとも自分は「心が温まる」想いです。


 で、話を、6年間の浪人生活を経て、いま、アナウンサーとして、それも30歳を過ぎてからより充実の感じである、原千晶さん。
 正直、自分は、この一連の記事に出会うまでは、存じていなくて(ごめんなさい!)。そう、「同姓同名の女優ならば、存じてますけど」と。


 (←リンクの1つ目が、今回取り上げている、「アナウンサーの原千晶さん」。で、リンクの2つ目が、「同姓同名の女優である、原千晶さん」。
 後者の人物は、若い世代でならば、NHK総合「あさイチ」や、TBS「ひるおび」のコメンテーターで認識されてるかなと想像ですが、自分は、「2時間ドラマでの、悪役女優として」とか、同じく2時間ドラマである「弁護士・猪狩文助シリーズ(2001年~2003年、TBS)」で活躍、の認識です。
 それと、この後者の原千晶さんは、何回も病魔に苦しんできたんですよね。ですので、「病と闘う表現者」としてのイメージの方が、若い世代でだとより強いかもと想像です。)


 で、話を戻します。


 この仕事につけて良かったなって心から思います。色々な人と関われるのも好きですし、とてもやりがいも感じています。たくさん失敗していますが、失敗を失敗で終わらせないというか、次にどうしたらいいんだろうと頭を切り替えるようにしていますね。そう考えると、浪人中も勉強が分からない、点数が伸びないと感じたときも頭を切り替えることの連続だったので…結局受かってないので説得力には欠けるんですけど(笑)、自分では当時の経験はすごく活きているなと思います。

 アナウンサーは生まれ変わってもやりたいと思える仕事ですが、浪人がなければアナウンサーを目指していなかったと思います。今にして思えば必要な6年間だったのかなと思っています。

 自分としてはちょっとでもお役に立てたらよかったと思いますし、ここに来るまで長い道のりもありましたが、今は自分が大好きだと思える仕事につけて良かったと思っています。

 (https://bunshun.jp/articles/-/68612)

 (文春オンライン、2024年1月26日付、「“6浪経験”とかポジティブワードじゃ全然ないので」原千晶アナウンサー(35)が語る“就職活動のリアル”《『THE TIME,』で公表すると…》」より引用・抜粋。)


 そう、なぜ、この「原千晶さんのこと」を取り上げようと思ったのかと申しますと、


 「『人生は、一本道ではない』。どれほど努力していても、『挫折』『逆境』は、ほとんどの場合でいつか訪れる(それも『突然に直面する』ことの方が多い)。
 でも、(自分も実体験で感じているけど、)『挫折』『逆境』を経験している人間は、その分、『心の引き出しに【深み】が生まれる』。
 そう、『挫折』『逆境』を経験したからこそわかる景色は存在する、と自分は感じている、だからその意味で『マイナスをプラスに昇華させることはできる』!」


 そう、かくいう自分自身、「挫折」「回り道」を余儀なくされた人生だったと、今回のnote記事の冒頭でも、そしてこれまでも、言及してきました。
 ですので、だからこそ、強く感じるのです。
 「人生は、一本道ではない」と(勿論、一本道を突き進める人間もいるかなですけど、それが叶う人間は、恐らく少ないでしょう)。



 そう、「人生は、一本道ではない」という意味で、ささやかながら応援させて頂いている人間がいます。元NHKアナウンサーで、40歳を過ぎてから医師を志して、いま挑戦の真っ最中である、島津有理子さんです。
 (「おはよう日本」を長く務めていたので[ニューヨーク勤務時代のコーナーをも含めて]、それで記憶の読者さんも、少なからずいるのでは?と想像の感じです。)

 「40歳を過ぎてからの、医師への挑戦」。批判の声も少なからずあったと想像です。ですけど、いまでは、

 「いくつになってからでも、挑戦したいと思ったときに挑戦すること自体に、意義がある。」

 が共有できる社会に、なりつつあります(尤も、だからといって、医師を目指すのは、「資金的ハードルがとても高いが否めない」ですが)。

 例えば、「理学療法士」「作業療法士」とかは、社会人を経て挑戦する道として、実は少なからずいたりします。「いのち」に携わる道であることもですし、社会状況的に「今後、よりニーズが増していくであろう道」であることも、恐らく大きいかなです。

 いま、島津さん、医師への挑戦、先日に医師国家試験の本番であったとのことですけど、「想いが届いて欲しい!」が正直な気持ちです。
 (尤も、医師国家試験を突破するまでも、とても長い道ですけど、医師国家試験を突破してからが「ほんとうのステージ」である、の感じですが。)


 …で、話を戻して、原さん。

 「6年間の浪人生活、つらさ・苦しさが少なからずあったかなと想像ですけど、でも、そう、『6年間という長い浪人生活を余儀なくされた自分でも、いまこうして、自分の道を歩めてるんだよ!』が伝わる。
 そう、『6年間という、長い挫折の時間を経験している、【原さんだからこそできること、伝えられること】が、絶対にあると思う!
 『これから挑戦しようという人間』『挫折、逆境に直面している人間(特に落ち込んでいる人間だとなおさら)』『挫折、逆境、回り道を経験してきた人間』にとっては、原さんは『とても素敵な希望』なんだよ、と伝えたいです!」


 そう、いわば、原さんは、「『挫折』『回り道』を余儀なくされた人間にとっての、とても素敵なロールモデル」になり得ると想像するのです。
 かくいう自分も、原さんのことの記事を拝読させて頂いて、「生きる勇気」をとてももらえてます、そう、「自分だけじゃないんだ」を含めて、とても励まされる。
 そう、原さん自身の中では、励ましをしている意識は、恐らくほとんどないのかな、立ったりしますけど、自分を含めて、
 「励まされてる人間が、確実に存在しているんですよ、ほら、ここにいるじゃない!」
 と伝えたいのです。

 で、原さん、挫折を経験して、いまの居場所がある、と想像ですので、「いまの自分がいることは、当たり前ではない」ことは、恐らくわかっていると想像の感じです。
 だからこそ、

 「アナウンサーを志したときの気持ちを、そして、入社したとき(=アナウンサー・メディアの世界に入ったとき)の最初の気持ちを、絶対に持ち続けて欲しいです!(=『初心忘れるべからず』)」

 と伝えたいのです。勿論、「ちやほやされたい」という思いはないはずだろう、と想像の上でですけど。
 「ささやかながらですけど、応援させて頂きます」の想いです。



 そして、末文です。


(写真1)「2024年(今年)の受験シーズン」での、
天王寺駅の中央口(最も大きな出入口)を出てすぐ右側にある、
「がんばれ受験生!」の特設のホワイトボード。
(中央口の右側は、「四天王寺中学校・高校」「河合塾天王寺校」などがある。
中央口の左側は、「あべのハルカス」「大谷中学校・高校」などがある。
ちなみに自分が現在、メインの仕事場にしているのも、
天王寺の「コワーキングスペース」「カフェ」になります。
 いずれ言及させて頂く機会を持てればですが、
「あべのハルカス」「あべのキューズモール」も、いまや自分の仕事場・勉強場です。)



(写真2)。(写真1)の左側の拡大写真。
「日々の努力が報われますように」、
「自分の力を信じて、力を出し尽くしてください」、
そう、「全力を出し切る」こと自体に、とても意義がある!と
自分はとても信じていますし、
「詰め込みすぎ注意!溢れる前に一呼吸!」
これをも含めて、とても強い説得力を感じます。
(いまでも自分は、勝負どころのとき、「深呼吸」がルーティンの1つです。)



(写真3)。(写真1)の左側の拡大写真。
「これまで積み重ねた努力の日々」、「努力は裏切らない」。
かくいう自分は「全身全霊」が座右の銘ですけど、
「努力に勝る天才なし」も、自分自身の信念の1つです。
(まあ正直、「努力が報われなかった」ことも少なからずですけど、でも、
「努力をし続けられる人間こそが、志を叶えられる、転機をつかめる」、
自分はそう強く信じていますし、それが実体験でもあるんですよね。)



(写真4)「2023年(昨年)の受験シーズン」での、
天王寺駅の中央口(最も大きな出入口)を出てすぐ右側にある、
「がんばれ受験生!」の特設のホワイトボード。
そう、「2023年版」は、「とてもシンプルな感じ」ですけど、
今年、つまり「2024年版」は、「凝っている」分、
「想いの強さ・深さがより伝わる」になっています。



 …と、結局、想像以上の長文及び乱文になってしまいましたけど(激汗)、昨年(2023年版)と重複の感じになりますが、自分自身の信念でもありますので、自分の「想い」を伝えさせて頂いて、末文とさせて頂きます。


 「自分がいままで積み上げた努力を信じて、『全身全霊』で『最後の1秒までやり遂げて欲しい』!そうすれば、きっと道が拓けるから!
 『自分を落とせるものならば落としてみろ!』、そう思えるほどの想いで臨めるならば、きっと『笑顔の結末』を叶えられるから!」


 「全身全霊」「努力に勝る天才なし」「最後の1秒まで絶対にあきらめない」。
 いずれも自分自身が「とても大切にしている言葉」で、特に、「全身全霊」は自分自身の最大の「座右の銘」です。


 「努力し続ける姿勢」は「向上心」に、「感謝し続ける姿勢」は「思いやり」に強く結び付きますし、この「向上心」「思いやり」こそが、「人間として最も大切なこと」である「プロ意識」に強く結び付く、そして「人間としての最大目標」といえる「天職」に就くことを叶えることに結び付く、自分はそう強く考えています。


 「一人一人それぞれが、『自分らしく』生きられる社会。
 一人一人それぞれの個性が『尊重される』『伸長される』社会。
 『100人いれば、100通りの個性がある』が大切にされる社会。」
 このような社会像が叶うことが、自分が一人の人間として「叶えたい景色」です。


 そう、自分自身、「書くこと、伝えることで生きていく」道を歩み始めて、ちょうど2年です。
 「誰かを応援し続けられる人間でありたい」、この想いを叶えられる(=「自己実現」)、で、自分自身が持ってる資質能力をより最大級に活かせるであろう道、それで導き出した答えが「書くこと、伝えること」でした。

 自分も、「初心、原点をずっと大切にし続ける」、ということは勿論ですし、そう、「誰かを応援したい」と共に、いわば「自分用メモ」的な感じでもあるのです。

 そして、「自分らしく生きる」こと。「100人いれば、100通りの個性がある」、これが自分自身の「信念」であるからこそですし、「書くこと、伝えること」という道を歩むと心に決めたのは、「自分は、自分のペース・リズムでしか生きられない人間だから」、これも正直あります。尤も「自分らしさ」がどれほどできているのかなと、悶えることも少なからずですが。

 ですけど、嫌だからこそ、「後悔のないように」。
 「誰かの笑顔が、自分の生きる喜び」。だからこそ、自分自身、「全身全霊」、これを改めて肝に銘じよう、の想いです。


 【エッセイ#28B】【社会貢献#7B】

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